第9話

「僕を遠ざけて、僕から逃げられると思った?」


 デーヴィドくんの真っ黒で鋭利な爪が私の頬を撫で、足跡を残していく。皮膚が裂けるような感覚を痛いと感じないのは、絶望からか、恐怖からか。耳が心臓の叩くような音を拾う。デーヴィドくんの声が遠い。


「ち、が……ッ」


 喉の水分が一気に枯れてかすれ声でさえも出なくなる。デーヴィドくんから目が離せない。若葉のように凛として優し気だった瞳の奥は光の届かない泥濘と化していた。


「僕から逃げてどうするつもりだったの見ず知らずのあの男を頼るなんて優羽ちゃんには僕だけでしょ僕は君が生まれた17年前から優羽ちゃんだけのものなのにいい加減気づいてよ僕はずっと傍にいたというのに……ああ――こんなに頬を濡らして。泣くほど嬉しいんだね。僕も嬉しいよ。優羽ちゃんの泣く姿は本当に可愛いね。鼻をすする音が弱弱しくて庇護欲がそそられるんだ。ふふ、帰るよ。やっと優羽ちゃんは僕だけのものって気づいたんだ。これまでどれほど辛かったか。おいで。これからはもうこういうところに来なくていいよね。だって僕らは世界にお互いしか必要ないでしょ? 幸せになろうね」


 ねぇ、優羽ちゃん。






 意識が浮上して視界が映したのは知らない部屋だった。

 両手にはめられた枷は壁に固定され、既にその感覚がないことに気づく。不幸中の幸いとは言えないが、両足は自由だった。

 魔王様のお祭りはどうなったのか。膝を擦り合わせてみるが、微塵も痛みを感じないということは私はまだ無事なのだろう。今は一体何時なのか。重厚なカーテンは閉められていて、光は差し込んでこない。

 室内を更に知ろうと目を凝らしたところで、左からドアノブが回される音がした。


「……ッ」


 明かりで目がくらむ。


「大丈夫ですか?」


 ウィリアムさんだった。


「ここはデーヴィドさまのお部屋です」


 ウィリアムさんは私の傍にしゃがみこむと私の頭に手を伸ばしかけてやめた。


「貴方の状態は流石に気の毒だとは思いますが、貴方に触れたら私は即刻消されかねませんので」


 ウィリアムさんは固い声で早口に告げた。


「デーヴィド様は魔王の間にいらっしゃいます。そこで今、聖なるものが魔王様に捧げられているところなのです」


 私が首を傾げたのに気付いて、ウィリアムさんは口を開く。


「貴方が祭りに向かった時に支度が間に合わないと判断し、あらかじめ予備として連れてきていた者を差し出したのです。ですので、貴方の命日は一年後に伸びました」


 つまり、代わりの人が今夜魔王様の相手をして、私は一年後に魔王様に差し出されるんだ。それもそれで嫌だけれど、私の代わりとなってしまった人が居ることの罪悪感と自分が助かったことの安堵で心が軋む。


「それだけ貴方に伝えようと思いまして。デーヴィド様は説明なさらないと思いますので。私はここに長居するとまずいんです。悪魔は相手の気配を察知するのが上手いのです。既にここに居ることがばれているかも。それでは、失礼します」


 また部屋が暗くなる。

 私、どうなるんだろうか。部屋が暗いと気が狂ってしまいそうだ。しかしウィリアムさんに頼んで明るくしてもらったら別の人を頼ったと泣かれてウィリアムさんもさっき聞いたようにきっと無事ではないのだろう。

 デーヴィドくんが来たら何か変わるのだろうか。それとも悪くなるのだろうか。

 こんなつもりではなかったのに。

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