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「おい、あれって」

 彼が動揺する声に、僕は静かに頷く。

 柵の向こう側に、ぽつりと佇む一人のスーツ姿の男。首を下に向け、上体がやや前のめりになっている。背後の僕たちに気付くことはなく、振り返ることもない。だからこちらから、男の表情を伺うことは出来なかった。

「危ねーじゃん。どうすんだよ」

 駆け寄りそうな勢いの彼を僕は手で制す。

「無駄だから」

 僕の言葉と同時に男の姿が前方に倒れ、そのまま消えていく。

 背後からあっ、という声が聞こえた。

「やべぇーじゃん。なんで止めねぇんだよ」

 胸ぐらを掴まんばかりの彼に、僕は「見て」と言って、男の立っていた場所を指さす。

 再び現れた男の姿に、彼は絶句する。

「あの人はね。僕の父親なんだ」

 挑みかかってきたのが嘘のように、彼は顔を歪めて手を下ろす。憤りと同情が入り交じった表情に、本当は良い子なんだろうなと僕は苦笑する。

「僕が十三歳の時に、会社をリストラされてここから飛び降りたんだ。たまたま、母の手伝いでシーツを干しに来たときに出くわして」

 夏休みの暑い日のことだった。白い日差しの中、カラフルなシーツや洗濯物の間を縫うように僕は進んでいた。

 やっとあいている場所を見つけて、足を向けた矢先のことだった。

「あのときは一歩も動けなかった。まさに金縛りにあったかのようにって、言葉が相応しいぐらいに。声すらでなかった。父は振り返ることなく、そう……あんな感じにね」

 男が再び前に倒れていく。三秒も立たずに、男の姿は眼前から消え失せた。

「でも……なんで、あそこにいつまでもいるんだよ。なんで、成仏できてねぇんだよ」

 彼は動揺を抑えきれないようで、僕にたたみかけてくる。

「葬式さえあげれば、自然と天に召されるってみんな思ってる。だけど違うんだ。死んだ本人が気付いていなかったり、成仏したいって思わないと前には進めないんだ。父みたいにああやって、何度も何度も同じ事を繰り返すはめになる」

「だったら、お前が教えてやれば良いじゃないか。見えるし喋れるんだろう? だったら――」

「もう遅いんだ。最初のうちは、生前の記憶が多少はあるから、話が通じる。でも、僕が父と向き合おうと決めたのは、十年経ってからなんだ。一度、試してみたけど……父は僕の存在に気付きもしない」

 僕は父の立つ場所へと近づく。すぐ間近に迫ると、スーツや黒髪が今吹いている風とは逆方向に流されていることが分かった。

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