第14話 アメンナクテの死
そのころテーベでは、早ければ年明けにでもアルウが一時帰宅するというので、ヘヌトミラもムテムイアも、そして恋人のティアが愛しい人との再会に胸を膨らませていた。
さらにアルウの家族にとって嬉しい出来事があった。アメンナクテがテーベの職人長に返り咲いたのだ。警察を統括する友人レクミラ市長の指示で、職人長のポストを不正にアメンナクテから奪ったパネブの陰謀が暴かれたのだった。パネブの罪は彼から指示を受けた弟子の三人が被らされ、パネブは証拠不十分で釈放されたが、弟子達の監督不行き届きで職人長を解任された。もちろんパネブは裁判所に訴え無罪を主張しのだが、彼の訴えはあっけなく退けられた。
パネブは自分の窮状をなんとかしてもらおうと再び副総理のペンタウェレトを頼った。
「約束はどうなったんですか」
「物事には時期がある」
「時期ですと」
「そうだ」
「その時期のおかげでわたしは職人長を首になってしまいました」
「今回の事件は自業自得であろう」
「ですが、あなた様が早くあの爺を排除していれば……」
「黙れ! このわたしを責めるのか」
「あなた様には沢山の財宝や女奴隷を世話しました。よもやお忘れではありませんよね」
「その分おまえも良い思いをしたではないか」
「な、なんですと! 開き直られるおつもりですか」
「なにぃ」
「いや、その……」
「元を正せばお前の欲深さが招いたことだろう」
「……」
「口答えするならさっさと出て行ってもらおう」
「いえ、その……」
「なんだ!」
「も、申し訳ありません」
「よし。貴様の無礼な振る舞い、今回に限り大目に見てやろう」
「あ、ありがとうございます」
「よく聞け。おまえのお粗末な情報だけじゃリスクが大きすぎると判断した私は、政府の機関に調査をさせた。すると驚くべき事実が浮かび上がった」
「ど、どういう事実ですか?」
「おまえの情報通り確かにあの小娘、隠れアテンと繋がりがある」
「でしょう」
「馬鹿め! そこまでだからおまえの情報はあてにならんのだ」
「といいますと」
「アクナテン王の死後、新王朝やアメン神官団から徹底的に弾圧され迫害されたアクナテンの血族やアテン教徒らが、どうしていまだにエジプト国内に存在するのか」
「奴らは逃げ足が早いし……」
「だからおまえは馬鹿なのだ!」
「も、申し訳ありません」
「奴らの背後に支援者がいるのだ」
「支援者……エジプト国内にですか?」
「王朝の中にも民衆の中にもだ。その上さらに……」
「その上さらにですと!」
「ヒッタイト王国だ」
「ま、まさか」
「そのまさかだ!」
「たしかに我が国とヒッタイト王国とは、お互いを仮想敵国として緊張状態が続いていますが。まさかそこまでヒッタイトの手が伸びていたとは」
「ツタンカーメン王亡き後、王妃アンケセナーメンがヒッタイトの王、シュッピルリウマ一世の王子を婿に迎えてエジプト国王にしたいと手紙を送った話を知っているか?」
「確かその事件……アンケセナーメンの手紙を読んで大喜びしたシュッピルリウマ一世が、王子ザンナンザをエジプトに送ると、王子の一行がエジプト領に入ってまもなく、謎の失踪をした……」
「あれはホルエムヘブ王とラムセス王の軍隊が待ち伏せして皆殺しにしたのだ」
「み、皆殺しに」
「当時、我が国はアクナテンの失政で国力が弱体していた。その隙に乗じてヒッタイトは我が国と同盟関係にあったミタンニ王国を滅ぼし次々とエジプトの属国を支配下に治めていたのだ」
「ヒッタイトに一泡吹かせるために皆殺しにしたんですね」
「それだけではない。暗殺した証拠を残さないためだ」
「王子の大軍、しかも親衛隊を含む精鋭軍が砂漠に消えたんですよ。さすがにシュッピルリウマ一世を欺くことは出来なかったでしょう」
「エジプト軍が暗殺した証拠は見つからなかったが、おまえが言うとおりヒッタイトを欺くことは出来なかった」
「それでシュッピルリウマ一世は怒り、我が国の領土アムカやカナンに侵攻したのですね」
「だがシュッピルリウマ一世は抜け目なかった。全面戦争を仕掛けるには時期尚早と判断すると、今度は我が国を内部から崩壊させようと画策した」
「いったいどうやって?」
「旧王朝の勢力と隠れアテン教徒だよ」
「奴らが……」
「そうだ。ここでやつらが絡んでくる。エジプトで迫害され弾圧された前王朝の王族やアテン教徒らをヒッタイトは受け入れた。そして王族には亡命政府をつくらせ、アテン教徒らは唯一神アテンのための戦士として訓練したのだ」
「なんですと!」
「ヒッタイトはアテン教徒らに洗脳教育を施した──エジプトを真の神アテンに目覚めさせるには聖なる戦いが必要だと──洗脳されたアテン教徒らは、戦士としての訓練を受けテロリスト集団として生まれ変わると、再びエジプトに入り込んだのだ」
「なんて恐ろしいことを」
「しかもテロリスト集団はエジプト国内の隠れアテン教徒やヒッタイトのスパイらと連携をとりながら、我が国に内乱を起こそうと様々な破壊工作を続けている」
「そこまで情報を掴んでいながらなぜ隠れアテンらを逮捕拘束しないのですか?」
「一般市民の中に紛れ込んでいる奴らをどうやって判別できるというのだ」
「たしかに」
「エジプト警察も手を焼いているのだ」
「警察の情報でしたか……」
「たしかにあの小娘は隠れアテンに違いない。だが、そのことをスキャンダルにしてアメンナクテ一族を追放しようとは浅はかだったな」
「なぜですか? 隠れアテンがテロリストだという情報をそこまで確実に握っているのでしたら、その小娘と付き合っているアルウやその家族は、テロリストを匿っている犯罪者という事になりませんか?」
「たしかにその通りだ。だが、事はそう簡単にはいかないのだ」
「わかりませんな。なぜですか?」
「それはあのティアという小娘が前王朝の……」
その時、秘書官が部屋に入ってきて、急な来客を告げた。
「副総理、ヒッタイト国から密使が来て副総理との謁見を希望しております」
「ヒッタイトから密使!」
パネブは驚きペンタウェレトを見た。
「よかろう。すぐいく」
ペンタウェレトは顔色ひとつかえずにそう返事すると、
「パネブ。もう少し待て」
そう言って秘書官とともに部屋を出て行った。
一時帰宅を許されたアルウは、さっそくナイルを船に乗ってテーベに向かった。故郷を離れておよそ一年ぶりの帰郷だった。ところが、今は我が家となった祖父アメンアクテの家に帰ってみると、アメンナクテはすっかり衰えて寝たきりとなっていた。
「アルウです。ただいま帰りました」
玄関先で大きな声で家人に呼びかけると、
「兄ちゃん!」
部屋の奥からすぐに妹ムテムイアが走って出迎えてくれた。
「アルウ、おかえり」
さらに妹の背後から懐かしい母の声が響いた。
ヘヌトミラとムテムイアはアルウに駆け寄ると、三人は抱き合って再会を喜んだ。
ヘヌトミラは我が子を惚れ惚れとした目で見つめ、
「見違えるほど立派になったわ」
そう言って両の手でアルウの頬を優しく挟んだ。
するとムテムイアが嬉しそうに微笑み、
「ティアちゃん、いつも兄ちゃんに会いたいって言ってたよ」
そう言いながらアルウの脇を肘で軽く突いた。
アルウは赤面して、
「ティアは?」
そう言いながら、からかう妹の頭を軽く撫でた。
「キャ!」
ムテムイアは笑い声を上げ、アルウの手をするりとかわして、
「ほとんど毎日のように遊びに来ていたから、きっと近いうち会えるわよ」
そう言ってニタニタした。
「な、なんだよ」
アルウはさらに赤面した。
二人のやり取りを見ていたヘヌトミラが、
「ムテムイアは兄ちゃんとティアに焼き餅焼いてるのね」
そう言いながら微笑んだ。
するとムテムイアは、
「そんなんじゃないもん」
ふくれ面で怒ったふりをした。
「ティアはほんとに良い娘。あなたの留守中にもよくわが家に遊びに来てくれ、しかもお祖父さんのお薬まで探してきてくれたのよ」
母の言葉にアルウはびっくりした。
「え、お祖父さんに何かあったの?」
ヘヌトミラは急に深刻な顔になった。
「ここ数ヶ月、急に体調が悪くなってずっと寝込んでいるのよ」
母の返事を待たずアルウは祖父の寝室に走った。それから静かに部屋に入って行くと彼の目に、ベッドに横たわった祖父の姿と、その傍らで祖父を介抱する愛しいティアの姿が飛び込んだ。
「おかえりなさい」
アルウに気づいたティアは優しさと愛情に満ち溢れた声で彼をむかえた。
「た、ただいま」
アルウがティアのところまで行くと、病気ですっかり痩せ衰え精気を失ったアメンナクテが小さく寝息をたてていた。
「お祖父様。アルウが帰ってきましたよ」
ティアはアメンナクテの耳元で囁くように伝えた。
すると眠っていたアメンナクテの瞼が微かに動いた。アルウはベッドに顔を乗りだし祖父に話しかけた。
「お祖父さん、アルウです。今、帰りました」
「アルウ、帰ったのか……」
「はい」
アメンナクテはゆっくり目を開け、逞しく成長したアルウを見つめた。
「すっかり職人の面構えになったな……」
「お祖父さんのおかげです」
「いや、おまえの努力の賜だ」
「ありがとうございます」
「おまえはわたしの誇りだ。おまえのおかげで、わしは息子ハレムイアに贖罪ができた」
アメンナクテの目に涙が滲んだ。
「お祖父さんは私を我が子のように大切にしてくれ、そして職人として必要なあらゆる知識と技法を教えてくれました。私の手はお祖父さんの手です。私の指はお祖父さんの指です。感謝してもしきれません」
アルウも目に涙を浮かべた。
すると傍で聞いていたティアも、ヘヌトミラも、ムテムイアもみんな涙を浮かべた。
深い悲しみが五人を包んだ。
アメンナクテは目を瞑り、眠ったようにしばらく沈黙した。あまりにも長く沈黙が続いたので、家族全員は祖父の目が二度と開かないのではないかと心配になった。
ティアが耳元で優しく囁いた。
「お祖父様」
アメンナクテの瞼が微かに動いた。
「ティア……」
それから祖父はアルウとティアの手を優しくとり、自分の手の下で重ね合わせた。
「ティア、どうかアルウの嫁になってくれまいか……」
アルウがびっくりしておもわずティアを見ると、ティアも恥ずかしそうに顔を赤らめアルウを見た。
「ティアはとても優しくよく気がきく娘だ。おまえを必ず幸せにしてくれる」
アメンナクテの言葉にティアが戸惑っていると、
「ティア、結婚してください。君を必ず幸せにする」
アルウはティアの目を優しく見つめながらプロポーズした。
「はい」
ティアは幸せに目を潤ませ承諾した。
その時、ヘヌトミラが二人のところまでやってきて、ティアに頭を下げた。
「ティアちゃん。ありがとう」
ムテムイアも二人を祝福した。
「兄ちゃん婚約おめでとう。ティアちゃん、兄ちゃんをよろしくね」
アメンナクテの枕元に跪き、アルウとティアは手を取り合った。
ヘヌトミラは優しくアメンナクテの手をとり、
「お祖父様、ありがとうございます。お祖父様のおかげアルウはこんなに立派になりました。そしてムテムイアもわたしも幸せになることが出来ました。感謝しても仕切れません」
そう言いながら、長年の手作業で関節が変形し湾曲したアメンナクテの手を擦った。
アメンナクテは涙を潤ませヘヌトミラに言った。
「ヘヌトミラ、息子ハレムイアを愛し大切にしてくれてありがとう。おまえのおかげで倅は、わしに人生を台無しにされたにもかかわらず、幸せを掴み愛に包まれた家庭を持つことが出来た。倅の短い人生もおまえのおかげで報われたと思う」
「お祖父様。もうご自分を責めないで下さい。わたしは夫にも愛され、そしてあなた様にも大切にされとても幸せです。しかもアルウも職人として立派に独り立ちすることができました。きっと夫ハレムイアもオシリスのもとで幸せに暮らし私たちを見守ってくれていると思います」
ヘヌトミラの言葉に、アメンナクテが目を開けていられなくなるほど涙を流すと、彼の枕元に跪いていたみんなも涙を流した。
しばらくして、アメンナクテが目を瞑ったままアルウを呼んだ。
アルウは祖父を見つめた。するとアメンナクテが小さな声で話し始めた。
「これからは神々がおまえを導いて下さる。どんな時でも神々の愛がおまえを守り、導き、包み込んでいることを決して忘れてはならない……闇をつくり出すのは他人ではなくの己の心だ。自分の中の嫉妬、憎悪、傲慢、怒り、悲しみ、執着する心が膨らみ、心の闇をつくり出すのだ。これからも人生の様々な試練で心が暴れ感情の嵐に呑み込まれることもあろう。だがいずれ嵐は静まり過ぎ去っていくものだ。永遠に続く喜びも幸せもなく、永遠に続く悲しみも憎しみもないのだ」
「永遠に続く喜びも幸せもなく、永遠に続く悲しみも憎しみもない……」
アルウは繰り返した。
「アルウよく覚えておくんだ。この世界に存在する全てのものはいつかは消え失せ、大いなるナイルの流れのように止まることなく変遷し続けるのだよ」
「止まることなく変遷し続ける」
アルウは祖父の言葉を噛みしめた。
「そうだ。この世は儚く脆く幻のようなものなのだ」
「この世が幻」
「それゆえ、人の命は大宇宙の営みの中では一瞬の煌めきにすぎない」
「命が一瞬の煌めき」
「人の命、動植物の命、すべての命が宇宙の中で生じては消え、消えてはまた生じる。だからこそ命の煌めきは尊く、命の一瞬の煌めきは宇宙の星々の如く光り輝くのだ」
「お祖父さん、わかりました。わたしは闇に囚われることなく、いまという瞬間を眩しいぐらいに輝いて生きます」
「その言葉を決して忘れるな」
「はい!」
「おまえの真の人生はまだ始まったばかりなのだ。これから様々な経験をするだろう。それらは愛の経験ばかりではなく、意図せず罪や穢れを被ることもあるかもしれない。だが、あらゆる経験の中にオシリスの愛があることを決して忘れてはならない」
「お祖父さん、わかりました。どんな時もオシリスの愛に包まれていることを忘れません」
アルウの返事を聞いたアメンナクテは孫の頭を優しく撫でながら微笑んだ。
「いついかなる時でも、自分が光であり愛であるということを忘れてはならない」
「はい、決して忘れません」
「それでいい」
アメンナクテは小さく頷き安心すると再び目を閉じて眠った。
それから数日後、アメンナクテは家族に見守られながら静かに息をひきとった。八十九歳だった。葬儀に駆けつけた町の人々は、アメンナクテ爺さんが長生きしたのは、戦争で死なせてしまった息子の分まで長生きして、お孫さんの成長を見届ける為だったんだろうと口々に噂し合った。
アメンナクテの遺体は数週間かけてミイラにされた。葬儀にはテーベ市長レクミラも来てくれ、アルウの家族や工房の弟子達や親しかった町の男や女達が見守る中、神官たちが細心の注意をはらいながら儀式を執り行った。それから柩は白い雄牛が牽く木製のソリによって、先祖が代々眠る墓に運ばれ、沢山の供物を捧げられ丁寧に埋葬されたのだった。
こうして偉大なる職人であり良き家長でもあったアメンナクテは永眠した。アメンナクテの次男パシェドは、後ろめたさからなのか、あるいはあくまで父への若い頃の反抗を貫くためだったのか、葬儀には最後まで姿を現さなかった。
アメンナクテ亡き後、問題のテーベ職人長には、親戚のパネブでもなく、叔父のパシェドでもなくアルウの世襲が王様の命で決まった。彼はアビドスとテーベを兼務することになった。
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