第3話

小川の傍のその家の前に立っても、もう以前のようなどんちゃん騒ぎの音はしないでひっそりとしていた。

それもまた淋しく哀れに思えた。


「ごめん下さいまし。」と声を掛けると、

中から戸を開けてチセが顔を出した。

不安そうな顔をしている。

二人の姿を見るとなお、不安そうにした。

「お母さんいらっしゃいますか?」と聞くと、

「はい、います。どうぞ。」と言って中に入れてくれた。

お客のいないその家は、急に力の抜けた抜け殻のようで淋しく見えた。

奥から、「どなたさんですか?どうぞ中に入って下さい。」

と覚えのあるハナの声がした。

奥の部屋へ行くと、敷いた布団の上に綿入れの丹前にくるまって、急に痩せて面変わりしたハナが座っていた。

「風でも引いたんですか?」と菖蒲が聞くと、

「いえね、今までのつけが急に回って来たって感じなんですヨ。自分じゃ丈夫なだけが取り柄だと思っていましたんですが、実はたいした事が無かったって今解った所です。今日はまた、何の御用でしょうか?」と聞いた。

「あのチセさんにはいつも手伝いに来ていただいて本当に有難うございます。

チセさんから何か聞いていませんか?」

「ああ、チセが町に奉公に出るってあれですか?私が急にこんな風にガタが来てしまったもんだから心配して奉公に行くに行けないんでいるんですヨ。」

「いいえ、そうじゃないんです。この石麻呂の所に嫁に来ていただく話です。」

と言うと、

ハナはポカンとした顔をしている。

「チセさん?お母さんに何も話していないんですか?」

チセは黙って俯いている。

私もたった今、石麻呂から聞いたばかりなんですが、

そう言って菖蒲は、今日製材所の親方が訪ねて来て、娘の婿にと話があった事から話し始めた。


「問いただすと、チセさんと一緒になる約束をしていると言うではありませんか。もしも、二人共本気で思い合っているなら私は一緒にさせてあげたいと思いまして。こうして夜遅くに訪ねて来た訳です。」

チセを見ると下を向いたままだ。

ハナが、「私は今初めて聞きましたヨ。チセはきっと息子さんの言葉を本気にしたら、いつか自分が泣く事になると思って私にも話さなかったんでしょう。

自分が息子さんと一緒になれる等、大それた事だと思ったんでしょう。」と言った。

「石麻呂はそんないい加減な気持ちで約束を口に出す人間ではありませんヨ。

チセさん、改めて聞きます。

この息子の気持ちは本当です。

そして二人が想い合っているなら、それが一番だと私も思っています。

チセさんもお母さんのハナさんも、うちは今は御覧の通り昔の面影はなく何も無い所帯ですが、石麻呂の嫁に来てくれませんか?」

菖蒲が言うと、チセは着物の袖で涙を拭いている。

最初から後で何も言わず黙っていた石麻呂が、

「チセさん、どうかうちに来て下さい。お願いします。」ときっぱり言った。

それを聞いていたハナが笑って、

「私はいいですヨ。願ってもない事です。昔なら到底お嫁に行けない格式のあるお宅だ。二つ返事で差し上げます。

実は上の娘も町でいい人を見つけたらしくて安心していた所なんです。

下のチセも片付いたら私には何も思い残す事はありません。

チセ、いいんだネ。決めていいんだネ。」とハナが言うと、

泣いた顔を着物の袖で拭きながら頷いた。

菖蒲とハナは初めて目を合わせてニッコリとした。

ハナが、

「良い事は早い方が良いって言うだろう?形だけでも盃を酌み交わしておきましょう。」と言って立ち上がった。その姿は危なげで

フラフラしてあの丈夫なハナとは思えない程になってしまって、菖蒲は驚いた。

それでもやがて戸棚から小さな湯飲み茶わんを四つ持って来ると、チセを手伝わせて、

酒ではなく水を注いだ物を皆は手に取り、固めの盃を交わした。

ハナが久しぶりの晴れやかな顔で、

「あーあ、これで安心だ。私はいつあの世のお父ちゃんの所に行っても良い。

チセ、良かったネ。

石麻呂さん、チセの事宜しくお願いしますヨ。

この子はネ、小学校しか行っていないが、小学校では勉強は出来る方だったんだ。我慢強いし、人の気持ちは良く解るし、私には過ぎた娘だと思っているんですヨ。

情をかければきちんと返す子供だ。きっと菖蒲さんの事も大事にする娘だ。

石麻呂さん、菖蒲さん、どうか、どうか。チセの事、末永く可愛がってやって下さい。」と言って深く頭を下げた。

あのケラケラ笑って酒を呑んでばかりいたハナとは思えないまともな言葉だった。


「チセ、今日はお前のおっかあは嬉しくて思いっきり親馬鹿になってしまったようだ。」

そう

笑ったハナはもう以前のような元気のあるハナでは無かった。

菖蒲はその時、一時“妲己のハナ”と陰口を聞いた頃の元気の良かったハナが懐かしく思った程だった。

ハナの家を出て帰って来る時も、何故かその弱々しさに不安を抱いて帰って来た。

その不安はすぐに本当になってしまった。

ハナはあの後、いくらも経たずにあっけなく亡くなってしまったのだ。

目を赤く泣き腫らしたチセが、翌日知らせに来て死を知ったのだった。

その話によると、ハナは夜、布団に入ってからも嬉しいのか隣にいるチセにあれこれ語って聞かせたそうだ。

サト婆に可愛がられてここに来て、あの体が弱くて気持ちも弱くて働きの悪いお父と一緒になって、それでも生まれたあんた達を必死に育てながら幸せだった。

お父ちゃんを見てると可哀想で、貧乏くさくって、じめじめしてたら負けちゃうって思って、どぶろくを作って呑んで騒いだ。

お陰で二人の仲間は弱いお父をいつも仕事に連れて行ってくれた。

お父がとうとう倒れてからは工事現場にも出て、男にも負けじと働いた。

結局、こうして体を壊してしまったけどサ。

だけど二人の娘は幸せになるという。

私は嬉しいヨ。満足しているヨ。

苦労が報われたってもんサ。

幾度も嬉しそうに話したという。

それでチセが、

「おっかさん、眠らなきゃいけないヨ。体に悪いヨ。」と言うと、

ニッコリ笑って、「チセ、私の一生は案外、そんなに悪いもんじゃなかったヨ。」

そう言った後、何も言わなくなったから眠ったものだとばかり思っていたら、朝になるとすっかり冷たくなっていたという。

きっとハナは本人が言った通り満足して逝ったのだろう。

菖蒲はあの日、遅い時間を承知で石麻呂と二人でハナの所に行った事を本当に良かったと心の底から思った。

今まで、どこか無神経な女だとばかり思っていたが、あの時、ハナが本当に心の底から石麻呂とチセの事を喜んでくれたのは確かだった。

あのハナを安心させてやる事が出来た。

間に合った。

その事が菖蒲の心をいっぱいにしていた。


ハナの若すぎる葬儀は町から上の姉妹が駆けつけて、菖蒲と石麻呂が何やかやの世話をして、無事葬式を済ませた。

葬式が済むと、初七日を待ってチセをうちに呼んだ。

姉娘も帰ってしまうと、一人っきりは淋しいと思ったし、菖蒲も石麻呂もあの淋しい家にポツンとチセ一人にしてはおけないと思ったからだった。

チセを家に呼んだ日、菖蒲は自分が若い頃、祝言に来たあの豪華な振り袖と金糸銀糸で織った丸帯を取り出してチセに着せた。

チセは、ほころんだばかりの桃の花のように可憐で美しかった。

石麻呂にも紋服を着せて、代々家に伝わる金屏風の前で、朱塗りのお膳、朱塗りの盃に酒を注いで三人きりの祝言をした。

ここにハナがいたならどんなに喜んだだろうと思うと、菖蒲の目にも涙が湧いた。


その翌日、菖蒲はカネゲンの親方源之亟を訪ねて行った。

先日、親方が石麻呂を婿にと言って来た日から何日経ったろう。

ほんの十日足らずのうちに一気にいろんな事が起き、慌ただしく事が運んでしまった。

この一連の事を話すのはいかにも気が重かったけれど、いつまでも伸ばしておける問題ではなかった。

ありのままを話すしかなかった。


「あの日から、いろいろな事がございました。報告が遅れてしまい本当に申し訳ございません。

石麻呂は昨夜、嫁を貰いました。本当に本当に申し訳ございませんでした。

私もこういうことになるとは夢にも思いませんでしたが、毎日、何の見返りもないのに人の畑をせっせと手伝いに来るチセに、石麻呂は感謝と同情心を持っていたのでしょう。

私はそれに少しも気が付いておりませんでした。

あれからチセの母親の具合が急に悪くなり、あれよあれよという間に事が進んでしまいました。報告が後になって大変申し訳なく思います。

今まで、数々助けていただいてまた、石麻呂の事も育てて頂いて感謝しております。

この後は源之亟様、貴方様の思い通りにして下さい。

石麻呂がそちら様で働く事が出来なくとも、それは本人が一番覚悟しております。

例えそうなったとしても、何の意趣も持つ筈はありません。今まで本当にありがとうございました。」


源之亟は暫らく黙ったまま腕を組んで聞いていた。

「確かに私にとっては嬉しい話ではないが、こればかりは本人の気持ちの事で、世話になったから婿にならなければならないという道理はない。

そして、断られたから仕事を辞めて貰うというのも私の生き方に反する。

菖蒲さん、心配は無用です。

石麻呂君には今まで通り働いて貰います。娘にいつか婿を迎えた時、一緒に仕事をするのは働きづらくなるかも知れない。

だが、私や私の娘はそういう了見の狭い人間ではないし、そういう了見の狭い人間は嫌いだ。石麻呂君にも余計な気を遣わないよう、今まで通り仕事をしてくれるように伝えて下さい。

私からはこれ以上何も話さないが、話さないのは怒っているからではなくて、気遣いをさせない為です。そう伝えて下さい。」

怒りもしないが、笑いもしない顔でそう言った。

源之亟とはそういう人間だった。

菖蒲は帰り道、どこまでも出来た人だとつくづく思った。

少しも怒りはしなかったし、報告が後になった無礼も責めなかった。

石麻呂はそれからも変わりなく、カネゲンの製作所に勤め続けた。

やがて明くる年、源之亟の娘に婿を迎えた。

遠縁の息子で、日に焼けて黒くいかにも健康的で気の良さそうな青年だった。

幼い頃遊んだ事があるとかで、娘も相手を大変気に入っているという事であった。

これで菖蒲も石麻呂も心の底から安心したのだった。

それからは平和で心安らかな日々が続いた。

嫁のチセは働き者でよく気の利く嫁だった。

石麻呂も静かな性格で、チセも口数の少ない質なのに二人でいる所を見ると、そんな二人が何を話しているのか笑って楽し気であった。

菖蒲は心から良かったと思った。

幸せとはこういうものなのだ。

これならやがて孫が生まれ、この家も賑やかになるだろう。

何人もの孫に囲まれている自分を想像するのも楽しい事であった。


やがてチセは身ごもった。

石麻呂は父親になるのだ。

そして、自分はお婆になる。めでたい、めでたい。

果たして男の子だろうか。女の子だろうか。

そう思った時、チラリと亡くなった連れ合いの武麻呂の言葉が頭をよぎった。

「男の子なら古池の呪われた血が…。」

私は何てくだらない事を気にしているんだ。石麻呂だってこんなにピンピンしている。

男でも女でもどっちでも良いじゃないか。


チセは大きいお腹を抱えながらもよく働いた。

菖蒲が心配して止めても、まだ大丈夫ですからと言ってクルクル良く働く嫁だった。

そのお陰か、お産は軽かった。

生まれたのは女の子だった。

女の子はいい、良かった。女の子で良かった。

菖蒲は心の中でホッとしていた。

何も知らないチセが、

「お母様、旦那様。女の子で申し訳ありません。」と言うので、

「チセ、何を言っているの。私は女の子で本当に良かったと思っているんですヨ。将来親の近くにいて何かと親孝行してくれるのは何と言っても女の子ですものネ。

ねえ、石麻呂?」と言うと、

「ああ、私だってどっちだっていいんだ。女の子も可愛いネ。」

そう言って若い父親は喜んだ。

生まれた赤子の名前を若い二人から頼まれた。

菖蒲は迷わず“ケン”という名前はどうかと言った。

さすがに若い二人の親は意外そうな顔をした。

ケンという名前は女の子には響きが強すぎるかも知れない。

だが、これは亡き武麻呂が考えた名前だった。

武麻呂が亡くなってあの堪忍部屋を片付けた時にサト婆が、

「こんな物が枕の下にありました。」と言って、菖蒲に渡してくれた。

それは、病床で痛みのひいた時に考えたらしい赤子の名前だった。

女の子の名前がいくつか書いてある中に、“ケン”という名前に丸印がしてあって、その下に絹や繭や絢という字が書いてあった。

武麻呂は女の子が生まれてくる事を願っていたのだろう。

その時の為に、“ケン”という名前を用意していたのだろう。

武麻呂の声が聞こえて来そうだ。

「“ケン”という字には健康の健や賢いという賢もある。他にもいろんな字がある。

女の子なら絹のケン、繭もケンと呼ぶんだ。

でもその字を置くと、絹さん、繭さんと呼ばれかねない。

もしも使うとしたら、絢爛豪華の絢を当てて欲しいネ。この子にはそんな美しい一生を送ってほしいからネ。人生は楽しくて華やかな事はそうあるもんじゃない。

むしろ悲しい事や苦しい事の方が多い。

だからこそ、名前だけでもこの字を使いたいネ。

なに最初から決める事はないヨ。この子が大きくなって自分で決めれば良い事だからネ。」


菖蒲はこの愛くるしい初孫がどうかどうか末永く幸せであって欲しいと願った。

そう願えば願う程、この子の道の先にとんでもなく辛い苦労が待ち構えていやしないかと危惧の念を抱いてしまうのだった。

大概の人がそうであるように何の災いもない平穏無事な一生などというものは無いからだ。必ずや人の一生というものは何がしかの苦労は付きまとうからだ。

それならばその苦労にめげずに強く生きて行って欲しい。

その一心で決めた名前だった。

亡き武麻呂もきっと考えた事だろう。

名前一つで何もかも解決出来る事ではないが、その名前に託した人々がいた事を思い出して勇気を出して欲しいものだ。

菖蒲は自分の性格を決して臆病や悲観的だとは思わないが、生きて行く上には思わぬ事が起こるものだという事は身を持って知っている。

今はもう分限者でもなくなり、暗い運命のような話を残して死んで行った夫を思い出すと、何につけても“覚悟”は大事だと思う。

自分は今はまだ大丈夫だが、いつまであの若い夫婦の後ろ盾になっていられるだろうか?


新しい生命がこの世に誕生する事は嬉しくめでたいが、祖母となった菖蒲は自分の命のようなこの幼子の先々の人生まで思ってしまう。

その心が解ったのだろ。

チセが、

「お母様ありがとうございます。私はこの子の名前は“ケン”で良いと思います。小さい頃はどうか解りませんが、名前は一生、自分の看板として背負っていくものです。

この子がメソメソするような弱い子では無くて、この名のようにキリリとした娘になってくれれば私も安心です。」

そうチセが言うと石麻呂も、

お母さんが一生懸命考えて下さった名前だ。間違いないヨ。

さあ、お前はこれから“ケン”だヨ。ケン、丈夫に育つんだぞ。

この名前の通り健康に育つんだゾ。」

そう言って喜んでくれた。

何年か後。あの頃の喜びに満ちた日々、

口数の少ないチセも勿論思い出しているだろう。

菖蒲も後々幾度も思い出した。

人生で何の不安も不満もない日々というなら、あの頃だったとしみじみ思う。

愛らしい赤子を中心にその若い両親と祖母の自分も笑顔に満ちた日々だった。

美しい絵のような日々だった。

そして、幸せはいつまでも続く筈だった。だが

その日々がある日突然終わり、苦しみ悲しみが襲って来て大切な人は失われた。

何年か過ぎた今となっても思い出す度に泣けてくる。

あれは本当に長い長い露の間にほんの一瞬、天の雨雲が流れ去り、まるで夢のように晴れ渡った空に虹の橋がかかったようなそんな一時だった事が今になって解る。

あの日がもう二度と帰って来ない事を、絶対に取り戻せないものだとはっきりと解っている今だからこそ尚更の事。

涙をともなってやるせなく思い出されるのだ。

あの天にかかった虹のように美しい日々を。


あれは初孫が誕生を迎えてヨチヨチ歩きをし、可愛い盛りだった。

そんなころに、あの石麻呂が死んでしまった。

ある日、仕事を終わって帰ると、ものも言わず青い顔をして靴を脱ぐ成り、倒れて大量の血を吐いた。

チセも菖蒲も驚いてすぐに医者を呼んだ。

もしや労咳かと思ったが、そうではなかった。

医者は武麻呂がかかった医者だった。

随分年老いていたが記憶もしっかりしていて、昔の事もよく覚えているし、あの時の患者の息子だという事にも気付いて、父と息子の因縁に驚いているようだった。

菖蒲が医者を陰に連れて行って、

「先生、息子の病気は何なのですか?」と聞くと、

「同じ病気です。あの時の御主人と同じです。御主人を始めて診察した時はこぶし大の大きさでしたが、息子さんのはあの時よりも大きい…。」と言った。

菖蒲が、

「おかしいです。今日の今まで息子はどこも悪くないように過ごしていたんです。痛みを我慢している様子もありませんでした。」


「それは不思議ですナー。こんなに大きければ何らかの症状があった筈なんだが。」

「先生、あれから二十年も経っております。治療できるようになっているのではありませんか?どうか、どうか。手術でその大きなかたまりを取って直していただけませんか!

御願いします、先生、治して下さい。」

「息子はまだ二十四歳です。子供もまだ小さいです。どうか助けて下さい!」

菖蒲はすがって頼んだ。

翌日、石麻呂は町の大きな病院へ行って手術をした事のある医師に見て貰う事になった。

長い道のりを菖蒲がついて行った。

チセはケンと二人留守をして待った。


検査というより高名な医師が触診しただけだったが、腹の中の腫瘍があまりに大きくなり過ぎた事とそれが破れて出血した事から、もしも腹を切り開いても難しいと言われた。

無理に手術してもかえって命を縮める事になると言われた。

それよりも今までこんなに大きくなるまで気が付かなかった事を不思議がられた。

菖蒲は急に弱ったように見える石麻呂を支えて家に帰って来た。

村の医者も痛み止めで痛みを抑えるより方法はないと言いにくそうに同じ事を言った。

菖蒲は、

「それなら出来るだけ沢山薬を下さい。苦しむのを見るのは死ぬより辛いんです。

どうか沢山薬を下さい。」と願い出て、大目に薬をいただいて帰った。

町の医者も村の医者も、この薬は一度に多く飲むと危険な薬です。

その事をよく理解して下さいと、くどく言うのだった。


石麻呂もとうとう捕まったのだ。

古池の家のあの呪いに捕まってしまったのだ。

菖蒲の体は怒りと恐ろしさにブルブル震えた。

だが私は今、どうすべきか?

どうするのが一番良いのか?

帰りの列車の中で菖蒲は歯の根が噛み合わない程震えるのを、向かいにぐったり眠る息子に悟られまいとしながら考え続けて来た。

そして家に帰りつくとすぐ石麻呂をチセに預け、あの堪忍部屋の釘を抜いて開けた。

歯をギリギリさせて涙を流して必死に釘を抜いた。

二十数年ぶりに開けた堪忍部屋。

ここで武麻呂は苦しんだのだ。そして死んだのだ。

菖蒲の目から新たに涙が溢れ出た。

今更また、ここの部屋を開けなければならなくなるなんて思いもしなかった。

掃除をし布団を敷いて、石麻呂とチセの所に行った。

「幼い子供がいてはゆっくり養生も出来ないだろう。

それに子供にとっても病気の父親の弱った姿は見せない方が良いと思います。

チセさん、今晩から石麻呂には向こうの部屋に移って貰います。

いいですか?病人の看病は私がします。

チセさんはケンの事と他の事をお願いします。」

菖蒲は決然と言い切った。

義母の勢いに押されて承知したチセだったが、石麻呂のいない所で、

「あのー、お母様。旦那様の病気はどうだったんでしょうか?

先生は何とおっしゃんたんでしょうか?」とチセが聞いた。

「チセさん、落ち着いてよく聞いて下さい。

一度しか言いません。病気になって一番辛いのは石麻呂本人ではありませんか?

まず第一に本人にとってどうするのが一番か周りにいる者は考えなければなりません。世間には思わぬ事故で急に朝出たままで帰らぬ人になる事もよくある事です。

病気になる事も辛いけれど、その人達に比べれば私達には時間があります。」

そこまで言うとチセはハッと顔色を変えた。

「よくお聞きなさい。必ず死ぬと決まったものではありません。

ですが、私達生きている人間は必ずいつかは死ぬのです。親しい人達を残して死んで行かなければならないのです。

チセさん、貴女が一番その事を身を持って解っているじゃありませんか?

貴女のお母さんもそうでした。

本当に思いがけない悲しい別れでした。人は必ず別れる日が来るのです。

それは逝かれる物よりも先立つ者の方が辛く悲しいかも知れません。

先立つ者は残る者に、残る者は先立つ者に、精一杯の事をして後々、それが励みとなるようにしなければならないと私は思っています。

チセさんにとっては石麻呂は愛する大切な夫で頼りにもしている人。

私にとっても同じです。石麻呂はたった一人の可愛い息子です。

どっちの愛情が重く、どっちの愛情が軽いと天秤にかけられるものではありません。

私は今日、今から精一杯の事をします。どうすれば石麻呂が心配せずに少しでも心穏やかに体を労わる事が出来るのか。

そして、もしもその日が来た時には静かに諦めが出来るのか、そしてその時自分の短かった人生にいかに満足して逝けるか。

遺して行く者達を出来るだけ心配しないで逝けるか?

そういう気持ちにさせるのが私とチセさん、貴女の役目なんですヨ。

私は石麻呂のお陰で今まで幸せでした。

チセさん貴女はどう?

例え短い間でも石麻呂のお陰で幸せでいたのなら、今こそ私達はそれを返さなくてはいけない時が来ているんじゃないのですか?

若い貴女に、しかも気が動転しているこの時に酷な事だとは解っています。

でもあえて厳しい事を言います。

石麻呂の前で泣いてはいけません。自分達はどうすれば良いのとか泣き言を言ったり不安を漏らしてはなりません。

石麻呂の身になって、石麻呂が安心出来るようにしなければなりません。

チセさん、“覚悟”をして下さい。貴女ならきっと出来ます。

貴女ならきっときっと出来ます。」

菖蒲は声が震えるのを隠しながら、つとめて冷静にチセに話した。

そしてその日から、武麻呂を看病したサト婆になりきって、息子を看病し痛みの無い時はチセと子供に会わせてやった。

それから半年程して石麻呂は亡くなった。

菖蒲はあちこち走り回り探し回って痛み止めに効果のある物を集めた。

けしの花の実にその効力があると聞くと、秘かに取って来て痛み止めを作った。

石麻呂にはあんな苦しい戦いはさせたくないの一心だった。

その他に医師からはしつこくお願いして、頓服の薬を多く貰った。

堪忍部屋に伏って一ヶ月程した時、

「お母さん。私のこの病気は治るものなんでしょうか。」と石麻呂が聞いた。

菖蒲は前々から本当の事を本人に話すべきかどうか何度も何度も考えていた。

何も知らずに治る事を信じたまま逝かせようか?その方が幸せかも知れないとも思った。

だがもしも自分ならどうだろうか。

訳も解らず痛みが来ると薬を飲んで、取りあえず痛みが治まるが回復する兆しがない。

そうして次第に弱って行く。

それでは最後に思いが残らないだろうか。

自分なら嫌だ!

覚悟をして納得して死んで行きたい!


その日は穏やかな日で、頓服が効いて石麻呂はゆったりとしていた。

菖蒲は心を決めて話し始めた。

二十年前に死の前の日、武麻呂から聞いた都の古池の家に伝わる呪いの病気の事。

そしてここに婿養子に来てその呪いから逃れたと思っていた矢先に、やはり同じく腹の中にできものが出来て、石麻呂が生まれるまではと頑張ったのだが亡くなった事を事細かに打ち明けた。

「だがネ、私はそんな話信じなかったんだヨ。私の生んだお前にまでその呪いの病気が伝わるなんて考えてもいなかった。まるで忘れていたんだヨ。」

そう言いながら、菖蒲が思わず泣きそうになるのをこらえていると、

「じゃあ良かったネ。ケンが女の子で。本当に良かったネ。」と石麻呂が言った。

思わず顔を見ると、石麻呂は嬉しそうに笑っている。

「だってそうじゃないか。僕の所でそれを終わりに出来るんだから。それに母さんから本当の事を聞いて良かったヨ。

あといくら生きられるか知らないけれど、生きているうちにチセやケンに話しておく事は沢山あるし、僕は聞いて良かったと思っている。

それに亡くなった父さんよりも父さんの叔父さんよりも僕は幸せ者だナ。

ついこの間までそんな呪いの事を何も知らずに呑気に暮らせた事だけでも幸せだし。

今、母さんから話を聞いて覚悟する時間も出来た。まあ不幸中の幸いっていう事かも知れないネ。

ところでチセはこの事を知っているの?」と聞いた。

「今、話した事は何も話していないし、解らないと思う。でも病気の事は何なのか勿論心配しているでしょう。」と言うと、

「そう?いつも僕の前でニコニコしているから治ると信じているんじゃないかナ。」

「そうかも知れないわネ。」

すると石麻呂は思案気な顔で、「この呪いの事はチセには話さない方がいいと思うんだ。チセは我慢強いけれど余計な悩み事を増やしたくないからネ。」と言った。


石麻呂はそう言って心配する母親を安心させた。

心の中がどんなに波立っていたかは解らないが、実に立派だと思った。

あらためて自分の息子を見直し、それ故に尚更惜しくてギリギリする程悔しく、夜、寝床に入っても石麻呂の言葉を思い出し繰り返し泣いた。

菖蒲はあれこれ走り回って、石麻呂を苦しい痛みと戦わせないようにした。

そしてチセと幼い孫に石麻呂の苦しむ姿を見せまいとしたが、その薬もやがて飲んでもそう長く効かない所まで来た。

夜、渡り廊下に布団を敷いて付き添いをしている菖蒲が、

「石麻呂、どうしても痛いなら我慢する事はないんだヨ。お前の枕元に先生から頂いた頓服が三袋あるだろ。どうしても苦しくていっそ早く楽になりたい、このままぐっすりと眠りたいと思ったら、その薬を一息に飲めばいいんだヨ。母さんは覚悟は出来ているヨ。」

菖蒲は息子のやつれた顔を見るのが辛くてそう言った。

すると堪忍部屋から、

「母さん、今まで本当にありがとうございました。

母さんの息子に生まれて僕は良かったとずっと思っていました。

母さんは道理の解った女の人にしては珍しく立派な人です。カネゲンの親方だって母さんには一目置いているくらいです。

そして今まで僕は本当に幸せでした。悔いはありません。

チセとケンの事は心配ですが、母さんがついているから安心しています。

母さん、チセを呼んでくれませんか?ケンをもう一度抱きたいナ。連れて来て下さい。」

と言うのが聞こえた。


菖蒲は急いで眠っているケンと不安そうなチセを連れて来た。

すっかり遊び疲れて寝ているケンをしみじみと眺め抱いて頭を撫でると、石麻呂はケンを菖蒲の腕に渡した。

「今夜はゆっくりチセと話をしたいから、母さんはケンをお願いします。」と言った。

堪忍部屋を出る時振り返ると、石麻呂は笑顔でじっと菖蒲を見送っていた。

覚悟したのだ。

石麻呂はきっと覚悟したのだと思った。


その夜、なかなか眠れないでいるうちに、朝方ほんの少しうとうとしたようだった。

気が付くとチセの泣き腫らした顔が近くにあった。

石麻呂は死んだのだった。

石麻呂は覚悟を決めて命を全うしたのだった。


そして、あれから何年経っただろう。

菖蒲とチセとケンの三人暮らしになって月日は通り過ぎる風のように流れて行った。

淋しさと悲しさもケンの成長のお陰で少しずつ、少しずつ薄れて行った。

ケンという子供は聡い子供だった。決してお転婆ではないのだが、菖蒲やチセの欲している事を素早く見抜いて行動に移すような所があって菖蒲は時々笑いながら言うのだった。

「ケンは誰に似たのでしょうネ。私だってケンのお父さんだってこんなに気は利いていませんでしたヨ。チセさんに似たのかしら?」

するとチセは、

「私も言われて行動する方ですから。」と言って笑った。

「それじゃチセさんのお母さんのハナさんに似たのかも知れませんネ。

あの方、いろいろ気を遣う方だったから。」

それから、二人は久しぶりに亡くなったあのハナを思い出して懐かしんだりした。

チセは相変わらずの働き者だった。

朝早くに家の周りの畑の様子を見ると、どこから見つけて来るのか他の家の仕事の手伝いに歩いて手間賃を稼いだ。

菖蒲はその度に、ハナのように体を壊しはしないか心配して、

「あまり無理をしないように。」と言った。

だがチセは痩せているのによくクルクル回って働いて若いせいかどこも疲れを見せる事は無かった。

菖蒲はケンのお婆として幼い頃からケンを相手に家の中の事をし、時に読み書きを教え、時に行儀等の気になった所をケンに注意した。

ケンは一度注意された事は二度と注意される事はない子供だった。

小学校に上がってからも賢いのでいつも成績は甲乙丙の甲ばかりだった。

やがて高等科に三年行きそれを終えると女学校に行く事になった。

女学校に行くとなると、汽車で町のある女学校に通わなければならない。

ケンはその女学校に一年だけ通ったが、一年通うともう通うのは辞めると言い出して、母親と祖母が説得したが辞めてしまった。

「だって、お金が勿体ないんですもの。」とケンは言った。

「お母さんが一生懸命働いて作ってくれるお金を、おしゃれやおしゃべりばかりしている人達に混じっているととても無駄な事をしているような気がしてしまうんです。」と言うのだった。

そうしてケンは女学校を辞めて家で家事をする事になったのである。

ケンの意志の固さに負ける形になったチセは、

「学校で教わるお裁縫やお作法はお婆様に教えていただいた方が余程良いかも知れませんネ。よくサト婆から聞いたものです。

お茶も踊りもお琴も三味線もお習字も全て町から一流の方を招いて身に付けられたって。いつもサト婆が私に教えてくれたんですヨ。」

「まあ、サト婆がそんな事を言っていたんですか?それなら、あの頃の高いお月謝の元を取る為にもケンには私の知っている限りの事を覚えて貰いましょうか。

いいですか?覚悟は出来ていますか?」

「はい!お婆様。」

三人っきりになった今、嫁姑の垣根を越えて三人が一つになって労わって行くしかなかった。

そのように割合、楽しい毎日であった。

石麻呂の事はその妻の胸にも、母親の胸にも徐々に美しい思い出になって行った。


ケンが十六歳になったばかりの時だった。

源之亟の屋敷に以前から村の中でもよりすぐった者と町からの優秀な青年達を招いて勉強会と称してこれからの世の中について話し合う事をしていた。

それも恒例になってきた頃、この度は何故か近所の女房達の手を借りて旨い物を作って出す事になった。

その宴会に花を添える為に、村の娘達に来て貰いお膳を運んで貰いたいというのだ。

これは今やこの地方の名士になった源之亟の考えた、年頃の優秀な青年達の集団見合のようなものだったのだろう。

その時に手伝いの手が足りないからとケンにも話がかかったのである。

源之亟が自ら出向いてきてチセと菖蒲に話す事には、

「料理を作る手は足りているんだ。年頃の美しい娘さんにお膳の上げ下げをお願いするだけなんだが…。」と言った。

祖母の菖蒲は明らかに嫌な顔をした。

「源さん、うちのケンはまだ十六歳で子供です。そのような酒の席に出す事は遠慮させていただきます。」と断った。

その時、チセもとんでもないと思った。

だが源之亟は、

「これはケンの為でもあるんだヨ。集まる顔ぶれは皆、選び抜かれた青年達だ。

女学校も途中でやめて母親と祖母と三人っきりでどこにも出ないでひっそりしていたのではケンのこれからの縁談の事を考えているのかネ?

宴席で芸者のように一緒に騒いだり、酒のお酌をして欲しいという訳ではないんだ。

ただ、お膳を運んでくれるだけでいい。それが終わったら隣の控え室にいてくれるだけでいいんだ。

最後にはじゃんけん大会があって勝った者には豪華な賞品を用意してある。

それには、手伝いのおばさん達も一緒だから何も心配する事はないんだヨ。

そんな場所に一度や二度顔を出しておくだけでも、あの娘はどこの娘だと話にのれば、良い嫁の口が来るかも知れない。

何もケン一人だけに声をかけているんじゃないんだ。ここぞと思う娘達十人以上は来る筈だヨ。

皆喜んで着飾って来てくれるだろう。

儂はお宅のケンを道で見かけた事があるが、美しい良い娘になられましたナ。

我家に年頃の息子や孫がいたら是非にといいたい所だがあいにくいないのが残念だヨ。

私はこれでも先のカネヤマの大旦那には恩義を感じています。

石麻呂君の事も若くして逝ってしまい非常に残念に思っています。

大したことは出来ないが、残された一人娘のケンさんを出来るだけ良い所に嫁がせたい。

その手伝いが出来ないものかと常々考えていたんです。

どうしても嫌だというなら諦めますがの。」

と言った。

チセも菖蒲もそう言われるとケンをこのままひっそりとこの家の中に埋もれさせるのも可哀想だと思い、二人は顔を見合わせた。

思えば女学校は一年通ったが、ケン自身がその必要を感じなかったこともあるが菖蒲の体が急に弱って、ケンが手助けするのを大層必要としていた事も確かだった。

あの時ケンが、私、必要な事は皆、お婆様から教えていただきます。その方がお金も時間もかからないでずっと役立つ事を勉強出来ますから。

そう言い切ったからだった。

あの時、チセには迷いがあった。

あのカネヤマの孫娘なのだからせめて女学校だけは出してやりたい。

生活は正直三人がようやっと食べている有様だった。

蔵には貴重なものが沢山あって、菖蒲がそれらの物を少しずつなじみの骨董屋に売っていればこそ借金する事なしに生活していられたが、その財産もかなり目減りしている事は想像がつく事である。

とにかくここの生活の采配はまだ菖蒲が握っていたが、孫のケンはこの家の懐を考えて言い出したに違いなかった。

ケンは母親のチセに似たのかよく働く娘だった。

畑仕事を手伝ったり、お昼を過ぎると菖蒲と一緒にいて縫い物をしたり手習いをしたり、お茶のお稽古をしたりした。

そして自分だけの時間が少しでも出来ると、いつも一人で何か絵のようなものを描くのが好きなようだった。

それを少しも不満とも思わず退屈とも思わずに、ケンは母と祖母の三人だけの世界で生きて来たのだった。

その頃に源之亟が、勉強会の宴席のお膳運びの話を持って来たのだった。

この話が好意によるものと解れば断る事が出来なかった。

そしてケンは、一晩手伝いに行く事になった。

他の娘達も着飾って来るという。

菖蒲もチセも他の娘達に見劣りしないように飾って出そうとした。着物は良いものがいくらでもあった。

だがケンはそれを拒んだ。

私は他の人と競ったり目だったりするのは嫌なんです。そう言い張っていつも着ている絣の着物で出掛けてしまった。

菖蒲とチセは、

「あの身なりではきっと気後れしていくらケンでもしょんぼりして帰って来るだろうヨ。」

そう言い合っていると、ケンは何事もなかったように帰って来た。

「どう?お運びなんて緊張したでしょう?皆さんきれいにして行ったんじゃないかい?」


「それが私お台所が大変そうだったから、おばさん達のお手伝いをしたの。

だって他の人達は皆、振り袖を着て手伝える様子じゃないし。人手が足りなくて困っているおばさん達を手伝える格好をしていたのは私だけなんですもの。

でも良かったワ。おばさん達から助かったってとっても喜ばれたから。」

といかにも嬉しそうな顔をして、

「おばさん達がネ、カネヤマのケンお嬢様は何でも出来るんだネって行って皆で私をしきりに誉めてくれるのヨ。何をやらせても手早いって。」

ケンはその日の事を頬を紅潮させて話した。

「じゃ、お座敷には顔を出さなかったのかい?」

「ええ、もっぱら台所の裏方ばっかり。でも叔母さん達が作った料理をこっそり食べさせてくれたから、もうお腹いっぱいいただいちゃった。」

チセも菖蒲もその話を聞いて何だか残念に思った。

ケンならば例え振り袖を着ていなくても着飾った娘達に負けぬ程目立ったろうに。

そう思ったからだった。

それに昔、菖蒲の若い頃に親が金に糸目をつけずに町の呉服屋を呼んで作らせた着物類は何枚もつづらに大事にしまってあった。

どれも贅沢な品ばかりで今となっては、金を出しても簡単に手に入らない物ばかりだ。

近頃、とみに娘々して美しくなって来たケンに着せて眺めながらこれからはこれを着るようにと言うのに、ケンはそんな上等な物を少しも身に付けようとはしなかった。

菖蒲とチセはそれでも正月や桃の節句には派手な振り袖を無理矢理ケンに着せて楽しんだ。

髪もきれいに結い上げ、べんこうのかんざしやビラビラかんざしを付けると、それはそれは美しく、外を連れ歩いて見せたい程だった。

菖蒲とチセはその美しさが誉に思えていつまでも眺め、自分達も一番の着物を着て、ケンの点てたお茶をいただいて昔、栄えた頃を偲ぶのだった。

だからケンは振り袖がなくて着れないのではなかった。

「私、そういうふうに着飾って人様の前に立つのが苦手なんです。

だからお母さん、お婆様、堪忍して下さい。」

ケンはそう言ってきかなかった。

その堪忍しての“堪忍”という言葉を聞いた菖蒲はドキリとした。チセもそうかも知れない。

そしてあの時もそれ以上ケンに振り袖を強要出来なかったのだ。

結局、それで良かったのかも知れない。

本人は裏方の仕事をしておばさん達に気に入られて満足だったようだから。

まあ、座敷に出て人の目に留まる事は無かったけれど、ケンは人と張り合って自分をよく見せようという気持ちが全くないのだもの。

まだ子供なのだと二人は笑い合ったものだった。

その後、間もなく菖蒲が風邪を引いて床についた。

すぐ治るものと思っていたが、そのまま起き上がる事無く、最後には厠にも立てなくなってケンに厄介をかけたが、それもほんの短い間だった。

寝付いた後、特別痛みを訴える事もなく命の灯が少しずつ細くなるようにひっそりと亡くなった。

その枕元にいつも付き添っていたケンに、菖蒲は最初はためらいながらも、チセに話さなかったあの話をケンに伝えたのだった。

「ケン、お前は女の子だし、お前のお父さんやお祖父さんのようになる事は決してないだろう。だが、お前がいつか誰かを好きになってその人と一緒になった時は子供も生まれるだろう。その子が代々、ずっと女の子ならば良いが、中には男の子も生まれるだろう。

このお婆の話した事が笑い話になる時代が来ると良いけれど、昔から血は争えないとか、顔や耳の形、爪の形が親に似る、祖父母に似るという事はよくある事だ。

私は体に流れる血がどのように代々受け継がれるかなんて難しい事は解らないけれど、お前のお祖父さんとお前のお父さんは確かに都の古池家の血の為に亡くなった事をこの目で見て来た。

ケン、子供を生む時はこのお婆の言った事をよく思い出すんだヨ。

そして賢く動いて自分の子供を守るんだヨ。」

お婆は最後に目を落とすまでに何度も同じような事を繰り返した。

一番気になっていた事なのだろう。

「みんな、みんな、この私が招いた事なんだヨ。だけど私は後悔はしていないヨ。」

そう言い残して菖蒲は逝った。

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