ねむりひめ


(……いけない、いつから寝ていたのかしら)


 上半身を起こすと、肘の下にじんじんと響く痺れがやってきた。どうやら腕とベッドの間で読みかけの本を押し潰していたらしい。二の腕に赤く残る曲がった背表紙の痕は、笑う唇の形にも見えてどこか間抜けだ。

 くっきりと刻された不格好な痕は、しばらく消えそうにない。


(まったく、優雅な貴族の名が泣きますわ)


 じわり痛む皮膚を擦りながら、本を拾い上げた。

 宿の窓から見える空は薄水色。さっきまで土砂降りだった雨は、ずいぶんと小雨になっている。このまま雨が止んでくれたら、またすぐに出発できる。

 すっかりくしゃくしゃになってしまった本の表紙を、手のひらで撫でた。雨宿りのために、小さな宿で暇をもて余して、流れの商人から買ってみた私小説。だけど、おしまいのページへと辿り着く前に、うたた寝の世界へ迷いこんでしまったみたいだ。

 眠気を誘ったのは、淡々とした文体? 退屈な作者の主張? それとも、雨の音?

 どれも決定的ではないと思う。一番の心当たりを、私はよく知っている。


 隣のベッドに視線を投げる。

 そこには、月明かりに照らされる清流のような、うつくしい髪がゆるやかな渦を巻いて流れている。あまりにも物音ひとつ立てずに眠るから、本当にそこに存在しているのか不安になる連れが、横たわっている。

 臥する姿は生命を持たない彫刻めいた美しさ。

 胸の奥が熱を帯びて、やっぱり、と溜め息混じりに確信を得た。

 好きな人といると眠くなる、なんて俗説があるけれど、私の経験と照らし合わせたならば、それは悔しいくらいに当たっている。

 元凶と勝手に認めた相手を睨む。こっちを見なさい、と訴えかけるように、強く強く、視線に力を込めた。

 よく寝ている。深い深い眠りの中に閉じ込もるかのように、猫のように背中を丸めて、腰までかかったシーツに美しい皺を作って、琥珀の目を瞑って。気持ち良さそうに閉じられた瞼から、憎らしいほど目が離せない。

 あなたのおかげで、いつの間にか眠ってしまっていたじゃない。こんな真昼間から、だらしなく居眠りするなんて、高貴な私に似つかわしくなくてよ。

 心の中で投げかけた言葉は、一方的な難癖だと自分でもわかっている。それでも、なんだかモヤついた気持ちが晴れなくて、甘い呪詛を刻むのを止められない。

 何よりも、あなたにこんなにも気を許している自分が怖い。居眠りにとどまらず、少しずつ、少しずつだらしない部分を晒け出していってしまいそう。信条と矜持で固めた完璧な私が、あなたの前では崩れていきそうで、それが怖くて、悔しい。叫び出したくなるようなもどかしい感覚が、甘い痺れとなって苛む。

「もし、まだ眠り足りないんですの」

 話しかけても、返事はない。こんなにも執拗に凝視しているのに、気づくどころか身動ぎする気配すら全くなくて、呆れてしまう。

 いつだって、眠る時も起きる時も何の前触れもないから、まるで、時間になったら自動的に動き出す機械人形みたい。

「雨、もうすぐ止みそうですわよ。ねぇ」

 声を大きくして、距離を近づけて、それでもやっぱり反応はない。

 ぬるい雨粒が一筋、窓の外を滑り落ちていった。涼しい部屋に湿り気が混じる。寝る前に解かれ畳まれた若草色の帯がシーツの上で崩れて、ベッドの下まで滑り落ちている。踏まないように気をつけながら、そっと近づく。


「起きてくださいな、--」

 ベッドの端に腰かけて名前を呼ぶ声は、無意識のうちに甘さを含んでいた。それはほんの少しで、ひとには気づかれない程度だったかもしれないけれど、自分が何より自覚してしまって、一人で気恥ずかしくなる。

 どうしてあなたは、私と一緒にいてくれるのかしら。

 どこかで誰かが容易く離れて分かたれる世界で、いつまで私たちは一緒にいられるのかしら。

 桜色の唇は開かない。

 白い頬が目の前にある。透明な青さを含んだ白は私の手のひらの色とまるで違って、思わず触れたくなるのを堪えた。

 気づけば、腕に残った本の痕が、ほとんど消えかけていた。あんなに深く刻まれていたのに、その名残はもう見えなくて。うっすらと残るピンク色の筋だけが、小さくなって、やがて跡形もなく元通りに塗り潰される。消えていく。

(仮に、いつか離れる日が来ても、私を覚えていてくれるかしら)

 眠る玉貌を前にして、切なる衝動が駆け巡った。胸の奥に弾けた火花は唐突なようでありながら、ごく自然に、そうなるべき定めだと思った。ずっと着火を待っていた線香花火から、最初の火の粉が舞い散る瞬間。

「ねぇ、起きて」

 これが最後の呼びかけ。起きるのは今のうちで、これで起きなかったら、私は、もう知らない。

 袖口から、形のよい腕がすらりと伸びている。真っ白な蜜蝋の肌は滑らかで、触れたら手のひらの熱で溶けてしまうんじゃないかと、いつだってそう思う。

 触れても、いいかしら。

 触れたい。あなたの肌に温かな熱を注ぎたい。

 手のひら同士を寄せれば、柔らかく肌に絡みつく。手のひらが、指が、たったそれっぽっちが触れ合うだけで、どうしようもない恍惚感に包まれてしまう。

 あなたも、私といるから深く眠れるのかしら。そうであってほしい。他の人といる時よりも、どんな場所にいても、私と一緒に過ごす眠りが一番穏やかなものであってほしい。

 片方の手のひらを擦り合わせたまま、静かにシーツをよけて、彼女の隣に横たわってみる。帯を解いて腰紐だけになった姿は紛れもなく気を抜いている現れであり、私以外に見せないでほしいと願う。白い肌を包む濃紺の生地は着古しているからくたくたになっていて、肌とは違う感触に柔らかい。

 所々ほつれが目立つスカートも、床に垂れ下がっている帯も、服だけじゃなくて、指も頬も睫毛も艶めく髪だって全部全部、当然のように柔らかい。愛しい人を構成する何もかもが柔らかかった。

 そして、その全てから、うっとりするほどに良い香りがする。愛しい人の匂いが充満しているこのベッドは、私の理性を剥がしにかかっている。

 後戻りする理性なんて、最初から残っていないのに。

 吐息が枕に吸い込まれる。吐いた息のぶんだけ、大好きな人の匂いが胸いっぱいに流れ込む。好き。この匂いが大好き。

 甘い花の蜜に吸い寄せられる虫とおなじくらいに、本能だけに従って、頭がふわふわ、ぼうっとして、


(……起きないなら、知らないから)


 疼く唇を同じ桜色に重ねれば、ぱちりと花ひらく瞼の向こうが、悪戯っぽく笑ったような気がした。




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