第5話 廃墟から声が聞こえても見に行くな

 まさか……と、最悪の状況を予見しつつ龍太は今自分が入ってきたばかりの扉に手を伸ばし押してみる。

「……………………」

 今度は少々強めに。両手で押してみる。いやむしろ体当たりを試みる。

「……おい、嘘だろ」

 扉はピクリともしなかった。錆びているからとか、立て付けが悪いからなどではない。まるでそこに突然バリアのような壁が現れ、目の前に立ち塞がっている感じがした。そしていつの間にか、外から聞こえていた夜の街の雑音も消えている。まるでこの場所が、完全に外から隔離されてしまったかのように。

 龍太は愕然とし、額から冷たい汗が零れ落ちる。間違いなく、今、自分は、閉じ込められたのだ! この廃ビルに! 

 ヤバイ――!!

 龍太の野生的直感が、警告音を鳴らし始める。普段は滅多に感じることのない、恐怖という感情が、まるで決壊したダムのように押し寄せてくる。

(早くここから出ねえと……!)

 そう思い、薄暗いビル内部を見渡す。

 今自分が立っている入り口付近は、壊れかけの蛍光灯が点滅しつつも照らしてくれてはいるが、奥へと続く廊下は電気が点いておらず、完全に常闇と化していた。しかし最悪なことに、おそらくだが、出口があるとすればその奥だろう。正面は開かないうえに近くには窓もないのだから。龍太はズボンのポケットから金色の龍が描かれたライターを取り出し火をつける。龍太自身、煙草は吸わないのだが、舎弟から持っていた方が格好良いと渡された物だ。格好良いかはわからないが役に立った。そしてライターのわずかな灯りを頼りに廊下の奥へと足を進める。

「くそ…………ああ、最悪だ、こんなの」

 暗闇の中を目を凝らしながら、龍太の嘆き声だけがやけに響く。今の龍太は、どう見てもかなりの恐慌をきたしていた。顔色は足を進めるごとに青ざめ、呼吸も速い。当たり前だろう。こんな状況なら誰だって冷静にはいられない。しかし龍太は一呼吸おき、なんとか気持ちを落ち着かせる。

「やっぱり……こういう所は、出るのかな……はは、まさかな」

 ふと、いつかテレビで観たホラー番組のワンシーンが頭を過ぎった。それはどこかの大学生グループが肝試しに廃ビルへ忍び込み、そこで女の幽霊に追いかけられるという内容だ。今思えばありきたりな番組だったなあ、と頭の片隅で想起する。その時だった。

「っ……なん、だ?」

 奥まで進んだところで、頭上からかすかに聞こえる音に、龍太は動きを止める。暗闇に目が慣れてきたおかげか目の前には階段があるのが分かった。そしてその音はおそらく二階から聞こえてきているのだろう。龍太は全神経を耳に集中させ、その音の正体を模索する。


 …………ひっく……ひっ……ひっく……ぐす……


「…………これは……」

 少女の泣き声だった。二階から、まるですすり泣くようなか細い声が聞こえてくる。

「うげえっ!? う、ぐぅぅぅぅぅ」

 叫びそうになったのを、両手で口を塞ぎ堪える。

 そのまま腰を落として階段の手摺り下に身を潜めた。咄嗟とはいえ何故このような行動をとったかは龍太自身にもわからないが、とにかく一度落ち着かなければと自分に言い聞かせる。聞き間違いだ、そうに決まっている。きっとねずみか、浮浪者だ。いっそ連続殺人鬼の隠れ家でもいい!

「気のせいだ気のせいだ気のせいだ……ふ、ふふふ、そうだ。きっとここは悪の組織の秘密基地なんだ。銃とか密売してて、世界征服を目論んでいて……」 

 精一杯他の可能性を考える。しかし頭上からの声は止まらない。むしろどんどん大きくなっている。


 …………ひっ、うっ、ううっ…………ふええ……ふええええ……


「か、勘弁してくれよお……」

 まるで何かを訴えかけてくるような泣き声に龍太は頭を抱えて後ずさる。もはや出口など探していられない。この場で壁を蹴破ってでも脱出しよう。元々老朽化しているビルなのだから、穴ぐらい開けても大丈夫だろう。とんでもない脱出方法だが、仕方ない。緊急事態なのだと、目の前の壁に向かって足にぐっと力を込める。

「…………たすけてぇ」

 少女の声が嘆願した。その言葉に、思わず振りぬく寸前だった龍太の足が止まる。

「え……今…………」

「たすけてぇ、だれかぁ……」

 ――間違いない。まさか、本当に少女が二階にいるのだろうか?

「誰かいるのか!?」

 階段の手摺りから身を乗り出し、二階に向かって叫ぶ。

「お願いたすけてぇ……」

「わ、わかった! 今行くから!」

 少女の悲痛な声に、龍太は暗闇の中階段を一気に駆け上がった。二階は一階よりもさらに老朽が酷く、どこからか漂ってくる冷気が薄ら寒い。正直今にも龍太は半狂乱で逃げ出したい寸前なのだが、少女の助けを求める声を放っておくなんてできなかった。おそらくだが、近所の子供がかくれんぼか何かで侵入して、閉じ込められたのだ。ならば助けなくては。廊下中に響き渡る泣き声に、龍太はなるべく優しく声をかける。

「助けに来たぞ、どこにいるか教えてくれないか?」

「ここだよ……ここだよ、おにいちゃん……」

 階段を登って右奥の扉から聞こえた。龍太はゴクリと喉を鳴らすと、その閉ざされた扉の前に立つ。そしてドアノブにゆっくりと手を掛ける。

 ぎ、ぎぎぎ……と、古びた扉が開く。しかしその扉が開ききる前に、龍太はその室内に漂う異様な光景に目を見開いた。

 廃ビルには全く釣り合わないアンティーク調の家具が置かれ、天井には小型のシャンデリアが取り付けられている。その部屋だけが、まるで今も人が住んでいて、そこで生活しているようだった。龍太はその優雅にも感じる一室に驚愕し、息を呑む。そして中に入るとぐるりと室内を一望し、ここにいるはずの少女の姿を捜した。しかし

「お、おい……助けに来たぞ、どこにいるんだよ?」

 少女の姿はなかった。いつのまにか泣き声もぴたりと止まっていて

瞬間、龍太の背筋に悪寒が走る。全身の毛穴という毛穴が開き、どういうわけか足が凍ってしまったかのように動かない。

 ――いる…………何かが、いるのだ。自分のすぐ下に。見上げている。

 最悪だ……とにかく最悪だ。龍太はそう思い、棒立ちに硬直したままの体勢でゆっくりと、その何かに捕らえられた足元に視線を下ろし――


「いらっしゃいおにいちゃん…………うふふ、ふ、あははハハハハハハッ」


 右足にしがみついたソレが、龍太と視線が合うとにんまりと不気味に口角を挙げてケラケラと笑い出す。煤汚れた黒い長髪が蛇のようにうねり、木製であろう身体がカタカタと音をたてる。

 ――古びた市松人形が、そこにいた。

「~~~~~~~~~~~~っっ!!???」

 龍太は声にならない悲鳴をあげ、大きな音をたてながら仰向けに転倒する。

「ひいいっいいああああああああああっ!! 離せっ! はなせえええええええっ!!」

 阿鼻叫喚としながらも、なんとかして市松人形を振り払おうと必死に床を転がり、そのまま部屋中をのたうち回る。龍太の大きな身体が、部屋中の家具に衝突しては、その家具が大きく吹き飛ばされた。

「えっ!? いや、ちょっとまって! ストップ! スト――ップ!」

「うおおおおおお! やめろおおおおおお! はなせぇええええええっ」

 巨大な猛獣の如く、龍太は暴れ続ける。

「ぐあああああああああああ! このおおおおおおおお!!!!」

「きゃああああっ! やめて、気持ち悪い! おえっおええええええええ」

 がっちりと龍太の右足にくっついていた市松人形の手が離れ、そのまま綺麗な弧を描くように宙を舞い

「ふぎゃっ」

 部屋の奥にある本棚のガラス戸に張り付くように衝突すると、そのまま床にべちゃりと落ちていった。龍太は息を呑みながら、大の字で目を回している人形を凝視する。

 ――一体アレは何なんだ!?

 呪いの人形なのか? いや、誰かが動かしているという可能性も……。

「うう……痛いじゃないのよぉ! 暴れてんじゃないわよ、このデカブツ!」

 ゆっくりと、市松人形が起き上がり、煤まみれの頭と身体を掃いながら悪態をつく。そして「ああもう」と地団駄を踏むと、再び龍太の方に視線を向け

「コイツ使えないわよ! つばめ!」

 そう言って、頬を膨らませた。


「そう怒るな市子いちこ! だいたい市子もやりすぎだぞ!」


 突如龍太の背後から、どこかで聞いたような少女の声が聞こえた。


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