第2話

気が付くと枕元で母親が泣いている。

この日が来るのが恐ろしかったと言って泣いている。

「仲麻呂今日から貴方は何も我慢して隠す事はないのですヨ。

堪忍部屋へ行けば人の目を気にせず苦しい時は苦しいと泣いたり叫んだり出来ますヨ。

その方が良いでしょう?」

と母は泣きながら言った。

今まで聞いた事のない優しい声音だった。

私は黙って頷いた。

その日から私はここの住人になったんだヨ。私は今まで、歴代の古池家の男子に巣くう腹の中の化け物と戦って来た。

こんな物、気力と体力で必ずこの俺が退治してやる!と気力を尽くして戦って来た。

だが、その戦いも終わりを迎えようとしている。私はいろんな本を読みあさり、本当に呪いというものがあるのかどうか調べもしたが、実際この私の腹の中に化け物は棲み付いた。

結局解らないのだヨ。

世間でも腹の中に悪い腫れものが出来て無くなる人はいる。私の他に多くの人が患っているそれが全部呪いだというのか?

絶対そうではないと思う。古池の家は流れている血の中に代々婿を入れて、その血を少しずつ薄めて来ている筈だ。そして、女の子にも同じ血は流れているのに、女にはこの病は出ないという。

私の調べはここで行き止まりだ。解らない。


私が何を悪い事をした?

絶対に呪いをかけられるような事はしていない。

武麻呂!お前にも私と同じ血が流れていると思うと、お前だけが愛しいし心配だ。

お前はまだ十歳だ。まだまだ時間はあるが今から何かを考えろ。

出来たらこの古池の家を飛び出せ。飛び出して他の土地で生きたなら、もしやこのおぞましい連鎖を断ち切る事が出来るかも知れない。

武麻呂、お前が可愛いヨ。お前だけが俺の本当の気持ちを解ってくれるような気がする。いいんだ、今は解らなくても。

いつかはきっと今の私の気持ちを解ってくれる日が来るだろう。」

そう言って私を見てニッコリ笑うと、隠し持っていた何かをクイと飲んで、もう話は終わった帰りなさい。そう言って私を部屋の外に追い出した。

叔父、仲麻呂はその日に亡くなったヨ。

二十八歳だった。二十八まで頑張ったのだ。

当時の私は悲しみよりも叔父から聞かされたその話の事ばかり思い出していた。

何とかしなければならないと思った。その話は十歳の私にはとても信じられない話だった。

まるで、恐ろしい地獄絵図を突然見せつけられたようなものだった。

それからの私はとにかく勉強した。

今の自分に出来る事は勉強しかないと思ったからネ。精一杯頑張って神主にもなった。

私の下に妹が生まれたのは私が五歳の時だ。

思い返せば父親も母親もホッとしていたのを思い出す。

私は死の前に叔父が話した事を忘れなかった。忘れないようにしたのではなく忘れられなかったのだ。

そして私が二十歳になった時、五歳年下の妹に両親は急いで婿をとった。

二十歳になる私を差し置いて、まだ幼さの残る十五の妹に婿養子を迎えたのだ。

私は心の中で、あーやっぱりという思いがあった。叔父が話していた通りの事だった。

そして漠然と私も叔父と同じように間もなく死ぬのだろうか?

このまま一人で死ぬのだろうかと思った。

私はこれでも都にいたその頃は女の人達から少しはチヤホヤされたんだ。

呪われていると言われる先の人生を思うと、滅茶苦茶に遊び回ってやろうと考えたけれど、それは自分がいつか必ず呪われるという事を認める事になりはしないかと考えて止めた。

二十歳を過ぎてからは、外からは誰も私の心の中は解らなかったろうが、常にあの堪忍部屋で叔父が語った事が私を苦しめていたんだ。

私の体には少しも変わった所は無かった。

だがこうしている間にも何かがヒタヒタと自分に近寄って来るのではないかといつも怯えていた。二十二歳になり、二十三歳になった。

何とかしなければならない。だがどうすれば良いのだ。

笑顔を作りながらも、いつも考えていた。

そんなある日、ここの村の神社が改装されて誰か行かなければならないと聞いた時、私は飛びついたネ。友達の家の神社という事もあってネ。

私は妹婿が来る筈だったのを両親に申し出て、その式に是非私を代理に行かせて欲しい、その式の終わった後少しのんびりして来ても良いという許しも貰った。

両親の胸の中にはある思いがあったのだろう。先の長くない命なら本人の好きなようにさせてやろう、そう思ったのかも知れない。ここは素晴らしかった。

ここの空気は美味しかった。

こんな土地の山の中で一人洞穴の中で生活し、誰にも知られず死んで行く事も考えた。

でもこんな私には所詮無理な事だ。

やっぱり、いつかまた、あの堪忍部屋のある呪いのかかった古池の家に戻るしかないのか?

私の人生はそれ以外にないのだろうか?と考えたり、また、もしかしたら、

都から遠く離れたこんな空気のきれいな場所でなら、きっと呪い等というものは忘れられる。例えあったとしても諦めて退散するかもしれない。等と考えたり、

だが力仕事も出来ない私にはその勇気も度胸も持てなかった。

そうして一ヶ月が経ってしまった。いくら何でもこれ以上友人に迷惑をかける訳には行かない。叔父のように死んで行くかも知れないが、万に一つ自分だけは逃れられるかも知れない。いろいろ考えたが結局、私が帰れる場所はあの古池の家だけなのだから。

そう覚悟して腰を上げて帰ろうとしていた時に、菖蒲、私はお前に会ったんだヨ。

私はあの時いっぺんでお前を好きになったんだヨ。女の人をこんなに好きになったのは初めてだった。

不思議な気持ちだった。

あんなに早朝にまるで神様が私を助ける為にしてくれた事だと思った。

「この縁を離しちゃいけない!武麻呂。」と頭の中で死んで行った叔父の声がした。

だから図々しくも、その日のうちに友人を無理矢理引っ張って御挨拶に行ったんだヨ。

私はネ、菖蒲、お前がこの私をあの古池の泥の中から救い出してくれる女神様に見えたんだヨ。こう話すと自分だけの為にお前を利用したように思うかも知れないが、あの時は私の体はどこも悪くなくて、私は本当に心の底から菖蒲、お前を好きになったんだヨ。


そして私はお父さんに認めて頂いてここに入る事が出来た。

あの時は夢のようだった。

今まで泥の中でもがいていたのが、地上に出て胸いっぱい新しい空気を吸う事が出来た。そんな気分だった。何もかも新しい素晴らしい人生がこれから始まる、私は泣きたい程嬉しかった。

勿論、私の両親も反対はしなかった。

もしかしたら違う土地でなら健康で長寿を全うできるかも知れないと思ったからだろう。

私が家を出る時、母が、「武麻呂、体の具合はどうなの?どこも悪くはないの?」と聞いた。とても心配そうな顔だった。

「お母さん、私はどこも悪くはありません。あそこは木々の多い、とても空気の旨い所なんです。良い所ですヨ。心配しないで下さい。」

そう言うと、母は初めてホッとした顔をして、私を送り出してくれたんだ。

あの時、私は自分が悪習から本当に抜け出す事が出来たと思ったんだ。

嬉しかったし、幸せだった。

ここのカネヤマの家をしっかり支えて行こうと思った。


だが結局こうなってしまった。

菖蒲、今となっては、お前に隠し事をしてこの家に入って皆を苦しめる事になってしまった。

申し訳ない、謝るヨ。


私とお前の子供が出来たと知った時は嬉しかった。何と言っても古池の直系の男子が子孫を残せたのだからネ。

だけど心の中ではどうかどうか女の子であって欲しいと思っていたんだ。

もしも女の子なら本当に呪いはここで断ち切れると思ったんだ。

だけど男の子だった。

この子だけには私のような思いはさせたくない。

この子には健康で長生きして貰いたい。

女の子だったらといろいろ名前を考えていた。だが男の子だったからそれなら、強い頑丈な男になって欲しいからネ。私なりに祈りを込めて考えた。

名前を石麻呂と付けて欲しい。菖蒲、私は今まで幸せだったヨ。

代々の古池家の直系の男子で子供の父親となれたのは恐らく私だけだろう。

菖蒲と会えたおかげで妻と子を持てた。凄い事だヨ。

私はネ、この堪忍部屋でこいつと戦いながらもずっと不幸だった訳ではないんだヨ。

痛みの引いている間はむしろ踊り上りない程幸せだったヨ。

死んだ叔父にも、見ているかい?武麻呂は子孫を残したヨと教えてあげたんだ。

叔父は「よくやった、よくやった。お前の子がそのまた次へと子孫を残し、やがてはいつかこのまがまがしい呪いとやらの原因を突き止めて解決してくれるだろう。」

そう言っているような気がしたんだ。私はむしろ希望を持って死んで行けるんだ。

菖蒲、苦労をかけるが後は頼むヨ。本当にありがとう。」

げっそりやつれてはいたが、優しい顔だった。

そして武麻呂はその日の夕方、亡くなった。

自分の子供を見る為に、ギリギリ頑張ったのか。あるいは母子共に大丈夫だった事を確かめた後は、痛みに苦しむ必要がないとまとめて薬を飲んだのかも知れなった。


武麻呂の亡くなった後、堪忍部屋は中をきれいにし、神社のお水を頂いて清めた。

そして、もう二度とこの部屋を使う事がないよう釘を打ち付けて開かずの間として封鎖した。

武麻呂は亡くなったが、この家には可愛い男の子が残された。

菖蒲の父も母も赤子に夢を託してそれはもう可愛がって皆で育てた。

菖蒲は死の間際の夫から明かされた不吉な話は一言も誰にも話さずに胸の内に秘めた。実際、自分にこう言い聞かせた。

呪い?そんな馬鹿な話。

そんなものがこの森林に囲まれた清浄な空気のこの土地にまで追いかけて来る筈がない。

夫は慣れない仕事で体を壊したのだ。

だが菖蒲の父親は時折思い出したように、

「都育ちの大事な婿に無理はさせられないと随分気をつけて、疲れ仕事はさせないようにしたのにナー。」と言ったりする。

菖蒲はその父親の言葉を聞くとドキリとする。

例え偶然にせよ、夫はまるで呪いを約束されたようにわずか二十四という年齢で亡くなってしまった。二十五までも生きられなかったのだ。

都の親元へ知らせを出したが、武麻呂の父親から達筆の丁寧な手紙が来ただけでついに誰も顔を出さなかったのは淋しい事だった。


菖蒲はスヤスヤ眠る我が子の顔を見て、フッと不安を覚える事がある。

この幼い石麻呂にも呪いは受け継がれるというのか?今は大丈夫でも青年になった時に夫のようになるというのか?

いやいや今からありもしない事を考えて心配するのはよそう、そう思い直すのだった。


だが災いは小さい赤子にではなくて、山主の父親にやって来た。

突然、父が倒れたのだ。

健康に気を付けていた父だったが、ある日、見回りしている山で倒れたと言って戸板に乗せて運ばれて来た。中風だという。

かなり重く、三日間意識が戻らなかったが、四日目には奇跡的に意識を取り戻した。

だが話す事が出来ず体も自力で起き上がれなくなっていた。

わずかに動く右手に筆を持たせて体を支えてやりながら字を書いて意志を伝えるのがやっとだった。

しかし、それもすぐに疲れ、長い時間は無理だった。

父親は“源を呼んで来い”と書いた。

“源”とは源之亟の事で菖蒲が婿をとるまで父親の片腕として働いていた有能な男だった。菖蒲に婿が来る事が解ると父親とも話し合ってカネヤマを去った。

父親も小さい頃から可愛がっていたので、のれん分けの気持ちで小さな山を一つ与えていたのだった。

あの後、源之亟は所帯を持ち、その小さな山を担保にどこからか金を借りて材木を商う仕事を始めたという噂であった。

頭が良く、先見の明があり人柄も誠実な事から、源之亟に力を貸す人は多くその仕事は順調に行っているという事だった。

呼ばれた源之亟はすぐにやって来た。

話す事もままならず顔半分の筋肉が弛緩した山主の顔を見て、源之亟は息を呑んだようだった。

ろれつの回らない自分の舌にいらだちながら、やがては涙と鼻水を流して源之亟の手を取ると、その手を握ってしきりに何か言いたげだった。

側についていた菖蒲は急いで涙や鼻水を拭いてあげながら、その手に筆を持たせた。

父親は震える手で、“帰って来てくれ”と書いた。

その字を見た瞬間、菖蒲は驚いて源之亟を見た。

源之亟はその字を見て口を真一文字に結んだまま、暫らく言葉を探していたが、


「申し訳ありません。

旦那様の頼みとあれば何をさておいてもそうしたいのは山々ですが、私を信頼し信用して自分の何もかもを投げ出して今の私の仕事にかけてくれている人が何人かおります。

そのうちの一人が嫁の父親です。

嫁もじき子供が生まれます。もう私の体は私一人きりの意志では決められない所まで来ているのです。

申し訳ありませんが、他の者に頼んで下さい。本当に申し訳ありません。」

と言って、カネヤマに残っている従業員の中から頼りになりそうな古株の者を何人かあげてその人達に頼むように言うと、深々と頭を下げて帰って行った。

帰り際に菖蒲に、

「何かある時は私の出来るだけのお手伝いをしたいと思いますので言って下さい。」

そう言ってくれたが、菖蒲はこの人をあてにしてはならないと思った。

あれだけ父親に源之亟なら確かな男だから婿にと言われたのに、あの人ではありませんとはっきり拒絶した事が頭にあった。


その後、父親は力の抜けたようにボーッとしていた。

それから入れ替わり立ち替わり従業員が見舞いに来ては何やら相談して帰って行った。

母親も菖蒲も父親の仕事の事はさっぱり解らなかった。

それでも、それから半年程は父親は生きていたが、とうとう亡くなってしまった。

すると亡くなって葬式が済むか済まないうちに、あれほど多勢働いていた従業員達がまるで蜘蛛の子を散らすように誰もが逃げるようにいなくなってしまった。

古株の者達も最後に残った者が責任を負わされるのを恐れるように誰もが去ってしまって、そして後には何も残らず、調べてみるとあの仰山あった山々もみんな借金のかたに取られているという有様だった。

何も解らぬままに呆然としている菖蒲と母親の前に見知らぬ男が現れて、この家屋敷もこの周りの土地も人の物になっている。だから近々出て行って貰うと言われた時、二人共動転してしまった。

山々が人手に渡って無くなっただけでなく、今住んでいる所も取られるというのか!

菖蒲は恥をしのんで源之亟の所に走った。


いつの間にか山々はおろか、今住んでいる土地家屋敷も出ろと言われた。

今更、貴方に頼める筋合いではないが、せめて今住んでいる所だけはどうにかならないだろうか、そう言って泣いて頼んだ。

菖蒲が見栄も恥ずかしさもかなぐり捨てて頼んだのは、後にも先にもあの一度切りだった。

源之亟は父親が見込んだだけある男だった。

それからあちこち奔走して、最後には自らいくらかの借金をして、菖蒲たちが今住んでいる家屋敷とその周りの畑だけを取り戻してくれた。

源之亟はその証拠の書きつけの他に、それに添えて当座の生活に必要なお金を置いて行った。

少しも恩に着せるような事も言わず、こちらを蔑むような素振りもしなかった。

菖蒲はその時初めて、その人の価値を少しも見ようとしなかった自分を悔いた。

しかし、あの時の自分にはどうしてもこの人と一緒になる気持ちは湧いて来なかったのだ。

あの頃の自分は、ただ一筋に他の誰かを待っていた。

そして、それが武麻呂だったのだ。

これが運命なのかも知れないと思う。

父親が亡くなると力を落として急に老いて行く母と赤子の世話をしながら、菖蒲は慣れない畑仕事をした。

以前、サト婆が菖蒲達の家の中の仕事をしながら耕していた畑だったが、サト婆は武麻呂が亡くなってすぐに体の調子を崩して家に引っ込んでしまっていた。

菖蒲は母親を励まして、その畑を耕して自分達三人の暮らしを支えなければならなくなった。石麻呂はスクスク育っていったが、慣れない畑仕事は大変だった。

そんな時、サト婆の姪のハナが手伝いに来た。

ハナは菖蒲より二つ程年上で、もうすでに所帯を持って子供も二人いた。

菖蒲が、「サト婆はどうしているの?」と聞くと、

「お婆ね。お婆は元気だけどボケちゃってサ。」と答えた。

その言い方があまりにカラッとして屈託が無く他人事のように言い放ったので、菖蒲は驚いてハナを見返した。

子供のない独り者のサト婆の元にサトの妹の娘がいつの間にか一緒に住むようになって亭主を迎えて一緒に暮らしている事は菖蒲も聞いていた。

山主の父親が亡くなって、その後、従業員は誰もいなくなった後、サト婆だけは何かと気にかけて無理をしても畑仕事を見てくれようとしたのだが、急にパタリと顔を出さなくなって気にはなっていたのだった。

菖蒲はその時、このハナの能天気さに以前から呆れていたので、生みの親ではなくともサト婆は自分の親のようなものじゃないか、よくもまあ平然としていられるものだと思った。

以前も一度来てくれた事があったが、始終鼻歌のようなものを歌っていて、こっちの心持ちなど全く気にもしない様子で、ザッと辺りを見渡して自分が考えた所まで仕事を済ませると、

それじゃ子供が待っているからと言ってサッサと帰ってしまう女だった。

こっちはお金一銭払っている訳じゃなし。お願いをして来て貰った訳じゃなし。

本当は丁寧にお礼を言って感謝しなければならないのだろうが、そんな礼の言葉すらかけそびれるような無頓着さがハナという女にはあった。

菖蒲は気持ちがかみ合わない相手にいつもイライラさせられた。

だが、あのサト婆がボケたと聞いては放っておけない。

本当にボケたのだろうか?

あのサト婆が?

あの控えめで気の付く利口なサト婆がボケるなんてにわかに信じられなかった。

菖蒲の母は少し離れた所でやはりおぼつかない様子で畑仕事をしていて何も聞いていない。

ハナはあっけらかんと、

「最近夜中にうなされている事はよくあったんだけど、昼日中に誰もいないのに誰かに向かって話し掛けているんだヨ。

大変でしただろうとか。よくも御辛抱なさいなしたとか言ってるのサ。

うちの亭主が先に気付いて、私がそれから気を付けているとやっぱりそうだった。

それで私はお婆の所へ行って、お婆、誰に話しとられるのかね。

誰もいないのに独り言かねと聞くと、すぐ黙ってしまって何も言わん。

これがボケたと言わないで何と言う?」

ハナはそう言った後、赤子と小さい子を置いて来ましたんけ。私しゃ帰ります。

お婆が奥様、嬢様の事をしきりに気にかけますんでほんの少しでもと思って来ました。

サイナラ。」と言って、

サッサと帰って行ってしまった。


普通だったら自分の親がそんな風になったら、心配で気に病んで呑気にはしていられないだろう。

話を聞いたからには知らないふりもしてられない。

菖蒲は夕方になると、幼い石麻呂を母に預けて、サト婆の家に見舞いに行った。

道路から斜めに下った細い小道は小川に続いており、その小川に行く途中に小さなかやぶき屋根の家が建っていた。

野菜を洗うにも洗濯をするにも、水の便が良い所はさすがサト婆らしい住まいだと思った。

ここはスポンと下った所で風の当たらない所だから冬もいいだろう。

菖蒲がその家に近づくと、やたら賑やかな様子の声が聞こえて来た。

酒盛りをやっているらしい。

どうしようかと思案した後、思い切ってガラリと戸を開けると、すぐ目の前の板の間にハナと亭主と思われる男と他に見知らぬ男が二人、総勢四人で酒盛りの真っ最中だった。

菖蒲がどうしようかと戸惑っていると、

「ありゃまー、カネヤマのお嬢さん。こんなあばら屋にようこそ、おいで下さいました。

さあ、どうぞ、どうぞ。

高価な料理はありませんが、どぶろくならたっぷりございますので一緒に酒を呑んでいって下さい。」とハナが陽気に言った。

ハナはもうかなり酔っているようであった。

他の男達三人もすっかり出来上がっているらしかった。

ハナの亭主というのは初めて見たが、やせて小柄で色も黒く貧相で、例えていうならば、しなびたなすびを思わせた。

それに引きかえハナは、女の割に背丈もあり顔も体も作りが大きく、陽にやけなければ色が白いだろう。おしろいを塗ったり紅をさせば派手な着物がよく似合いそうな女だった。一瞬菖蒲の頭に、“のみの夫婦”という言葉が浮かんだ。

菖蒲は呆れながらもサト婆に会いに来た事を言って、サト婆の寝ている所に通して貰った。

サト婆の寝ている部屋には、石麻呂と同じ三歳ぐらいと五・六歳の女の子が枕元で遊んでいた。

あのハナの娘とは思えない程、おとなしそうな女の子達だった。

菖蒲はサト婆の近くによると、

「サト婆、私ですヨ。こんなに体具合が悪かったなんて知らなくてごめんなさいネ。」と言った。

すると、「お嬢様、勿体無い。奥様は大丈夫ですか?お二人がどうされているか心配で、ハナが私の替わりに畑に行くと言ってくれて…。

お嬢様、あの子はあんなふうで誤解されやすい性質ですが、それはそれは心根の優しい子なんですヨ。

私が一人で暮らしているから淋しいだろうと一緒に暮らしてやるって、そう言って私の所に来てくれたんです。

お陰で私はこのように年を取って動けなくなってもこうして孫に囲まれて安心していられるような訳なんです。」と言った。

菖蒲がサトの話を聞いていても、少しもボケたようなおかしい所は感じられない。

「サト婆、夜中にうなされる事はないの?」

と聞くと、

「ああ、あれはその…。」と言いよどんでいたが、最後には薄情した。

「若旦那様が堪忍部屋でお苦しみになったのはそれはそれはお可哀想でした。

あんまり苦しそうで、私は廊下の中程から先には行けませんでした。

お嬢様のお体にさわるからと自分のうめき声を絶対に聞かせないようにと気を配っておられました。

時が経って今頃になって、あの時の苦しいうめき声が夢の中に現れて来るんですヨ。」

と言って、悲しそうに笑った。

菖蒲はその時初めて、このサト婆に辛い仕事を押し付けた事を申し訳なく思った。

病人の苦しむ姿はどんなにサト婆にとっても辛かった事だろう。

「サト婆、本当に本当にごめんなさいネ。」と菖蒲が謝ると、

「いいえ、少しでもお役に立てたのなら本望です。お嬢様、私もそう長くはないかも知れません。ほら、よく言うでしょう?

その時が近くなるとお迎えが現れるって。そのお迎えというのでしょうか。

私以外の人には見えないらしんですが、最近誰かその辺に立っていたり座っていたりするんです。

それがいつも後ろ姿なんです。

こっちを見ませんし、何も言いません。

でもそれがどうも若旦那様のような気がするんですヨ。それで私はつい話し掛けてみるんです。それが家の者達には妙に感じるのかも知れません。

お嬢様だから本当の事を話してしまいました。

お嬢様、ハナは本当にいい娘ですヨ。お嬢様のように学もなく躾もなっていませんが、心根の優しい娘です。私は幸せ者です。」

サト婆は昔と少しも変わらぬ優しい笑みを浮かべて話した。

やっぱりサト婆はボケてはいなかった。

「サト婆、お前も知っている通り私の家にはもう何も無いのよ。

これは私と母が着た古い着物で、こんな物で申し訳ないけど。」と言って菖蒲は着物を二枚置いて帰って来た。

ハナと男達はまだ酒を呑んで大笑いに笑っていた。

菖蒲はそこを逃げるように帰って来た。途中まだ陽が西の空に残っていたが、帰りに二人の女房が立ち話している側を通りかかった。

会釈して通り過ぎた後、二人の女達の声が聞こえて来た。

「そうじゃ、あれは妲己(だっき)じゃ。中国で王様を酒で駄目にした妲己じゃ。」

「そうじゃ、そうじゃ。妲己のハナじゃ。」

二人の女房がうっぷんを吐き出すように言う悪口を背中に聞きながら、菖蒲はきっとあそこで呑んでいる男達の女房だろうと思った。

サト婆が、どんなにかばっても菖蒲の目にはやっぱりハナという女は自堕落なとんでもない女に映った。


サト婆が自分で言っていた通り、その後間もなくしてサト婆が亡くなった。

その一年後に菖蒲の母親も亡くなった。

急に次々と人が欠けて淋しくなったが、時の流れは早いもので、石麻呂も大きくなった。

村に出来た小学校に通うようになっていた。

源之亟が年に何回かお金を援助してくれたが、菖蒲は遠慮せず有難く受け取る事にした。

そのお陰で家の周りの畑を作りながらどうにか親子二人が暮らしていた。

その畑を人知れず手伝う者がいた。

春には春の種まき、夏には夏の草取り、秋には秋の収穫の時期にいつ誰が来てくれたのか菖蒲が石麻呂にご飯を食べさせて畑に出て行くと、畑が耕されて種がまかれていたり、夏には伸び放題の畑の草がきれいに抜き取られていた。

毎日ではないし菖蒲がそろそろ草を取らねばと考えていると、気持ちが伝わったように誰かが暗いうちから来て手伝ってくれるのである。

秋も秋で大根が抜かれてそれをきれいに洗って干されていた時にはビックリした。

ハナだろうか?きっとハナに違いない。

他にも何人か思い当たる人もいるけれど、ハナしか考えられないと思った。

だがはっきりしないものを、またあのドンチャン騒ぎの酒盛りしている所に行くのがためらわれた。

菖蒲は夏のある日、源之亟から珍しい干菓子を貰った事があった。

それに、母の遺した着物の中から誰でも合うような一枚を添えて、古い風呂敷に包むと畑の入り口に手紙を挟んで置いておいた。

「どなたか存じませんが、いつもありがとうございます。大変感謝しております。

これは頂き物とお古で失礼ですが私の気持ちです。どうぞお受け取り下さい。」と書いた内容だった。

そして翌朝、陽が昇った時に畑に出て見ると、風呂敷包みは無くて畑は大方、きれいに片付けられていた。

人影も全くなく何の印も残っていなかったが、きっとあれはハナだろう。

ハナに違いないという気持ちを強く持った。


月日は流れて菖蒲も最初は心細く淋しかった二人だけの生活にも慣れて、石麻呂も中学に通い出す年令になった。

家の中に男の子がいるという事は頼もしく、近頃は背もぐんと伸びて増々亡くなった父親の武麻呂に似て来たように思う。

顔立ちも菖蒲より武麻呂に似て、母親から見ても美しい顔立ちだと思う。

学校の成績も良いらしいが、男の子にしては大人しいというか静かでおっとりしている所が少し気になる。

これも武麻呂に似たのだろうか。

やがて高学年になると、学校の教師も当然上の学校へ行くものと話を進めて来た。

源之亟も金は自分が出すから石麻呂を町に下宿させ、高等学校、大学へ行かせるようにと言ってくれた。

その頃の子供は殆どが中学校を出ると上に行かずに働く者が多かった頃である。

余程の金持ちならば町の学校にやるが、ましてはここは山裾の村であった。

菖蒲は胸が痛んだ。両親が健在で武麻呂も死なずに生きていたならこのカネヤマの大事な跡取り息子を当然大学までやった事だろう。

だが今は自分には少しの力も無かった。

それが、石麻呂は、町の高等学校には行かずに働きたいと言った。

これ以上源叔父さんに迷惑をかける訳には行きません。自分が少しでも働いて母親を安心させたいと言った。

石麻呂の意志は名前の通り堅かった。

菖蒲は息子がしっかりした一人前の男に成長してくれて嬉しかった。

結局、本人の気持ち通り働く事になった。

源之亟が自分の製材所で働かないかと言ってくれたのである。

最初は源之亟自ら連れていろんな持ち場を見せて歩き、そしてそれを一通り小僧のように経験させてから、やがて最後には帳簿を扱う係の下に着かせた。

それを聞いた菖蒲は源之亟が亡き山主の父親との約束を守って、石麻呂を育ててくれている事に感謝した。

石麻呂は頭の良い事もあって自分の仕事を意欲的に覚えているらしかった。

顔色を見ると解る。増々青年らしくなって、職場に行く事も億劫がる様子もなく出て行くのは職場環境が良いのか、仕事が自分に合っているからだろう。

何より自分が一人前に働いて母親を助けているという気持ちが自信につながったからかも知れない。

それに源之亟が今までは何かと自分達親子に手を差し伸べてくれていた事は知っていたし、その恩にやっと報いる事が出来るという気持ちも強かった事を菖蒲は知っている。

石麻呂はいつの間にか、こんなにも早く大人になったのだが、頼もしさを感じながらも一生懸命な、まだ若すぎる息子に不憫さも感じてしまうのだった。

ともかくも一人息子は一人前になった。

一人前になって働いて家にお金を入れてくれるようになった。

それは菖蒲にとってどんなにか心強かったろう。

今は落ちぶれてしまったけれど、私は幸せなのかも知れない。こんな立派な息子がいるのだもの。

菖蒲はこうも思った。

落ちぶれたと思うのは間違っている。最初から普通の暮らしをしていれば今が幸せの真っただ中なんだ。

なまじ昔に物持ちの家に生まれたばっかりに辛い気持ちになった事もあるが、最初からなーにんも無い家に生まれたと思えば今の暮らしの有難みがしみじみ解る。

とにかく石麻呂は気持ちの優しい自慢の息子だ。

良すぎる程だ。今まで一度だって反抗したり、母親を困らせた事がない子だった。

もう少し母親に心配をかけても良いのに…。

昔からあんまり良すぎると早死にするなんて事を言う人もいるくらいだから…。

そこまで思ってついギクリとする。

私は何でまたこんな馬鹿げた無駄な事を考えてしまったんだろう。

石麻呂に不満を抱いたら罰当たりだ。

私は何て勝手でわがままな女だろう。

そう思って自分を笑ったりした。

菖蒲にとってそれからの数年間は久々に感じる穏やかで幸せな日々だった。


そういう間にの菖蒲の畑を手伝いに来るのはハナではなくてハナの末娘の“ちせ”というまだほんの若い女の子が見えるようになった。

菖蒲が畑に出て行くと、畑を耕していたり草を取っていたりするのである。

そして菖蒲の姿を見かけると、恥ずかしそうに会釈をして逃げるように帰るのだった。

ハナと違ってまだ幼さの抜けないような若い娘なので、朝、真っ暗な中を畑に来る事は恐いのだろう。

ある日早めに畑に出た菖蒲が、

「いつもありがとう。お世話になりながら何もお返しが出来ないでごめんなさいネ。

お父さん、お母さんお元気?」と聞くと、

「おとっつあんは体を壊して寝ています。それでおっかさんはおとっつあんの代わりに現場に行って働いています。」

そう言った。

ハナは確かに丈夫そうだが、それにしても男達に混じって男の仕事をするのは大変だろうと思った。

仕事はずっと下流の方の大きな川にかかる橋の工事だと聞いた。

菖蒲は石麻呂の給金が入ると、そのお金の一部で男物の浴衣地を買って大急ぎで仕立てた。

そして、それを持ってハナの亭主の元に見舞いに行った。

だが家の近くまで行くと、相変わらず賑やかな声が聞こえて来た。

少しためらったが勇気を出して戸を開けると、亭主は入り口を入った真正面の所に敷いた布団に半分背をあずけたような状態で仲間に加わっていた。

体を壊した亭主もハナ自身もまた、他の男達二人も相変わらず一緒に呑んで騒いでいるのだった。

菖蒲を見ると、「あらまー、カネヤマのお嬢さん!」とハナはやけに大きな声で迎えた。

「あのー、御亭主がお体が悪いと聞いたものですから。」と言うと、

「そうなんですヨ。悪い事には悪いんですけど、ほれ、この通り大丈夫なんです。」と陽気に答える。

隣りの亭主もニヤニヤ笑いながら酒を呑んでいる。

どこが悪いのか怪我をしたのか、ハナの娘からは詳しい事を聞いていないが、今このお祭り騒ぎの中でそれを聞くのはいかに聞きにくい空気だった。

菖蒲が、「これを御亭主にと思って。」と言いながら真新しい浴衣を差し出すと、

「まあまあ、これは結構なお品だこと。あんた!こんないい浴衣、死ぬ前に着られて良かったネ。」

ハナがそう言いながらその浴衣を広げて亭主の肩にかけてやると、周りの男達が大声でギャハハハと笑った。

亭主も嬉しそうに笑っている。

死ぬの死なないのを簡単に笑いの種にして盛り上がって呑んでどんちゃん騒ぎをするのだった。

菖蒲は自分が馬鹿にされたみたいで早々に帰って来た。

やっぱり、あのハナとは気持ちが合わないと思った。

この頃になって、折角あの人の真心を感じ、お礼の気持ちを少しでもと思って浴衣を縫って見舞いに行ったが、何だか逆に馬鹿にされて帰って来たような気がした。

何て事だろう。

亭主が体具合が悪かったら静かに寝かせておくのが本当だろう。

帰りの道々、菖蒲はハナの神経を疑いながら歩いた。

それにしても、ハナの下の娘のチセはハナとは似ても似つかず無口で大人しい娘だと思った。小さい時からそうだったが、いつ見ても無神経な母親に似た所は一つもなく、ひっそりとした娘だった。

村の小学校も何年まで行ったのか、中学には行かないようだった。

毎日ではないが、一日おき二日おきには菖蒲の畑に姿を現して、それが自分の仕事でもあるかのようにせっせと畑仕事をしていつの間にかいなくなっていた。

上の娘は町の方へ奉公に出ているという事だった。

ある日、石麻呂を仕事に送り出すついでに畑に出ようと一緒に外に出た所に、いつもはもうとっくに来ている筈のチセが遅れてやってきた。

そして二人を見ると、「すみません、暫らくお手伝いに来れません。」と言った。

顔を見ると泣き腫らした目をしている。

「おとっつあんが死にました。」

そう一言言った後、クルリと背を向けて帰って行った。

石麻呂と菖蒲はその後ろ姿を呆然と見ていた。

あの御亭主はついこの間、酒を呑んでニコニコしていたのだ。

布団を敷いてはいたが、ニコニコして酒を旨そうに呑んでいたのだ。

あの時ハナが言った言葉は嘘でもなく冗談でもなく本当の事だったんだ。



ハナの亭主の葬式が終わって初七日も済むと、またチセは時々ちょこっと畑に顔を出した。そして、少し畑にいては帰って行った。

それを知っていた菖蒲はチセをつかまえて、

「おっかさんはどうしてるの?橋の工事に行ってるの?」と聞いた。

するとチセは、

「いいえ、家の中にいます。何もしないでボーッとしています。お酒も仕事もおとっつあんの為だったから、もうお酒も呑まなくていいし、仕事にも行かなくっていいって。」と言った。

それじゃ、あの毎日のような酒盛りはもう終わってしまったんだろうか?

しーんとした家の中で呆けたように座っているハナの姿を想像して胸が痛んだ。

チセは自分の家の事をする合間に、菖蒲の家の畑を見に来てくれてるようだった。

ある日、何か申し訳なさそうに、

「あのネ、私もそのうち町に奉公に出るから、もうここには来れなくなると思うんです。」

そう言った。

そうか。働き手が亡くなるとやはり食べて行くのはどこも大変なんだ。

そう思って菖蒲は少し淋しかった。

石麻呂にもその事を何気に話した翌日の朝、早朝に畑に来たチセをつかまえて、珍しく石麻呂が何か話をしていた。

何を話しているのだろう。

今まで母親が世話になったとお礼でも言っているのだろうぐらいに菖蒲は思っていた。

それから暫らくしても、チセは二日おきぐらいに菖蒲の畑に来て少しして帰って行った。

そして、そのチセの姿を見かけると、いつの間にか石麻呂が出て行き、少し立ち話をしている様子だった。


ある日、久しぶりに石麻呂の雇い主の源之亟が、日中石麻呂の留守に菖蒲の所に立ち寄った。


「菖蒲さん、石麻呂から話を聞いているかい?」と言う。

「何の話でしょうか?」

「実は以前からそれとなく石麻呂にはこっちの気持ちを伝えていたんだが、この間、はっきりとうちの婿になってくれる気持ちはないかと頼んだんだが…。

何も話を聞いていないかネ?」と言う。

菖蒲は驚いてしまった。

確かに源之亟の所には石麻呂の後に生まれた娘がいた筈だったと思い出した。

その下にも生まれたのはやはり女の子だと聞いた覚えがある。

それにしても婿にとは…。

石麻呂はもうすぐ二十歳だ。

男にしては少し早いが、世間には二十歳前に嫁を貰っている者も珍しくはない。

カネゲンの親方は、石麻呂の実直さと働きぶりを見て、白羽の矢を立てたのだろう。

元従業員の源之亟に助けられ、今はそこに雇われ、そして今度は婿にと請われている。

菖蒲の心の中にほんの少しだけこだわりの棘のようのものが刺さったが、勿論、相手はあくまでも好意の申し出をしてくれているのだ。

そんな事にこだわってはいけない。

菖蒲は丁寧に本人が帰って参りましたら気持ちを聞いてみますと返事して、帰って頂いた。

石麻呂ももうそういう年になったのだと思うとしみじみと深い感慨を覚えた。

カネゲンの娘の事は今まで考えた事も見た事もないが、石麻呂は見て知っているだろう。

どんな娘だろうか?

源之亟の娘なら悪い娘ではないだろう。

夕方になって、石麻呂が仕事から帰って来た。

風呂に入り夕ご飯を食べ終わると、菖蒲は話を切り出した。

「今日、お前の所の親方が見えましたヨ。源さんの所の娘さんはどんな娘さんなの?」

石麻呂は黙っている。

「好きになれないようなわがままな人かい?」

「いいや、普通の人です。」

「お前を婿にと言って下さっているが、お前の気持ちはどうなの?これはお前のこれからの人生を決める大事な分かれ道でもあるんだ。

よーく考えて自分の心に正直にするんだネ。私も昔、自分の気持ちに正直に決めた。お前の父親を選んで結局そのお陰で今はこんなになってしまったけれど…。でも後悔はしていませんヨ。」

と言うと、


「お母さん、私は婿には行きません。約束をかわした人がいるんです。」

石麻呂が意を決したように言い切った。

それには菖蒲は驚いた。

職場と家との間を行き来しているだけだと思っている息子に、いつ好きな人が出来たのだろう。

「どこのどんな人なの?

一緒に働いている人なの?

どこで知り合ったの?」

矢継ぎ早にそう聞くと、

石麻呂は笑って、「お母さん、チセですヨ。チセならお母さんを大切にしてくれると思ったんです。」

石麻呂がそれを話す顔は晴れ晴れとしていた。

あのいつも畑を耕してくれているハナの娘のチセを自分の嫁に迎えるというのだ。

今の自分達は山もなし、金もない。

石麻呂は他人の製材所で働く身の上である。だけど我が家は代々、婿や嫁を迎える時はそれなりに家柄や血筋、財産はどれ程かを調べて迎え入れて来たのだ。

それがよりによって、あの妲己のハナの娘とは…。

菖蒲は一瞬、そんな事が頭をよぎった。

そして、源之亟の娘婿になるのと天秤にかけていた。

しかしすぐに気が付いた。

自分はたった今、息子に自分の心に正直になりなさいと言ったばかりだ。

それなのに、その舌の根も乾かぬうちに、こういう事を考えるのはいかにもおかしい。

だがチセを嫁にするとなると、小学校もまともに通いとおしたかどうか解らない娘をわざわざ良縁を蹴って嫁にするという事はいくらあの源之亟でも気分を害するだろう。これからの石麻呂の立場はどうなるのだろう。

もしもその後、カネゲンに婿養子が入ったら、いよいよ石麻呂は慣れた職場を追い出される事にもなるだろう。

菖蒲は口を閉じたまま暫らく考え込んでしまった。

実際にはその時間はほんの数秒だったかも知れないが、そのほんのわずかな間に、

石麻呂の父武麻呂が、今わの際に言い残した呪われた血の事も、早くに苦しんで亡くなった父親の顔に面影が似た息子を見ているうちに、心のうちに悲しみとも願いとも言えない激情がせり上がって来るのを抑えようがなかった。

そうなんだ、人間の一生なんて解らない。

いつ死ぬかも、どんな災難に遭うかも解らないんだ。

呪いでなくとも、はやり病にかからない保証もないんだ。

いつ、どんな時、どんな形で一生を終えようとも悔いのない事が一番大事なんだ。

そう思うと心が決まり、シャンとした。

「石麻呂、お前の好きなようにしなさい。お前が好きになった娘を嫁にするのが一番なんですヨ。

お母さんの為だと言ってくれるのは有難いけれど、お母さんは二の次、三の次だ。

お前が好きになって一緒になるのが何よりなんだヨ。

お前はチセの事が気に入ったんだネ。あの娘は今時珍しい良い娘だ。

だけど、あの娘の気持ちはしっかり確かめたんですか?」

菖蒲の口から自分でも思いもよらなかった言葉が次々と出て来ていた。

心の奥底では源之亟の婿に収まる事は将来を約束されたも同然だという事。

今ではこの地方では誰もが認める名士であり、彼に認められ婿に入る事は大変名誉な事である事。

商売は順調に大きく伸びているし、息子もそうだが自分ももう惨めな暮らしをする事もない。そう思ったり。

だが人は時に思いもよらない災いに見舞われる。

こうしている間にも何が起こるか知れない。

少なくとも自分が死ぬ時は後悔はしたくない。

息子にも後悔はさせたくない。

菖蒲は短い時間の内にそんな事を思い、そして結局そこに落ち着いた。

息子の石麻呂はいつの間にか、ハナの娘チセと一緒になる約束をしていると言った。


それを聞いた菖蒲の行動は早かった。

石麻呂の気持ちを確かめ念を押すと、もう辺りは暗くなっていたが、二人してハナとチセのいるあの家に出掛けて行った。

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