第15話 ティアの秘密
祖父アメンナクテの葬儀が落ち着いた頃、アルウはあらためてティアに結婚を申し込むため、彼女を連れて、子供の頃いつも二人で川遊びをしたナイルのほとりの一番背が高い椰子の木がある場所へ出かけた。
「ここに座ろう」
「うん」
二人は椰子の木を背に並んで座りナイルを眺めた。
「ティア」
アルウは改まってティアに向き直った。
「は、はい」
ティアは少し緊張した。
「一緒にアビドスに来てほしい」
「アビドスへ……」
「うん。一緒に暮らそう」
アルウは真剣にティアを見つめた。
「嬉しい……」
そう言ったきりティアは急に沈黙した。それから唇をかたく結んでナイルを眺めた。
「ティア、一緒に来てくれるよね」
アルウは返事を待った。
ティアは沈黙したままナイルを眺めた。
「ティア……」
アルウはすぐにティアからよい返事をもらえると思っていただけに、彼女の沈黙に不安を感じた。
「ティア、結婚しよう」
アルウはあらためて彼女に求婚した。
二人の間に長い沈黙が続いた。
「……ごめんなさい。やっぱりそれは出来ないわ」
長い沈黙の後、ティアはアルウから目をそらしたまま、彼のプロポーズを断った。
「いったいどうして?」
「あなたを愛しているからよ」
「愛しているのに、どうして駄目なの? 僕にはわからない」
「あなたに迷惑をかけたくないの」
「いったいどういうこと? きちんと理由を説明してくれないと僕は納得できない」
アルウは強い調子で言いながら、ティアの顔を覗き込むと、彼女は大きな黒い瞳に涙を一杯潤ませていた。
「ティア、ごめんなさい」
ティアの涙に驚いたアルウは、すぐに優しく謝ると、彼女は両手で顔を覆い声を上げて泣き崩れた。
「ティア……」
「ごめんね、ごめんね」
「……」
アルウは泣き続けるティアをどうすることも出来ず、ひたすら彼女の背中を優しく擦った。
暫くして落ち着きを取り戻したティアは、
「ごめんなさい」
涙を拭いながら謝ると、彼の隣に座り直した。
「君の気持ちをきちんと確かめないで。君を苦しめてしまったね」
「アルウ、違うの」
「違うって……」
「あたしもあなたを愛しているわ。でもあたしは隠れアテンなの」
「アテンって、まさかアテン教……」
「その通りよ」
アルウは一瞬我が耳を疑ったが、すぐに気をとりなおすと自分の気持ちを素直に伝えた。
「そんなこと関係ないよ! 僕は君が何を信仰してようと君を愛してる」
「駄目よアルウ!」
「愛してるんだ! 信じて欲しい」
「あたしもあなたのこと愛してるわ。でもあたしと一緒にいれば、あなたは何もかも失う。地位も名誉も財産も、そして命さえも」
「それがどうしたって言うんだ。僕は君がアテンだろうと君を命懸けで守る」
「どうしてわかってくれないの! あたしはあなたを守りたいの」
「僕だって君を守りたい」
「アルウお願い。わかって」
お互いの愛の深さを確信すると、二人は目に涙を一杯溜めて見つめ合い、強く激しく抱き合って涙を流した。
暫くの後、二人は落ち着きを取り戻すと、
「アルウ、何もかも話すわ」
ティアは涙を手で拭いながら話し出した。
「うん」
「あたしがなぜアテン教徒なのか。それは、あたしにアクナテンの血が流れているから」
「き、君は」
「エジプトの神々をすべて否定して、アテンだけを唯一神とし、異端の王とされ王名表から抹殺されたアクナテンはあたしの曾祖父」
「……」
「そのアクナテンの娘であり、ツタンカーメンの王妃だったアンケセナーメンは祖母」
「それであの時、君はぼくをアマルナへ連れて行ったんだね」
「そうよ。でもそれはあなたにアマルナの美術を見てほしたかったの。きっとあなたの役に立つと思って」
「アマルナの血は僕の作品の全てに織り込まれている。それが平和へのメッセージだから。今の僕があるのは君のおかげなんだ」
「嬉しい、アルウ。でもあたしの母は、ツタンカーメン王とアンケセナーメン王妃との間に生まれた王女」
ティアがそこまで話すと二人は沈黙した。
二人の目の前を鳥たちが飛び交い、香料や油を沢山積んだ小型の船や、上流に帆走する船が行き交った。
ナイルを眺めるティアの唇は硬く結ばれたままだ。アルウはティアの方に少し顔を向け、彼女の上品で端正のとれた横顔を見つめると重い口を開いた。
「……ツタンカーメンとアンケセナーメンの間には、早産ですぐに死んだ姉妹しかいなかったはずだけど」
アルウの問いかけに、
「二人目の姉が早産で亡くなった翌年に、密かに第三王女を産んだのよ」
「密かに?」
「あの頃ツタンカーメンとアンケセナーメンの命がアメン神官らに狙われていたの。もちろん信頼する部下や神官は次々と惨殺されたわ」
「いったいどうして?」
「ツタンカーメン王がアテン信仰を復活しようとしたからよ」
「いったいなぜ」
「あなたには理解できないかも知れないけど、アクナテンが始めたアテン信仰は王族も貴族も政府高官も、いや、学者、芸術家、一般市民に至るまで、多くの人々に歓迎され支持されたわ」
「そんなにも……」
「どうしてなのか、わかる?」
「……」
「アテン教が魂の信仰だからよ」
「魂の信仰……」
「アメン神官団は、神に仕える特権を利用して、王家や民から事あるごとに土地や財宝を巻き上げ富を増やした。しかも、政治に介入したり、祭事の度に賄賂を露骨に要求したりして、横暴の限りを尽くした。彼らは神官とは名ばかりの堕落した存在だった」
「たしかにそれは今も否定できない」
「純粋で心の澄んだアクナテンの目に、信仰の欠片もない煩悩の塊のようなアメン神官団がどう映ったか」
「……」
「腐敗と堕落の果てに、自分の罪や穢れにも気づかないアメン神官団。アクナテンは彼らの姿を通して真の信仰とはどういうことなのか? 全ての人々が愛に目醒め、魂を磨き、神様の愛に近づくにはどうすればいいのか? 思索を続けるうちに、ついにある日の朝、アクナテンは、昇り始めた太陽を見詰めていると、彼の全身に目が眩むほどの激しい金色の光が降り注ぎ、稲妻が落ちるような衝撃を受けたの」
ティアは目を輝かせて語り続けた。
「アクナテンはそのとき神様から御言葉を授かった」
「御言葉……」
「人々の魂を愛と光に導けと」
「愛と光」
「そうよ。愛と光。アクナテンは、その時、目醒めたの。この世を愛と光に満ち溢れた世界にしようと。全ての人間が愛と光に目醒めれば、人間は幸せを分かち合い、赦すことを学び、執着を手放し、欲や憎しみや怒りから解放される。そうすれば世界から飢えや戦争はなくなり、真の平和な世が訪れると」
ティアの目は真剣そのものだった。
「アテン教は素晴らしい信仰だったんだね」
「わかってくれて嬉しい」
ティアが微笑んだ。
「それでツタンカーメンはアテン信仰を取り戻そうとしたのか」
そう言ってアルウは頷いた。
「ツタンカーメンとアンケセナーメンは、幼い頃から、父アクナテンと母ネフェルティティに導かれ、アテン教を信仰していたの。ところがアメン神官団の謀略で、アテン信仰の継続が困難になり、アクナテンが失意のままこの世を去ると、王と王妃はアメン信仰に改宗させられた。本当はアテンの名をつけた、ツタンカーテンとアンケセンパーテンという名前だったのに……」
ティアの表情が再び硬くなった。
「王と王妃はさぞ悔しかっただろうね」
「ええ、ツタンカーメンとアンケセナーメンが結婚し王位を継承した時、二人はまだ十歳と十二歳だった。だけど、王と王妃はアメン神官団の横暴と狡猾さに気づいていたわ」
下唇をきつく咬んだティアの表情に悔しさが滲んだ。
「アマルナからメンフィスに王宮を遷都しても、王と王妃は密かにアテン信仰を続けていたんだね」
「そうよ。だからツタンカーメンは十八歳になると、側近達の言いなりにはならず、自分の意思で政治を動かしはじめたの」
「その手始めがアテン信仰の復活だったのか」
「その通りよ」
「だから……」
「ツタンカーメンとアンケセナーメンは純粋すぎたの。だから正々堂々とアテン信仰の復活宣言をしようとしたわ」
「その大胆な動きが、アメン神官団を刺激したんだろうか」
「あたしは違うと思う。もとからアメン神官団にとってアクナテンの王家とその家臣団は目障りだったのよ」
「アケトアテンの都を捨て、アメン神を信仰していたのに?」
「王と王妃、軍司令官ホルエムヘブ、宰相のアイはメンフィスに来てからもアマルナ風の生活をやめなかったわ」
「……」
「アケトアテンは太陽の都、この世で最も天国に近い都、光り輝く愛の都だったの」
そこまで話すとティアの頬に涙が一滴流れた。
「王も王妃も家臣も市民もアテンを信仰する人々はアマルナを愛していた。だからその想いが強ければ強いほど信仰復活にかける王への期待も大きくなったの」
「だからこそツタンカーメンはアテン信仰を復活しようとしたんだね」
「みんなの想いを王様は感じ取っていたに違いないわ」
「でも王様も王妃様もあまりにも若く正直すぎたんだ」
「残念だけどあなたの言う通りだった。出来上がったアテン神を唯一神とするアテン信仰復活の宣言文は側近の裏切りですぐにアメン神官団の手に渡り、激怒した彼らは暗殺部隊を宮殿に送り込んだの」
「それでツタンカーメンとアンケセナーメンは、君のお母さんを守るために王女の誕生を隠したのか」
「ええ。身の危険を察知したアンケセナーメンは私の母の命を守るため、生まれたばかりの母を乳母と信頼できる部下に託して、安全な場所に隠したの」
「まさかツタンカーメン王の急死は……」
「飲み物に毒を仕込まれたあげく、苦しんでいるところを宮殿のバルコニーから突き落とされて殺害されたのよ」
「殺害された……」
「表向き王様は戦地で事故死したと発表されたけど」
「いったい誰が」
「犯人はツタンカーメンの二人の家臣と二人のアメン神官」
「どうして暗殺者がその四人だと?」
「アンケセナーメンが駆けつけたとき、ツタンカーメンが一度息を吹き返して一部始終を王妃に話したからよ」
「……」
「アンケセナーメンは愛する夫を殺害され、しかも隠していた娘の身にも危険が迫り、なかばノイローゼになりかかっていたわ。それでもアンケセナーメンはアクナテンとツタンカーメンの意思を継いで世界を愛と平和の世にしたいと思っていた」
ティアは右手で砂を握りしめて悔しさを滲ませた。
「惨すぎる……」
「アンケセナーメンが、ヒッタイトの王に親書を送ったのはそんな時だった」
「アンケセナーメン王妃が、敵国ヒッタイトの王子を婿にしたいと親書を送った噂は本当だったのか」
「アイの死後、そのことでアンケセナーメンは国賊、裏切り者、売国奴と罵られた。でも、あの時王妃はああすることが世界を平和にする唯一の選択肢だと判断したの」
ティアは語気を強めた。
「わからない。なぜヒッタイトの王子を婿としエジプトの王にすることが世界の平和につながるの」
さすがのアルウも困惑した。
「それはアンケセナーメン王妃がハトシェプトのようになり、アクナテンの世界平和の意志を受け継ぎ実現しようとしたからよ」
「ハトシェプトのようになってアクナテンの意志を実現……」
「アテン神は愛と光と平和の神様なの。だから戦争を好まなかった。アクナテンはアテン神の御心のままに政を執り行い、人々に説いたわ『アテン神を信じ愛と平和を祈れ。エジプトの祈りが世界を覆い尽くし世界中の人々がアテン神の愛に目醒める時、この世に真の愛と平和が訪れる』とね。王妃ネフェルティティもそう信じていた。だからアンケセナーメンは幼い頃から父親アクナテン王と母親ネフェルティティ王妃からアテン神の愛の信仰を学び続けたの」
アテン信仰の真髄を語ったティアの目は、自信に満ち溢れていた。
「敵国ヒッタイトの王子を婿に向かえることで、ヒッタイトの王子をアテン信仰に感化させ、エジプトとヒッタイトに完全な平和的外交関係を築こうとしたのか」
「その通りよ。でもそれだけじゃないわ。エジプトとヒッタイトという超大国がアテン神のもとで、愛と平和な国になれば、世界中の国もそれにならい、この宇宙に完全な平和が訪れる」
「美しい……でも、でもその思想はあまりにも純粋で崇高すぎる」
「純粋で崇高だからこそ人々の魂と心を覚醒できるわ」
「もちろん。でも人間の心はまだそこまで成熟してなと思う」
「だからこそアテン信仰が必要なのよ」
二人の話は平行線をたどった。
アルウはティアの信じるアテン教を素晴らしい信仰だと思った。しかし、信仰の深みにはまりすぎてティアは自分を見失っているようにも思える。
「アテン神が愛と平和の神様なら、どうしてアクナテンはこれまでのエジプトの神々を排除したの?」
「それはアメン神官をはじめとする、エジプトの宗教界が私利私欲に走り堕落し腐敗していたからよ」
「たしかにそうかもしれない、でも神々を純粋に信じる市民から、彼らの神様を取り上げる権利はないと思う」
「……」
「ぼくはアクナテンがアテン神を唯一神としたことが、宗教革命失敗の原因だったんじゃないかと思う」
ティアはアルウの問いに沈黙した。
アルウはこれ以上彼女を追い詰めてはいけないと思った。
二人の間に長い沈黙が続いた。
しばらくしてティアは重い口を開いたが、アルウの問いには答えず、再び語りはじめた。
「ツタンカーメンの葬儀が執り行われたのは四月。死者の〝開口の儀〟は葬儀委員長のアイが執り行ったわ。でもその時、王の暗殺に加わったアメン神官が何食わぬ顔で参加していたの」
「……」
「ツタンカーメンに黄金のマスクが被せられ、第一の純金で覆われた棺の蓋が閉められると、アンケセナーメンはその蓋の上に矢車菊を丁寧に置いた。さらにその純金の棺を入れた第二の人の型をした棺の蓋が閉められると、その蓋の上にも矢車菊を丁寧に置いた。そして、第二の棺を入れた第三の棺が閉められると、その蓋の上にも矢車菊を。最後に石棺の蓋が閉められると、その上にも」
「アンケセナーメンは心からツタンカーメンを愛していたんだね」
「そうなの……アメン神官団が流したデマでアンケセナーメンはツタンカーメンを殺害したと誹謗中傷をうけたけど、彼女は夫を愛しエジプトを愛していたのよ」
ティアの目から涙がポロポロと落ちた。
ティアはなおも話し続けた。
「ツタンカーメンが殺害された後、アンケセナーメンは王となるべき婿を迎えなければならなかった」
「その時、エジプトを平和にし世界を平和にするにはどうすればいいかを考えたんだね」
「そうよ。その通りよ。アンケセナーメンは醜い争いや戦争にうんざりしていたの。悩んで導き出した結論がヒッタイトから王子を迎えることだった」
「それがあの時の外交事件の真相だったのか」
「希望を失ったアンケセナーメンはツタンカーメンの埋葬が終わると、形式的にアイと結婚した。アイは最後まで忠実な臣下だったわ」
「アイはアンケセナーメンを守ったんだね」
「ええ」
「アイも暗殺されそうになったわ」
「いったい誰から」
「犯人はアメン神官の過激派グループの一味よ」
「なぜそんなに執拗に命を狙うんだ」
「アメン神官らは恐れていたのよ」
「なにを?」
「自分たちの利権を失うことを。だからアテン教の復活を恐れ、アテンを信仰する者、した者を徹底的に攻撃したの」
「じゃ、まさかアイの死後、アンケセナーメンの行方がわからなくなったのは……」
「アイの死後、アンケセナーメンの殺害に失敗したアメン神官団の過激派グループは、王位継承権をアンケセナーメンから剥奪するために、王宮や神殿や町中に『アンケセナーメンは敵国ヒッタイトの王子と婚約しエジプトを売ろうとした売国奴だ』という怪文書をばらまいた。そして彼らの巧妙な作戦は成功したわ」
「その話、僕も聞いたことあるよ……」
「アイ亡き後、最高実力者になった軍司令官ホルエムヘブは軍部によるクーデターを起こし十八王朝を滅ぼしたの」
「軍事クーデター……」
「王宮に新しい王様、ホルエムヘブが入るとアンケセナーメンはテーベ郊外の離宮に移されたわ。そして……」
そこまで話すと、ティアはナイルに目をやった。
「アンケセナーメンは隠していた娘、いや、君のお母さんと再会できたの?」
「アンケセナーメンは最後の時まで、あたしの母とは会えなかったの」
「命を狙われるから?」
「そう狂信的なアメン教徒の一派は、アンケセナーメンが公式の場から姿を消してからも、執念深く二人の命を狙っていたわ。でもそれに加えて売国奴の汚名を着せられたので、その汚名が母に及ぶのを恐れたの」
「親子なのに一緒にいれないなんて……」
「アンケセナーメンは、娘をツタンカーメンが信頼した側近で、王室財務管理官であり職人長でもあるマヤに託したの」
「じゃ、君のお母さんは財務官のマヤを父親と思って育ったんだね」
「幼い頃はそうだったらしいわ。でもアンケセナーメンが死ぬと、マヤ夫婦はまだ九歳だった母に全てを話したの」
「ツタンカーメンの側近だったとはいえ、なぜ王室財務官のマヤは危険をおかしてまで君のお母さんを守ったの?」
「それはアテン信仰という魂の絆で繋がっていたからよ」
「じゃ、まさか王室財務官マヤも隠れアテン信者」
「そうよ。だからマヤは盟友で隠れアテン信者でもある王室付将軍ミンネクトと協力してツタンカーメンの王墓を守り、ツタンカーメンとアンケセナーメンの娘である私の母を守ったの」
「ホルエムヘブ王の時代でもかなりの昇進を重ねた大物高官だったマヤも隠れアテンだったのか」
「そしてマヤはあたしの祖父なの」
「え、じゃ君のお母さんは」
「マヤが養子にした息子の一人、ユヤと結婚してあたしを産んだのよ」
「そうだったのか……」
「でも父も母も隠れアテンということがばれて、狂信的なアメン教徒らに惨殺されたわ」
「酷すぎる……」
「あたしには王家の血が流れているわ。でもアクナテンの血族。エジプトを辱めた血。邪教、アテン教徒」
「ティア、駄目だよ。自分をそんなふうに傷つけちゃいけない」
「アルウ、わかったでしょう。だからあたしと一緒にいれば、あなたも命を狙われるし、王様から遠ざけられてしまうわ」
「そんなばかな。もうエジプトは平和で安定しているし、国内の混乱もなくなっているじゃないか」
アルウはつとめて明るい声で話した。
「そう、たしかにあなたのいうとおりかもしれない。でも今のエジプトは、アクナテンが築こうとしたエジプトとは遠くかけ離れた国になってしまった」
「いったいどういう意味なの?」
「アクナテン、スメンクカラ、ツタンカーメン、アンケセナーメンが夢み、築こうとしたエジプトは、高い精神性を誇る、愛と魂が輝く光のエジプトだった。でも今のこの国は平和と豊かさの名の下で、欲を膨らませ戦争ばかりを繰り広げている。確かにそのおかげで国土は回復し、国は富み、民の暮らしは豊かになった。でもその一方で、アメン神官団はさらに堕落して富と権力に執着して腐敗しているわ。そして王族も貴族も市民でさえも物質的な豊かさばかりを追い求め、心や魂を磨くことを忘れ堕落している」
「堕落か」
「いまのエジプトは物質的に富んでいても愛のない冷たい国家だわ」
ティアのアルウを見る目が挑戦的になった。
「物欲がこの国を支配しているというの?」
ティアの指摘は正しく鋭いと思った。しかしアルウは何かが喉にひっかかり納得できないでいた。
「あたしはだからアテンなの。あたしがアテンなのはあたしがアクナテンの血を継ぐものだからじゃないわ。アテン信仰こそがこの腐敗したエジプトと世界を平和にすることが出来る唯一神と信じているからよ」
「それはラムセス王朝が、君たち前王朝の一族を断罪していることに対する反発心から出たんじゃないのか」
「違うわ! あたしは腐敗したエジプトを浄化したいの。世の中から戦争や憎しみを無くしたいの!」
「ならどうしてアテン神は唯一神なんだ! 排他的だから他の神々や信仰とトラブルだ。アメン神でさえも他の神々の信仰を妨げないんだよ」
ティアは唇を噛みしめてアルウを睨んだ。
「ご、ごめん」
「あなたは王様に寵愛されているわ。そしてこれからもますます大切にされることでしょう。だからあたしはあなたの障害になるばかりの疫病神なのよ」
「そんなばかな。君がどうして障害になるんだ。王様は寛大だから心配いらない」
そう言いながらティアの手を握ろうとすると、ティアは彼の手をはねのけ、
「あなたは王の本当の怖さを知らない。お願い、もうあたしのことを忘れて!」
ティアは激しく叫んで大粒の涙を流した。
「ティア、愛しているんだ! 命に掛けても君を守る」
アルウの胸はティアの苦しみを何とかしたいという愛の思いで溢れ、もう自分の地位や名誉など失ってもかまわないとさえ思った。
「だめよ」
ティアは両手で膝を抱き、その中に顔を埋めてすすり泣いた。
「エジプトには沢山の神様がいる。アテン神もそのなかの一柱じゃないか」
アルウの言葉を聞いたティアは急に顔を上げきつい目で彼を見た。
「エジプトの神は世界の神はアテン神だけよ」
「そんな……」
「唯一アテン神だけが真の神よ」
ティアが強い口調でそう言い切ったので、アルウの心はショックで張り裂けそうだった。
「どうして唯一神にこだわるの?」
涙顔だったティアの表情が一変し、
「何度でも言うわ。アテン神だけが真の神様だからよ。そして世界を愛と平和にできるのはアテン神をおいてほかにないわ」
二人の間に重苦しい空気が流れた。
長い沈黙のあとようやくアルウが口を開いた。
「アテン神がそんなに素晴らしい神様なら、僕もアテン神を唯一神として崇めるよ」
アルウはティアとの愛を貫くために本気で全てを捨てる気だった。
「アルウ……」
ティアはアルウの言葉を聞いて我に返った。そして彼がどれだけ深く自分を愛してくれているのか気づいた。
「駄目よ。あなたがそんなことを口にしては駄目! アテン教はこのエジプトでは邪教とされているわ。アテン神を信仰すればあなたは全てを失い、命さえ奪われる!」
ティアの目はさっきまでの挑むような目つきから、打って変わって、愛する人を何としてでも守りたいという愛に満ちた優しい目に戻っていた。
「同じエジプトの神様を信仰するのに、邪教だなんてまったくおかしいよ。神様に正神も邪神もあるものか。オシリス神を殺したセト神だって邪神とはされていないじゃないか」
アルウは語気を強めた。
「あなたの言う通りよ。でも、あなただってわかっているでしょ。アテン信仰はアメン神官団から忌み嫌われているの。そして今の王様も私たちの王朝を嫌い、私たちの王朝を徹底的に否定した。そしてアクナテンをはじめとする、わたしたち一族の名を王名表から削除したのよ」
「でも、でもそれは君の責任じゃないし、君が背負うことじゃない」
「アルウ、わかって。そうはいかないのよ」
「どうして? もっと深い理由があるのなら話して欲しい」
再び二人の間に重苦しい空気が流れた。
その時、背後の葦の茂みからざわざわという音がした。
「誰だ!」
アルウが立ち上がり叫ぶと、見知らぬ二人の男が慌てて走り去った。
「アメン神官団の手下よ!」
ティアの顔から血が引いた。
「やつら何をしていたんだ」
アルウは両手を握りしめ憤った。
「きっと、ずっとつけてきて、あたしたちの会話を盗み聞きしてたのよ」
ティアは怯え脚の震えが止まらなかった。
「大丈夫さ。あいつら、なにもできないよ」
アルウはそう言って、震えるティアの手を優しく握った。
「あなたを愛しているの。だからもうあたしのことは忘れて。あたしと一緒にいたら、あなたの命も、家族の命さえも狙われるわ」
「ティア、一緒に国外へ逃げよう」
「アルウ、わかってそれは出来ないの。あたしは同胞を見捨てるわけにはいかないのよ」
「同胞? もしかして、国内の隠れアテン教徒……」
「そうよ。沢山の信徒がいるわ。あの人たちを見捨てるわけにはいかないの」
「そんな……」
「あたしは、あの人たちと一緒に夢と希望を勝ち取るの」
「君はアクナテンの血を継ぐ唯一の生き残りの王女だから、アテン教徒の希望になっているというのか」
アルウはそう言って下唇をきつく噛みしめた。
「あたしには血の使命、いいえ、血の宿命というものがあるの」
「血の使命、血の宿命だって」
「あたしはアテン信仰を復活させ、エジプトを唯一神アテンのもとに統一しなくてはならないの。そしてそうすることでしか、地上から戦争をなくし、世界を平和にすることはできないわ」
ティアの言葉を聞いてさすがにアルウも言葉を失った。そしてどう考えても、彼女は信仰や血に自分で自分を縛っているとしか思えなかった。
「ティア、君が一人ですべてを背負う義務はないよ」
「アルウ、わかって。これがあたしの宿命なの」
「ティア、愛しているんだ」
アルウはティアを見つめ肩を抱いた。
「アルウ、あたしあなたに愛されて幸せでした」
涙目でそう言うと、ティアはアルウの手を振り切り、ナイルに向かって駆け出した。
「ティア!」
驚いたアルウがティアを追いかけると、突然、貴族が乗る大きな船が船着き場に現れ、彼女を乗せて走り去った。
一瞬の出来事だった。
「ティア……」
アルウはしばらくその場にたたずみ、小さくなっていく船を呆然と眺めるばかりだった。
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