第2話

☆☆☆


「大丈夫?」



あれから10分ほど散々笑ったあと、3人はようやく帰っていた。



その間に雨脚は強まり、今では大粒の雨が痛いほどだ。



「ねぇ、井村さん?」



同じクラスの植本太一が私に傘を差し出してきた。



太一の長い足が視界に入った瞬間、苛立ちが体を支配した。



「ひどいねあいつら。怪我はない?」



「うるさい!!」



太一の言葉にかぶせるようにして叫び、その勢いで立ち上がった。



足元で泥がハネて白い運動靴を汚したけれど気にならなかった。



「なんてことしてくれんの!?」



私は無駄に背の高い太一をにらみあげて言った。



太一は私の言っている言葉の意味が理解できないのか、たじろいであとずさりをした。



「どうして怒ってるの?」



「どうして? そんなこともわかんないの?」



本気で笑ってしまいそうになった。



イジメられている私と陰キャな太一が一緒にいることが、やつら3人にとってどういうことは全く理解していないのだ。



これが学年で1番のイケメンだったり、体自慢の男子生徒なら話は大きく変わってくる。



あの3人が大笑いすることだってなかった。



でも太一は違う。



クラス内でもそれほど友人が多いわけじゃないし、女子にもてるわけでもない。



どちらかといえば黒縁ネガネの奥の目が気持ち悪いなんて、陰口を叩かれているタイプだ。



そんな太一と私が一緒にいれば攻撃は更に悪化するに決まっていた。



下手な噂を流されて、イジメは広範囲に広がっていくかもしれない。



太一がよく私のことを気にかけているのは知っていたけれど、その理由もわからなかった。



太一に助けを求めたこともないし、助けられたいと思ったことだってない。



もしかしたら太一は私のことが好きなのかもしれないとは思うけれど、ちゃんと告白されたことがないのでこっぴどく振ることだってできない。



結果的に今日みたいなことが起こるんだ。



「僕がなにか悪いことをしたなら謝るよ」



太一は眉を下げて本当に申し訳無さそうな顔でいう。



それがどこか演技じみて見えて私は足元へ向けて唾を吐いた。



そのときに右頬に唾を吐きかけられたことを思い出して、私は手の甲でそれを拭った。



そのまま何も返事をせずにあるき出す。



太一が後ろからなにか声をかけてきたけれど、それは雨音によってすべてかき消されていったのだった。


☆☆☆


ドロが染み込んだ靴を洗うのは小学生以来かもしれない。



浴室に持ち込んだ運動靴を古い歯ブラシを使って丁寧に磨いていく。



洗濯用洗剤を歯ブラシにつけて人間が歯を磨くように磨いていくのだ。



これは小学校の頃、お母さんが教えてくれた。



以来、靴は自分で洗っている。



「あら有紗、帰ってたの? 今日はすごい雨だったわね」



買い物から戻ってきたお母さんが買い物袋を揺らしながらキッチンへと入っていく。



冷蔵庫に買ってきた食材を入れる音がして、それから脱衣所のドアが開いた。



「ちょっと泥だらけじゃないの」



「おかえり、お母さん」



私は振り返らず熱心に運動靴を洗いながら返事をする。



「傘はどうしたの?」



「学校に忘れてきた」



「もう、小学生じゃないんだから」



お母さんは呆れた声を出し、私の頭にタイルを置いて手で乱暴に水気を拭い始めた。



それはまるでペットにするような感じで、私は首を振って抵抗した。



だけどお母さんは力を緩めない。



「靴なんて後でいいから、先にお風呂に入りなさい」



「……うん、そうする」



お母さんに頭を拭かれている自分は野良猫のようだと思って、私は素直に頷いたのだった。


☆☆☆


運動靴は汚れてもキレイになる。



じゃあ、人の心はどうだろう?



1度他人に踏みつけられて汚された心も、洗えばキレイになるんだろうか?



顎まで湯船につかって考えてみたけれど、答えはでなかった。



例えば、とてもキレイな恋愛をして忘れるとか、引っ越しとかで心機一転、白紙に戻して頑張るとか。



でも、きっとそんなことは不可能だろうと思う。



どれだけキレイな恋愛をしたって、引っ越しをして白紙に戻した気になったって、心の中にはずっと過去の出来事が残っているのだから。



顔を上げて浴室内へ視線を向けると、さっき自分の体を洗いながら一緒に洗った運動靴が見えた。



それは新品みたいに真っ白だったけれど、使われて汚れて洗われたせいでくたびれている。



「運動靴も、元には戻らないんだ」



私はつぶやいて、また顎まで湯船につかったのだった。


☆☆☆


私のお母さんとお父さんは少し能天気なのかもしれない。



夕食の風景を見ていてときどきそう思う。



お父さんは今日1日の中で起きた面白いことを話してきかせてくれて、お母さんはそれは聞いて大きな口を開けて笑う。



お母さんは近所のスーパーの安売りとか、○○さんのところのペットがどうとか言う話を熱心にして、お父さんは優しい表情でその話を聞いている。



「有紗、学校はどうだ?」



その言葉にコロッケを口に含んでいた私は思わず吹き出してしまいそうになった。



一瞬にして3人組からの嫌がらせが蘇ってきた。



放課後だけじゃない、授業中は背中にゴミを投げつけられたし、休憩時間は足をひっかけられて転ばされた。



それを見ていたクラスメートたちの反応も蘇ってくる。



みんな見てみぬふりをしたり、含み笑いをうかべたり。



ただ1人、太一が慌てて駆け寄ってきただけで、別に変わったことはなにもなかった。



そう。



変わったことはなにもない。



高校に入学して以来、ずっと続いている私の日常。



「変わったことはなにもなかったよ。ただ、やっぱり数学が苦手かな」



だから私はそう答える。



だって、これが私の日常だから。

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