第2話:「いつか返せたら」
まぶたを閉じれば、いつも彼の視線を感じる。
一定の方向からではなく、真正面からであったり、背後であったり、同時に二方向から見られていることもあった。
彼と目を合わせたくなくて、逸らす。それでも視線を感じる。どうして目を逸らすの、とでも言いたげに。
逃げてはならない現実を突き付けられているような気がして、うずくまる。どれだけまぶたをきつく結んでも、暗闇と共に在る彼の視線からは逃れられない。
「どうして逃げるの?」
その声は記憶のまま。六年前に亡くなった恩人のもの。責めるわけでもなく、詰るわけでもない。ただ純粋な問いかけ。それがなによりも心を咎める。
「後ろめたいことがあるの?」
「違う……」
「なら俺の顔を見て」
「嫌だ……」
「俺はきみを信じたい、だから聞かせて」
「やめて……」
「陽――どうして俺を殺したの?」
「――違うっ!」
その声で
夢を見ていたと理解するのに時間は要らなかった。寝巻はぐっしょりと濡れており、呼吸も荒い。相当うなされていたのだと気付く。
部屋の中はひどく静まり返っていて、窓越しに聞こえるすずめの鳴き声だけが嫌に響く。この部屋に家具はほとんどないのも余計に静寂を強調しているようにも思えた。
部屋の向こうから慌ただしい足音が聞こえてくる。勢いよく開けられた扉から一人の女性が姿を見せた。
茶色の髪を短く切り揃え、いまは見開かれている緩やかに垂れた目が人のよさをよく表していた。身長は女性としてはそれなりに高く、身体の線は細い。春先だというのに首元まで覆うセーターを着込んでいるのが印象的だった。
「陽くん、大丈夫!?」
「あ……
「いやいや気にしないで。それより大丈夫? 寝言は聞こえてたけど、悪い夢でも見たの?」
篝と呼ばれた女性は心配そうな面持ちでベッドに腰掛ける。
この女性は五年前から陽を保護している協力者だ。美景一哉殺害の容疑をかけられ、里から逃げた陽を匿い、こちらの世界で日常生活を送れるよう世話をしていた。
陽は笑顔を作ってみせるが、無理をしているのは火を見るより明らか。
「悪い夢……というわけでもありません。僕は大丈夫です」
「そう? それならいいんだけど、幸先悪いね。今日から一人暮らしなのに」
陽は現在十五歳。義務教育内の勉強は里の教育係が仕込んでいたため、転校生という形で小学校へ入学。中学校も穏やかに、無難に過ごして卒業を迎えた。
この春から市立日吉高等学校へ進学することとなっている。篝の家からは少し距離があるため、高校の近くのマンションで一人暮らしを始めることにしたのだ。
荷物は既に運び終えており、入学式を前にした今日からはそちらが自宅になる。
「なにからなにまでお世話になりました。本当にありがとうございます、篝さん」
「いいのいいの、
篝はあっけらかんと笑う。彼女もまた、あの里の人間なのだ。自分を匿っていてなにも咎められていないのが不思議でならなかった。それだけ上手に匿えている、ということなのだろうか。
大貫という人物はあの日の逃亡の際、車を運転していた男だ。彼もまた里の人間ではあるらしく、陽をこの家に送り届けてからは里へ戻ったという。
無事だろうか、重い罰を課せられていないだろうか。陽にとっては命の恩人と言っても差支えがない。連絡は滅多に取れないため、生存確認さえままならない。
篝が特段、大貫の話題を出さないのは無事だからということだろう。便りがないのはいい便り、という言葉もある。心配しても徒労に終わるだけだ。
「どうする? 朝ご飯食べてから向かう? 車は出すよ」
「ありがとうございます。ご飯は要らないので、車を出してもらえますか?」
「了解! あと……それも忘れずにね」
篝が指差すのは、窓際に備えられた一丁の銃。あれから一度も触れてはいないのに、錆びついてもいない。不気味なほど綺麗だった。
美景一哉の遺品。気が動転していたこともあり、逃げ出す際にそのまま持ってきてしまったものだ。里の者からしてみれば、彼の銃の行方はいまもわからないままだろう。陽が今日を迎えられているのがその証拠だ。
「……僕が持っていて、いいんでしょうか」
「その方がいいよ。私が持ってても扱いに困るし」
「それが本音ですか?」
「半分ね。もう半分は大貫様の指示」
「大貫さんの?」
「銃は陽くんに持たせておけ、って。いつか使うことになるからじゃないかな?」
陽の表情に影が差す。あの銃を使う――それがなにを意味するか。美景家で受け継がれてきた“力”を強奪するに等しい。あの銃を使うことこそ、陽にとっては恩を仇で返すことに他ならなかった。
「……大貫さんの指示なら、僕が持っていきます」
「うん、そうして。あーあ、今日でお別れかぁ。寂しくなっちゃうな」
「近況は定期的に連絡します、安心してください」
「そういうことじゃないんだよね。一緒に暮らしてきたわけだしさ、弟が出来たみたいで楽しかったんだ」
「あはは……たまに帰って来てもいいですか?」
「勿論! 腕を奮ってご馳走作ってあげる! じゃあ支度が終わったら声掛けてね、私も準備するから」
篝が部屋から出ていく。陽も身支度を整えるが、どうしても銃に触れることは躊躇われた。
――もし、この銃を使う機会が訪れたら?
それは即ち、この世を脅かす邪悪な影と対峙するということ。人の世の安寧のために戦うということだ。
出来ればそうはならずにいてほしい。戦いたくないというよりも、この銃に秘められた力を使いたくないというのが本音なのだ。
一哉が使うべきだった力。あの日、陽はなにも出来なかった。そんな自分が誰かを守るために戦えるとは思えず、この銃もまた陽に力を貸すとも思えなかったからだ。
恐る恐る銃を握る。あの日の感覚が蘇り、手のひらが湿るのを感じた。力も入らず、銃を床に落としてしまう。慌てて拾い、銃身を撫でる。気味が悪いとさえ感じるほどの光沢はそのまま、朝日を受けてぎらりと輝いていた。
「……いつか、返せたらいいのにな」
そんな日が訪れるとは、いまのところ思えない。おこがましくて言えないが、大貫が一刻も早く一哉殺害の犯人を見つけ出してくれることを願うばかりだ。
銃を鞄に突っ込み、深呼吸。使うような状況には行き当たらない、大丈夫だ。根拠などない、ただの思い込み。そう思わなければ、銃の重みに耐えられそうになかった。
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