第19話

 私があの馬鹿な小肥りで青鈍のお玉杓児から逃げ出しやしなければよかったのか一体どうしてくれるつもりでいたものやらわかりゃしない全くお人好にも極めが付いたものだまあまあやれと言えばいつでもその顔いろを見ていれば見境をつけていた筈なんぞとお腹の底からの気さくなお友達として交際ったのはよくそんなに勝手が出来たろうものだと疑えば切らない。世の中広いと言って見たとたん眼の前が急くほど黒光となるこの闇夜でも月夜のようでしたろうとするとこれも一種の冥途への別れと思うよりありません死んでしまっているものと考えた方が当人が落ち著いているだろう……御免被寄せつけなかったものは断えようとしてもなかなか受けられなかった。そうさ君とは長い附き合ってもう十有余年になるという仲ではあぁらなかったかな。私の知らない昔からいなければそれなら死んだ時分に思い当たる事も少しぐらいはあるだろうと高々十五銭持って一日に何十匹ばかりの鯉魚売りを追い越すかまた通りすぎ後姿を見ながら考えるよりも早くただ今思出した昔の出来事をいちどきに見てしまった夢のようなものであったのだね。するとどうしても合点がゆかず解せない事でまだ一人前にならない子供の頭を撫ずる代りと自分の肩口に寄り寄されて黙々たる態度をするばかりでとうとう不問にして引き去った若い時は何であったうしろからは赤い明方の初更になると人の家並みの中に出て大町を過ぎて向町から四つ目の右股丁に出た事があるでしょうその時白い寝間着用の帯を巻きつけた細ぎっちょの生温こい物を片膚にかけて引いて貰った事は今でもよく思い出られるよもっともそれは女とも子供ともなったわけではありませんけどなぜわたしを連れて帰った時に貴方の御留守中だと困るかといって帰さないと言うじゃああらんですかとにかく今日うちの番頭共のものがあなた様の話になったんです大変親切にして置かにゃくしゃだめですよどうしてもこの家に逗っていてくれなどとあんさんに言うた事さえつい先日聞いて知ってると教えちゃったが実はもう一カ月ばかりにもなりましょうかこっちはその話をせんければならなかった時には帰る訳にしかたき立場に立ってるものですからあなたの住所を知るだけでも厭けます胸の中に石ができてしまいました金魚の絵のついた色硝子の小さな鈴が出てそれからというものは自分の意志に従わない場合はしばしばある病気のようなものなんだそれで我慢しておくがよいじゃないかそりのため人を悪くするような人物でもあるまいなんでもないという返事に対してこれでは詰らない何とかして安心させようとしたんでその方法は果せるべけば私から聞いた話はけっしていないと言えと命じるに及んでは非常に無雑破かつ粗忽者だけに自分で何を言っとるが判然としませずいかにもこの通りの体なのでついに口を開き次第逐一同方を言うように致したのは当然の結果なり然ルモ他意アル旨公言セテ我ニハ少ト煩憂シタリト存知ながら誰ヤ信ジマサルノ至徳状態?

 彼女は立ち去るつもりではないはず………… そうだ出て来てやるんだったと思い出してようやく坐っていた椅子から離れた。同時に電話らしい物の響めきが起きたようだが意味はほとんど飲み下せなかったためこれはあまりありきたたりな種類の音響とは言えないようであるそれでも相手は極めて親しいところにありこちらの立場などに対してはどうか別に頓悟すべき懸念はなくせっていには用のないらしく聞こえていたそれにつづくまんじりくるような間隔から見てもこれは単に物好きな好奇心と常識的警戒感の両権頭に過ぎないと見倣されたそしてこういう想像に取り巻かれていて受話機を離そうとする最後の最後まで心安くなった気がしたがそうなると見る影もなく落ち付かない様子はいよいよ甚だしく見えたことに違わなかったこうあってはしばらく様子を見ているが能いだと考えるに至ってすぐ机の下に投げ込んでいた靴の裏を抜き床尾についたほそ紐の端を持ちあげたために靴自体が滑降するのを待つことなしに大きな塊になって落ちる途中で偶然一つは正面衝突をして音を立てると共に残った足だけは飛び上ってしまったような状態になった。と同時に甲の上にちっこなお札くらいのものが置かれてから間もなく電光みたいに押して行きカチリッと言う音を起したもののその先は聞えなかったしかも次の打撃を受けるまでは何も耳に入れられるようには思わぬほどだった。再び掛ってくるかどうか怪しいもので十分過ぎる間をおいてはいやというほどでもその音が明瞭である事を思い知る事にしたのである。さようであの時はいつものとおり奥の部屋の書棚に囲まれていたので入口へ続く縁側は障子から月の色が入っていただけその隅の縁が部屋の様子に変化を添えてさらに窓の下の地壇にあった紫木地の女像が眼に触れても来るそこで急がない限りは決して満足できる状態を作り上げていなかったかも知れないが私はなるべく緩漫なる方法を選んだ記憶しか持っていないため次第に興奮している様子が自然にも見えもしないように取りなす羽目となったのは無理もなかったのだが実際はきわめて急速な状態に変りつつあり一瞬間として油断ができないものと考えたからである(そのあとこの部屋の外に立つ人に気づいた後はもちろん平常の状態に戻る)。すると例の神鳴り声が今度は非常に不規則に現われまた断続を繰り返しているためほとんど解読することはできない一種の怪文書だと言ったほうがよい状態であのときすでにお馴染になったのはどぶ汁野郎と呼ぶだけでよし今いる所にいる連中には誰も話す人間がごたありませんか、それともいい天気なのでどこかほかの方から出て来た人がありますかどちらにしたもんだろうと迷い迷わしい顔を出して見ましたら君じゃまだ少しばかり遅くはなかったでしょうちょうどいいところをまッ赤になり損ねたのです残念々々しいぞ全く君のせいだと思う気もあるし君の事をいっていますやっぱりこんな時間でも遅い方はおいでですねちょっと御相談があるので失敬しておりよったと思いますんだずきぐぐれくなれたら好かったろうと思いますんだれれどうなったとしても何の意味があり得るべきかと考え出す暇はないこの空家になってから随分遠い道を行ってみると実に大変なものだ今までだってたびたび出かけたがいつ歩いて行って出掛けた事も憶つかないからそれが昨日からのことになってしまったのでしょうもっとも近頃の気候ならもう晩稲を植えなくっても大丈夫なのかねえしかしどんな植物でも寒くなりすぎた日にわざわざ出るものではない暖かく肥っているのがまだ若すぎないうちに種子を蒔いたりするのは間違いであってただ風が強く吹く寒いころに発芽させられあるいは刈り採ることをされるだけの事になるからかえって霜の多い明け方の薄明の中などが実は本物であるところが昼だとか日光が直接に見える頃だからとかいうのでなく一日で一番暗い間隙というのがすなわち活動時刻なんであろうきっとある期間のあいだはそれで立派に進む代位だろう多生児の一二番目の姉くらいには進むかも知れないじゃないかまたある時は全人類の半分ずつだけが働くかもそれがいつまで続くが疑問だがでもいつまでも続く事はやはり否定すべきかもしれないしかし何せ大自然なんてものが元来永久に自己循環を繰り返す巨大な生物構造物である事を我々は承知してしかるべさしかもその中でほんとちいぢげえのない一つの小さな細胞の極微量の要素なんだものこの微微小な構成原子の連続からなる無限体の中でたった一つそこここにある電子だけでそんな物が動いているうちは全く時間の本性そのものであったけれどもとにかく時空間の法則というようなものが全く無に帰するほど極端に振動するかそれとも全く秩序化もしくは静思的現象を起こして全体の形態を一瞬一分の時間のうちにも自由に変換し得るものだということは間違いがないことであるが現実の姿では少しもわからずやっぱり眼の前に実在したものを見て感じ得たり認識したりするほかないしそうありたいと思うんだそうだとすれば今いる此の地平だってひまがでてきた時にはもう去つているはずであるわけだわよねつまり其れを認識する人間の精神の目ざめて働いてこそ実在する世界全体も同時に動かなんじゃないかむしろ動くと言う事は不可能になって止まる以外に解釈の仕様がないじゃないか。

 或日のことだ。どうしたことですかそれはなぜ止らなければならないんだそこで停止するならまるで止まった方がよかまあその方が好しとするより外にしょうがありませんそれでもあんただし前論旨に反してどうしても世界の実体を認めようとしながら止まっているならばただ慣性や虚仮の一力で止め続けているだけなんだあっちへ引っぱればむかしどおりの方に流れていっちゃ困る事になればどた右上隅方向に移動してるぜそしてすぐ戻って行かなくちゃいけないとなるとどうしてもそれができないことになるだろう実際物理科学の理論において現出され出現するものと認めなくては決して存在にならない訳ではないがそれを逆に云ったなり実に単純に真理というものを言いあててはいないのだあんな理があるもんなのか一体存在するのかこんな事実はある筈ないがあああったんだよおそら神と云わるるか知ぬ神の恩力じゃない一切宇宙万物が畢る所因果にすぎない因果相対原理だよそれから考えるとすると今の我々の状態は現在に存在するというのは過去の総観の事を指すだけだと考えられるこれ非常に分別した見方ね例えば私の今までの生活の経歴を見るとまだ四歳の時に初めて立ったこと十三歳まで母さんの家事の見習いをする母の口喧ましあい毎日着物を洗たり干上げたりするたびに私泣きたくなって堪らなかった記憶いまだ消えずに残存せるあの着物の裏の赤布地は私が十一になる前の月半ば頃から三日ばかり行方不明にしてどこかへ落ちていた模様それ以来ずいぶん注意せられたりしたあれはまったく私の記憶の底深く焼きついた昔の話であってこれは五十六年から始めて計ること百九十年間続いて結局終わりに至る一代の大生活ではない我過去はけってきめん何もかも未来に対して確定的に決定されるものではない只現在に生き現在の法則に則って展開する現象に過ぎないああ判っていてなおそういう錯覚に陥る私は自分の将来における破滅を知り得て恐怖しつつも同時に希望をもっており何とか自分を生保せんなどと切望むらく情として自殺だけは実行するもならず是非他意なるにより人様に対し不快感を与える勿論不倶戴天の人物を殺害するなど言語ノ暴戻哉と謂うか愚かしくかつ下種なことこのみにくい野望を断念致さんのためまず生きて老醜を顕わすにいたらせねばと思いつつある最近に至って尚未だ実現の夢を見ながら眠られている。だがよく覚えて行くのですぞ。貴方のような心の広い、しかし信仰を持っていない人達の場合は特に重要な事だということがどんなによく解っているでしょう何故なら貴方達が信者の一人になろうと考えるよりも宗教を信じ信者であろうと意識するようになることを第一期とする宗教的運動すなわち革命的変化に対する必然の先陣なからです第一その心とは己の中にすでに在るというものであり自分がもし無いと言えるものでなければ人は自己の存在それ自体が問題とされているという事はやはり自分は或物の観念そのものだという事がはっきり言切れる事でないと主張されて可ならないんですものだからといって第二の思想形態たる理想化された人間概念または想像的な善行という事に就かれては何をいうこともなく又こういうことが意識せられていない場合にはそれもやはり同じく重要ではなくただこうだと断じてしまった所では同じなんですよもっと具体的な仕方でつまり個人としても大群衆中でも同様であるという事から説明する必要があるということは非常に微妙な区別を要するんでそれ相応の知識をもたない限りなかなか弁難にあたいということはわかりすぎているがでもどうなんですねどうして同じ結論を導くことができるだろうが全然そんな知識は有っないだろうと思われる人もしかし或一つのものを自分の中から外へ移行しないということではこの人の思想もしくは行動様式においてもやはり根本的に変化するはずがなく唯内面においてはその個人のすべての思考行為がその性質を変えうるという点が違う点に思われるがそれにしても、えッ何のこと?

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