キスで終わらす百合短編置き場

可惜夜アタ

海とスパイ


 本部の指示のまま車を走らせ、辿り着いたのは海に面した古い工業地帯だった。打ち捨てられた廃工場や倉庫が、海岸線からの西日を浴びてさみしく光っている。

 助手席で眠りこける横顔を一瞥してから、小さく溜め息を吐く。カーナビの画面上に光る矢印が短くなって消えたことを確認すると、ようやく車を止めた。

「ナギサ、起きて」

「……ん……? あ、もう着いたの?」

 むにゃむにゃとまだ眠そうにシートに凭れている女を待たずに、運転席のドアをバタンと閉める。

 目の前にそびえるコンクリートのビルを見上げれば、空がやけに近く思えた。

 ここで任された仕事は、仮の拠点を作ること。そして、敵陣に対してまるでこの場所が本拠地であるかのように見せかけることだった。要するに、囮の基地作り。

「リコ~、喉乾いてない? いったんそこの自販機見てきていい?」

「いいけど……ちゃんと飲めるやつ?」

 ぬるりと助手席から降りたナギサが目を擦りながら指差した自販機は、遠目に見ても赤茶色く錆びている。いけるって! と根拠のない返事を残すと、彼女は自販機をガンガンと蹴り始めた。治安が悪い。だけど、こんな世界なのだから誰も咎める者はいない。

 ガコン、と無理矢理こじ開けられた扉に手を突っ込んで、何個かのスチール缶を引っ張り出す。両手いっぱいに缶を抱えて嬉しそうに戻ってくる姿は、人好きのする穏やかな笑顔を湛えていた。

 真っ直ぐに見つめてくる瞳から、リコは無意識に瞳を逸らす。

 仮の拠点はもちろん大きな仕事だが、それ以外にもう一つ、リコには目的があった。


(ナギサは……たぶん、敵陣のスパイだ)


 はっきりとした確証はない。だか、疑いの芽は早い段階で摘んでおいたほうがいいに決まっている。

 だから、仮拠点の話が持ち上がった時に、リコは真っ先にナギサを指名した。この機に本拠地からなるべく彼女を遠ざけて、本部の状況を知らせづらくするのが狙いだった。

 この申し出にどう反応を見せる? と警戒していたにも関わらず、ナギサは予想よりもだいぶ乗り気で、かなり拍子抜けした。おそらく抜かりない彼女のことだから、形だけでも乗るそぶりは見せるだろうとは思っていたけれど、それにしたってこう上手く運ぶとは。

 もともと本心を態度に出さず、何を考えているかわからない奴だ。用心するに越したことはない。

「リコ見て、外錆びてたけど中身は全部綺麗だった! とりあえずこんだけ持ってきたけど今いる?」

「……今はいいかな。飲んだらとりあえず車の荷物運ぶの手伝って」

「はーい、任せて」

 事前に聞いていたパスコードで、ビルのシャッターを開く。金属窓が上下に移動する仰々しい音を聞きながら来た方角を振り返れば、潮の香りと錆びた金属の匂いがふたりの間を通り抜けていった。





 仮拠点での最初の一週間は、驚くほど呆気なく過ぎた。敵影の無い中で、淡々と情報工作をこなして、合間に一帯の地理を直接把握して、何事もなく過ぎていく一日。

 静かだった。世界は緊迫した状況だっていうのを思わず忘れてしまいそうなくらいに、穏やかさすら感じる。本部からの増援が来るのはまだしばらく先のことだから、一夜城のような突発的なこの拠点は、今はリコとナギサだけの絶対的な空間だった。

「リコさぁ、今日のご飯何か食べたいものある?」

「なんだろ。本部にいた時よりだいぶやる事が減ったから、あんまりお腹空かないんだよね」

「あ~、静かだよね、ここ。ずっとここにいたら、世界がやばいってこと忘れそう」

 向こうも同じ事を考えていたらしい。

「……海が、近いのもあるかも」

「海?」

「深夜に遠くから波の音が響いてたりするじゃん。あれ、無性に落ち着く」

「あー、いいねぇ。てか、今も窓開けたら聞こえそうじゃない?」

 じゃあ開けようか、とリコが言うが早いが、ナギサの腕が重たい窓枠をガコンと押し開いた。

 午後の執務室に、生温い風がゆるやかに流れ込んでくる。

「うあー、いい潮風。海そのものって感じ。リコもこっち来なよぉ」

 窓から顔を出して外の空気を満喫していたナギサが振り向いて、小型のモニターと向き合っていたリコを呼ぶ。休憩にはちょうど良いタイミングだったから、リコはソファから立ち上がってナギサの隣に並んだ。古びた窓枠は大人二人が身を乗り出すには狭すぎるのに、ナギサはリコを促して楽しそうに空を指差す。

「ここからあっち覗き込むと海が光ってるの見えんの。きれーだよ」 

「どこ」

「そこの壁の先、ぐーっと行くと見える」

 ほんとだ。そう呟こうとした言葉は、ひゅっと喉の奥に吸い込まれた。

 淡い空から落ちる光を乱反射して光る海面がちらりと見えて、綺麗だ、と思う暇もなく。身を乗り出したことで、体重をかけていた窓の下の鉄柵がぐらりと外れ、視界が激しく揺らぐ。

(――――うそ、)

「リコ!!」

 バランスを崩した身体を強く引かれて、混乱した頭のまま、間近にある肩にしがみつく。秒針の一歩にも満たない短い時間の間に、意識だけが他人事のように、スローに切り離された。縺れ崩れるように二人してその場にへたり込んで、危なかった、と口にする余裕すらなく、心臓が皮膚を突き破って飛び出そうなくらいにうるさく鳴っている。

 縋るような形でナギサの背中に腕を回していることに気づくのと、その背中が情けなく震えていることに気づいたのはほぼ同時だった。

「ごめん、ごめんごめんごめんほんとにごめん……!!」

 すうっと血の気が冷えていく。強張る腕を下ろせないまま、革張りのジャケットに強く指を沈める。

「私ほんとに要らんこと言った……リコ死ぬかと思った……ほんとにごめん……」

 ごめん、とうわ言のように繰り返しながら掻き抱かれて、痛い、とリコは顔を顰める。

「私も不注意だった。大丈夫だったからもう離れて」

「無理、腰抜けて立てない」

「えぇ……」

 冗談じゃない、何で死にかけたこっちが宥める側に回ってるんだ。そう言いたい気持ちを抑えて、とんとん、と背中を軽く叩いてやる。

(……殺されるかと思った、なんて)

 言えるはずない。

 読みが正しければ、この女は敵で、それならこちらに危害を加えてくる可能性だって充分にあって。

 いざとなればこの孤立した地で私一人を殺すことなんて容易いはずで。

(震えているのも演技……? でも、本当にいま私を殺すつもりだったのなら、なぜ助けたの……?)

 それでも、幼い子供のように肩口に顔を埋めてこちらを抱き締める姿に、どうにも毒気を抜かれてしまっている。これは良くない絆され方だ、と脳が激しく警鐘を鳴らした。

 思えば、初めて対面した時からそうだった。顔を合わせるといつも、リコちゃん、リコ、とニコニコと後をついてきて、あまり人に興味を持たれることに慣れていなかったリコはそのたびに戸惑った。

 スパイではないかと疑いを持ち始めてからは、その行動はこちらを油断させるための罠だと、むしろ納得することが出来たのだけど。

 なにか尻尾を出さないかと、ナギサの様子を逐一気にかけてみても、一向に真意が読めない。まるで掴み所がない。敵である証拠どころか彼女が日々何を考え、何を目的として動いているのかてんで理解する隙がない。

 リコが本部への恩義で動いているように、ナギサにも何か目的があるのだろうか。わからない。

 わからないまま、仮初めの距離だけが不釣り合いに近づいていく。

 それが、無性に落ち着かなかった。

「リコぉ、私何したら許してくれる……?」

「だから別に大丈夫って言ってるじゃん」

 背中に回していた腕で両肩を押しのけてもびくともしない。ああさすが鍛えてるんだな、と緊張感のない自分の率直な感想に自分で頭を抱えた。

「あのさ、もういい加減立てるでしょ」

 折り畳まれていた足をずりずりと伸ばして、やや乱暴に相手のふくらはぎを突ついてみる。これも無反応か。

「リコは綺麗だなぁ」

「なんて?」

 脈絡のない会話をするのは初めてではないけれど、ここまで唐突に不可解な文脈で言葉が生えてくると困惑を通り越して心配してしまう。ナギサの肩越しに、開いたままのモニターがこちらを見ているような気がしてどうにも居心地が悪かった。

「でも、リコ、向こうにいた時より爽やかな顔してるよ」

「爽やか……??」

 私に一番縁のない言葉じゃない? と返すも、ナギサは真意の読めない瞳を細めてへにゃりと笑った。

「なんていうの? 本部にいた時はもっと切羽詰まったような顔してた」

「まぁ……実際、切羽詰まってはいたからね」

「えぇー」

 この会話はどこへ向かってるんだ、とリコは眉根を寄せた。舵を切った本人もよくわかってないんじゃないのか。

「……なんで、そんな詰まってたの?」

「ナギサがそういうこと聞いてくるの珍しいね」

 いつも我関せずという顔で他人を詮索しない奴が、突然ずいぶん珍しいことを言うんだなと思った。素直にそう感じたから、口に出していた。目の前にある端正な顔は一瞬驚いた表情をして、動揺したように短く空気を吸う。

 リコの脳裏に、本拠地にいる仲間の姿が万華鏡のようにくるくるとシルエットを変えて浮かんでは消えていく。"なんで"、と聞かれたらリコにはそれ以外の選択肢なんて最初から存在していない。別に言ってもいいけど、と前置きしてゆっくりと唇を開く。

「……守りたいから。大事な人たちを」

 それだけ言えばこいつには充分に伝わるだろう。そんな甘えを含んだ意思が、言葉が、揺蕩う瞳孔に吸い込まれていく。

「皆いい人だもんなぁ。本部のみなさんも、リコの周りのひとも」

 和らいだ視線が交錯する。固い床の上で向かい合ったまま、ナギサはリコの肩に顎を乗せた。予備動作のない唐突な動きに避ける間もない。何だかわからないけれど今日はもうそういう気分の日なんだろうと、半ば諦めたリコはナギサの思うがままにさせることにした。

 甘いハイトーンの囁きが、窓から吹く潮風に流されていく。

「私たちで勝とうね」

 リコには、永遠に知る由もない。

 その言葉を吐く前に、彼女の唇が『ごめん』の形に動いていたことを。





「リコー、海行かない?」

 灯台下なんちゃらで実はまだ行ったことないよね? と降ってくる声は、その日の曇天とはまったく対照的に明るかった。

「旧工業地帯の海だよ。人が入って遊べるような場所でもないし、行ってもしょうがないと思うけど」

「え~でもさ、見るだけでも綺麗じゃん!」

「私たち観光に来たわけじゃないからね」

「それに、明日には増援のみなさん来るし。リコと水入らずで過ごせるの今日だけだよ?」

 なおも追いすがる声を無言であしらって、リコは手のひらに収まる大きさの携帯端末を起動した。

 予定していた増援は来ない。リコの一存で指揮した。ナギサはそれを知らない。

 スパイ疑惑のあるナギサが共に行動している時点で、囮基地が囮の意味を成すはずがない。この場所で出来ることはもはや物資の調達とナギサの監視、それくらいだ。

 リコは考える。ナギサひとりにずいぶん回りくどい作戦を取ってしまったなと思う。わざわざ自ら本部を離れて、限られた時間の中でナギサだけに注意を向けて。そこまでのリソースを割くほど彼女のことを危険視していたのかと問われると、答えが鈍る。

 この女を、ここに連れてきた理由。

「リコリコ、リコー、えぇ~、本当に行かない?」

 放っておけば一生うるさく鳴いていそうな奴を、呆れた顔で振り向けば、胸の辺りにじわりと痛みが広がった。

 そうだ。きっと、時間が欲しかった。

 覚悟する時間が。

 彼女が本当に敵だと知っても、受け入れて対峙できる覚悟。

 彼女に銃を向ける、覚悟。

「ゥあぇ!?」

 いつか彼女がしたように、その肩口に顎を乗せて、頭を寄せる。頬を掠める髪から甘い鈴蘭の香りがした。落ち着いた清楚な香りとは真逆の、素っ頓狂な鳴き声が耳のそばでうるさい。

「え!? え!?!? どしたのリコ!? どっか調子悪い!?」

「うるさっ……海、ちょっとだけだよ」

「んぇ? リコ海行くの?」

「ナギサが行くって行ったんじゃん」

 ドクドクと肌の下で鳴る控えめな鼓動は、寄せては返す波のリズムに似ていて無性に安心した。

 いくら攻められる気配のない仮拠点でも、二人して留守にして、よりによってただ海を見に出かけるなんて、どうかしている。どうかしているけれど、

「運転はナギサがして」

「私無免許だよ」

「それを言ったら私もでしょ」

 こんな時に誰も咎めないよ、と吐き捨てた言葉は果たしてどこへ向けたものだったのか。





「はー、やっぱ本物の潮の空気は違いますなぁ」

「そうだね」

「これで快晴だったらもっと最高だったなぁ」

 運転席でぐっと伸びをして、ナギサは笑う。二人を乗せた車は、海を見下ろす防波堤で大人しく潮風を受けている。車から降りぬまま、それぞれ開いた窓越しにじっと海を見つめていた。青錆びて濁った海面はお世辞にも美しいとは言い難い。あの日、ビルの窓から一瞬だけ見えた光の海は幻だったのではと思うくらい、無機質な水の群れだけが広がっていた。それでも、二人はただ静かに海を見ていた。

「で、私をここに連れてきた目的は何?」

「ん?」

 たっぷりの沈黙が続いた後に、リコは窓の外に視線を投げたまま問いかける。

「目的とかそんな難しいこと、そんなの無いよぉ。ただ、リコと楽しくお出かけしたかっただけ」

「嘘」

「それならリコだって」

 海から強い風が吹いて、古びた車体を揺らした。ザア、と荒い砂が宙を舞う音が遠ざかる。

 リコの視界の外で、ナギサの瞳の温度がすうっと下がっていく。

「私に言えないことあるのはお互い様じゃん」

「そもそも人間って皆そういうものでしょ」

「ねぇ、誤魔化さないで?」

「それ、ナギサに言われたくはないなあ」

 堂々巡りになりそうな空気を先に断ち切ったのはナギサだった。気まずそうに、伝えにくそうに、身体をゆらゆらと揺すっている。

「先に言っとくとさ」

 ちらりと、リコの様子を伺いながら、困り果てた顔でナギサは言葉を紡ぐ。

「私は、リコに好意感じてるから、ついてきたからね」

「何が? 囮の拠点についてきたのがってこと?」

「そう。ありがと」

 何にお礼を言われたのか。足りていない説明をすぐに理解したことに対してか。いつもと変わらない調子が逆に調子を狂わせる。

「リコ。あのね、私思ったんだけど、」

 深い溜め息に呼応するかのように、ゆらり、海面がぬめる。底知れぬ海は、今やぽっかりと口を開けて、二人の脆い世界を呑み込もうとしている怪物のように思えた。

「二人で何も知らないフリして、ここで最後まで過ごすのも、悪くないなって」

「ああ……確かに悪くないかもね」

 都合のいい夢物語のような提案に、どこかほっとしている感情があった。本部のことも指令のことも、これから確実に激しくなっていくであろう諍いのことも忘れて、潮風に揺られて穏やかに。

 後戻り出来なくなる、最後まで。

 そんな方向に舵を切ることが出来たら、この心は埋まるのだろうか。

 胸に吹くさみしさは留まることなく喉元まで出かかっていて、だからこそ跳ね退けなくてはならなくて、こんな感情を抱えたままでは一生覚悟なんて出来そうもない。

「せっかくだし、一杯飲んどく?」

 いつの間に積んでいたのか、後部座席にはスチール缶や酒瓶の入ったクーラーボックスがあった。運転席から身を捻って、ミニボトルのうちひとつを掴むと、未だ視線を合わせようとしないリコに向かって差し出す。

「はい、リコ」

「飲むわけない。何が盛られてたらどうするの」

「急に疑うね」

「ナギサが変な空気にするから」

「なら、どうやったら信じてくれる?」

 貸して、とリコはナギサの手からボトルを受け取った。ぱき、と金属が離れる感触を手のひらに受けて、キャップを回す。舌の上に一口、とろりとした酒を乗せると、ウォッカ特有の渋みの奥に林檎の味がした。

 果実の酒を含んだまま、サイドブレーキを超えてシートから身を乗り出す。たちまち意図を察したナギサが、白い首を両手で鷲掴んだ。ようやくぶつかり合った視線の距離は、とっくに縮んで消えてしまいそうなほどに短い。

 合わさったくちびるが、果実酒を啜るためにゆっくりと動いた。数度、喉が鳴る。甘い液体はふたつに分かたれて、二人の喉奥に沈んでいった。

「…………これは、いったん引き分けってこと?」

「今は、ね。次に会ったらもうわかんないよ」

 鉛色の雲が車上を影で覆う。遥か上空に、空挺部隊が飛んで来る音を聞く。

 ああ、思ったより猶予は無かったみたいだ、と理解するのと同時に、離れたくないな、と思った。


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