昔話 絢(ケン)

やまの かなた

第1話

 私には祖母が三人おりました。

一番早くに亡くなった祖母の名前が“ケン”と言います。

私は外孫でしたので、直接可愛がられた訳ではありませんでしたが、その祖母には特別深い思い入れがあります。

ケンはある辛い痛みの病にかかっておりました。

それに家庭内の悩みもあったのか私が中学一年の時、近くの海に入水自殺をしました。

それ故に私達孫の前では、その苦しみを隠してほがらかに振る舞っていた顔が六十年程経った今でも鮮やかに残っているのです。

あの祖母の一生はどうだったろうか。

自分から命を絶つ程苦しくやりきれなかったのだろうか。

だが,どうしてもほがらかに笑う顔しか思い浮かばないのです。

私は、今、せめて祖母の名の絢(ケン)に幸せになって欲しいという想いを込めてこの物語を書きました。

また、この中の人物名には私が知っている人達の名前をお借りしました。

物語のケンの祖母の菖蒲(ショウブ)は、私の祖母ケンの実母の名前です。

また、ケンの実家の人達には実際、麻呂の名前の人達がおりました。

石麻呂は祖母ケンの実父の名前です。ケンの祖父にあたる人は神主で、京都にて勉強して帰ってきて菖蒲の婿になった人だと聞いています。

先祖や親戚が元、山主の大金持ちだったというのは全くの物語ですが、祖母のケンがもう一度生まれ変わり、生き直せるならという思いがこの物語になりました。

また、祖母の実母だった菖蒲という人はある人から聞いた話ではかなり気位の高い人で、田舎暮らしの中でも作業着を一切身に付けないで、いつもたもとのついた着物を着ていて、“たもとばっちゃ”と言われたと聞いております。

この物語は全て私の頭の中の物語ですが、どうかどがうか今は亡きお祖母ちゃん(ケン)がこの中で痛みのない幸せな満ち足りた人生を全うして欲しいと、そう言う想いからこの物語は出来上がりました。

これは全くの作り話です。


絢(ケン)


                 山の彼方


時代が変わり、明治の世になったばかりの昔々のお話です。

日本のある所に、立派な杉や檜が生い茂る山々を仰山、所有する裕福な家がありました。

遠く都から離れた地方の村ではありましたが、その材木の豊富さには近在はおろか、遠方からも材木を買う人が訪れてその辺りには地方ながら活気がありました。

何しろその辺りの山々一帯は全てカネヤマという山主の持物でしたから、家の中や外には何十人もの使用人を使い、山に入る者も数えたらそれはもうかなりの数にのぼったでしょう。

この辺りでカネヤマと言えば知らぬ人はいなかったのです。

自分の持つ山々の連なりを背にして、その家の主はいかにも昔から続く地主のようにどっしりとした立派な構えの屋敷に住んでおりました。


それがどうした事でしょう。その後、三十年も経たぬうちにメタメタと弱り果て、五十年経った今では、その面影は全くありません。

屋敷は古びて、あんなに仰山あった山々もみんな人手に渡って、昔を知る薬売りなどがそこを通りかかったなら、その哀れさに涙を流す者もいた事でしょう。

そしてこっそり戸の隙間から覗いてみたなら、年老いた婆と幼い孫娘とその母親の三人が、母親の作る畑で採れた物でどうにかこうにか、やっとこ口をすすいでいる有様を見る事だろう。

何故、こうなってしまったのか。この辺一帯に名をとどろかせ、あんなに力のあった山主がまるで紙風船が簡単に潰れるようにぺしゃんこにしぼんでしまうにはそれなりの訳がありました。


今では老いて小さくなった婆の名は、菖蒲(ショウブ)と言いました。

水辺に咲く花菖蒲の菖蒲です。

元の山主の大事な大事な一人娘でした。

たった一人きりの跡取り娘であった菖蒲は、それはそれは大事に育てられました。

蝶よ花よと育てられたのです。

父親は娘の為には何でもしました。

習い事をさせるにも一流の師匠をと、お茶お花踊りに三味線、琴に和歌、手習いも遠くから、わざわざ名のある方々を招いて菖蒲につけました。

カネヤマの主は次に、この屋号を継ぐ娘には天下一の花婿をと考えていました。

その為には我が娘には金を惜しまず、あらゆる素養を身に付けさせ、身にまとう着物も都から大きな呉服屋を呼び寄せ、溜息の出るような着物を何枚も作らせました。

菖蒲はそのようにして、どこの御大名の姫様にも負けぬくらい大事に育てられたのです。

当の菖蒲も両親の期待を裏切らない聡明で美しい娘に育ちました。

父親は娘が十七歳になると、すぐに前から目星をつけていた若者達を次々と合わせました。

どの若者も負けず劣らずの立派な者達です。

カネヤマの主は、菖蒲がどの若者を気に入るか楽しみにしておりました。

ところが十人程も見合わせたのに、その中に気に入る者は一人もいないと言うのです。

主は、一人一人の名をあげて、その者のどこが気に入らないのかと娘を問い詰めました。

だが当の菖蒲は、

「あの人達の中には私の好きになれる人はいませんでした。」と言うばかりです。

もう見どころのある若者は全部会わせてしまった以上、その縁談を断るにしても父親はこれといった理由もいい訳もはっきり言えず弱り切っていました。

その後も、もしやと思う三人の若者をそれとなく陰から菖蒲に見せましたが、首を横に振るばかりです。粒ぞろいの若者どれをも気に入らないだなんてどうした事だ。

「菖蒲は何を考えているのだ!」

父親は終いには腹を立ててしまいました。


いろんな書物を読むようになっていた菖蒲には、実はある思い込みが出来上があがっていたのです。自分が一生を共にする相手は前世から決まっていて、次の世でも必ず一緒になろうと約束した相手である。

だからこの世で再び会った時は、一目見たその時に二人共お互い自分が求めていた人だという事が瞬時に解って、懐かしいような恋しいような思いにとらわれる筈だ。

だから一目見て、その人だと解るのだと。

いつの頃からなのか自然にそう信ずる心が根ざしておりました。

それで今まで、期待を持って会った若者達だったが、一人としてその中に懐かしい恋しい気持ちを抱いた人はいなかったのです。

困ったのは親です。まだ心が大人になっていないのだろうと諦めて、十八歳になった時も十九歳になった時も、一人、また二人と菖蒲を呼んで、良しと思う若者を陰から見せましたが、首を横に振るばかりでした。

「こんなに申し分ない男を、どこが嫌なのか本当にお前は婿を迎える気があるのか!」

父親は業を煮やして娘を怒鳴りつけました。

菖蒲はうなだれているばかりです。

そうなると哀れで可哀想に思えてくるのです。

ある日、父親は、

「なあ、菖蒲。“源之亟”はどうだ。

あの者は見込みがあるぞ。頭は良いし、男気もある。何よりも先見の明がある。お前もあの男の気質は知っているだろう?」といいました。

父親には子飼で働いている気に入った若者がいました。

名前は“源之亟”と言い、元はれっきとした武士の子供でしたが時代が変わり職を失った親が貧しい為に、やむなくカネヤマに奉公に出した子供でしたが、幼い頃から頭が良く気働きのする優秀さはメキメキその実力を発揮して今では、カネヤマの主の片腕のようにいつも側について歩いている若者でした。

だが小さい頃から知っている上に、その様子を見ていても菖蒲の目には源之亟の姿は少しも写っていないように見えました。

しかし父親は、兼ねがねこの男を自分の婿が無理ならばせめて番頭になってカネヤマを支えて行って貰いたいと考えていたのです。

「菖蒲、“源”のような立派な男は他にはいないぞ!よーく考えて見ろ。」と父親は諭しにかかりました。

だが菖蒲は、

「父様、私が一緒になりたいと思う方はあの人ではありません。その方は必ずどこかにいる筈です。一目見た時にそれが解ります。」

菖蒲は目に涙を浮かべて訴えました。

「何を馬鹿な事を言う。お前はどこの馬の骨とも解らぬ者でも一目見て気に入ったら、その男と一緒になるというのか!」

「はい、そうです。」


「私は血筋や家柄、人品、何から何まで調べ上げ、この者こそと思う者ばかりをお前に勧めているのだぞ!このカネヤマにふさわしい男を連れて来ているのだぞ!」

父親は自分の思い通りにならない頑なな娘に、思わず大きな声をたてていましたからこの様子を聞いていた人たちは多勢ありました。

ですからいつの間にか、その辺りの人々の間では、カネヤマの菖蒲様は高望みだと噂が立ちました。


あの人じゃない。

この人とも違う。

やっぱりこの人とも違う。

そうこうしているうちに、菖蒲はとうとう二十歳になってしまいました。

その頃になると、父親も母親も心が萎えてしまって、また良い若者を探して連れて来ても菖蒲の心が傾かない事を思うと骨を折ってくれる周りの人達にも頼みづらく、申し訳ない気持ちが先だってすっかり気弱になっておりました。

何を決めるにも父親の言いなりの気の弱い母親等は、陰で夫婦だけになると、

「もしもこのまま菖蒲が婿をとる気持ちがなくて年老いたら、誰か養子をとって育てるしかありませんね。」

等と言うのだった。


やいのやいの言われなくなって、ぱったりと静かになると菖蒲自身の胸の内は楽になったかというと決してそんな呑気だった訳ではありません。

自分と同じ年頃の娘達は皆、とうに片付いて子を産み育てているのですから。

<私が考えている事は間違っているのだろうか。

好きな人とは一瞬目が合った時に解るものだと信じている自分の思い込みはおかしいのだろうか?

そういう人はこの世にいないのだろうか?好きでもない相手と一緒になってうまく行っている夫婦はザラにいる。私はワガママなのだろうか。>

そう考え悩んでおりました。


この頃では、あんなに優しかった父親の態度も冷たいし、母親の困った顔を見ると辛くなるばかりです。

自分はやっぱりわがままなのだろうか。

菖蒲は考えれば考える程、沈む気持ちを抱えてその日の早朝もフラリと家を出て歩きだしました。

この頃、家の中にいるのが息苦しくなっていたのです。

そしていつか神社のある森の方へ足は向かっていました。

誰もいない森はシーンとして菖蒲の悲しい心をそっと見守ってくれているようでした。

森の一本道を歩いて行くと、やがて奥に神社が見えて来ました。

ここの神社は随分古くからあるのですが、最近傷んだ所を修理する大掛かりな工事が終わって、外観も美しくなり一ヶ月程前、その式典が行われたばかりでした。

多勢の人が次から次と詣でて賑やかだという話は聞いていたが、菖蒲は人が自分を見る好奇の目を嫌って出掛ける事をしませんでした。

それが一ヶ月もすると早朝のせいもあってか、その時の賑わいが嘘のようにシーンとしていました。

人の気配もない神様のお社という静けさが菖蒲の心を安心させました。

両脇が深い森の参道を進み、正面の祭壇を前にして鈴も鳴らさず手も叩かずに、菖蒲は静かに頭を垂れました。

今、自分は何を祈ると言うのか。運命の人にどうか合わせて下さいと祈るのか。

神様もそんな願いは困るだろう。そう思いながら左の脇に続く道を何となく更に奥へ歩いて行きました。

すると向こうから一人こちらに歩いて来る人影がありました。

その人影はどうやら若い男のようでした。

菖蒲はその人影を認めると、この先も更に進んで行こうとしていた気持ちに迷いが生じました。

どうしようか?

引き返そうか?

でもここですぐ引き返せば相手の人は変に思うだろう。

きっと知らない人だ。このまますれ違って知らない顔をして自然に先の方へ行けばいい。

そう心を決めると菖蒲はうつむき加減に出来るだけ歩調も変えず、平静を装って歩いて行きました。

下草がきれいに刈られて木がまばらなその小道は、狭くもなく散策には気持ちの良い小道がずっと伸びているようです。

菖蒲はすれ違う相手に邪魔にならないように、右寄りに歩いて行きました。

白っぽい着物姿のその人は、すぐ近くまで来たが菖蒲は顔を上げずに足元だけを見てすれ違いました。

すれ違った後ホッとして更に先に行こうとすると、

「何もありませんよ。」

という言葉が背中に聞こえました。

他には誰もいない、明らかに菖蒲に話し掛けたらしい。

響きの良い快い、どこか垢抜けた声でした。

菖蒲は思わず振り向いて声の主を見ました。

今すれ違ったばかりのその人がこっちを見て笑っていました。背の高い人だ。


「その先には何も無かったんですヨ。本当に何も。すぐに行き止まりです。

私もこの先に行けばどこに出るか、何が待っているのか少しワクワクして行って見たのですが、がっかりしただけです。

突然目の前に岩の壁のようなものが立ちはだかってそこで終わりです。

黙っていようとも思ったんですが、若いお嬢さんががっかりするのを解っていながら知らんぷりするのもあんまり意地悪ですからネ。」

笑いながら話しているその人を見て、菖蒲は呆然としてしまいました。


「この人だ!

私がずっと待っていたのはこの人だ!」

瞬間にそう思うと胸が激しく動悸を打ったが、それを努めて顔に表さずに相手をじっと見ました。

顔はこわばり紅潮していたかも知れない。


相手の男は菖蒲のその目に少したじろいだようだったが、自分は決して怪しい者ではない。

この神社の改装を記念して祝詞をあげに父の名代で都から来た者で神主だと名乗った。


菖蒲は素性が解って警戒心は解けたが、遠い都から来た神主であれば自分には遠い人に思われてあんなに驚き張りつめた自分の心を苦笑した

相手は余程、暇だったのだろう。

それとも、この田舎の土地の娘にしては珍しく長い袂袖の上等な着物姿の娘に興味を抱いたのかも知れなかった。

「貴女はこの土地の人?」と聞いた。

菖蒲が、「はい。」とだけ答えて尚も自分を見続けるので、

「名前は何と言うの。」と聞いた。

それからすぐに慌てて、

「私は古池武麻呂という者です。」と付け加えた。

「私は橘、菖蒲と申します。」と答えると、

「ああ、あの橘さんってあのカネヤマの?」と言った。

武麻呂と名乗るその人はどうやら橘家があのカネヤマという山主であることは聞いて知っているらしかった。

一ヶ月もここにいるのなら、もしや自分の事も話の種に出て知っているのかも知れないと菖蒲は思った。

それにしても神社の催事はとうに終わった筈なのに、この人は未だにここにのんびりしているのはどういう訳だろうという疑問が頭をよぎった。

「お仕事が終わったのに何故まだここにいらっしゃるのですか?」と聞いた。

菖蒲の心は今ではかなり落ち着いていたので、そういう事が聞けたのかもしれない。


「ああ、ここの息子は私の友達なんだヨ。私は父の代理で来たが、ここの空気がうまくってネ。気に入ったヨ。ここの空気は私の体に合っている。本当はすぐに帰らねばならないんだが、一度向こうに帰ったら二度と来る事は叶わないだろう?そう思うと名残おしくてネ。ついつい長居をしてしまった。

でも、もうそろそろ重い腰をあげて帰らねばならん。と考えてブラブラ歩いていた所なんだヨ。」

そう言って、菖蒲の目を覗き込むようにしてニッコリ笑った。

菖蒲はその表情にまたドキリとして胸が動悸を打つのが解った。

それを押さえ込むように、

「都のお仕事の方は大丈夫なのですか?」と聞いた。


「ああ、まあ、大きな神社なのだが、父親もいるしネ。

妹が嫁いだ相手も神主だし、他にもしっかりした者達が揃っているから大丈夫なんだ。」と言う。

随分のんびりしている人だと思いながら、その屈託のない様子に心を許して、

菖蒲と武麻呂はいつの間にか友達のように他愛ない話をして歩いた。

武麻呂の家は都でも有名な古い神社で自分はそこの長男だと言った。

元々が公家の家だと言う。


公家の出で長男か…。

菖蒲は生まれて初めて懐かしい人と出会ったような感覚を覚え始めていただけに、これ以上この人に近づいたり好意を抱いてはいけないと話を自分から打ち切るようにして帰ろうとした。

すると武麻呂が、

「これでお別れですか?」とポツンと言った。

「えっ?」と振り返ると、

そこには、

いかにも別れが辛いという顔の武麻呂を見た。

「すみません、私帰ります。嫁入り前の娘が見ず知らずの男の方と話をしていただ等と誰かに告げ口されては叱られます。」と言って、

菖蒲はそこを逃げるようにして帰って来た。

その時は、会ったばかりなのに妙に最初から馴れ馴れしく話し掛ける武麻呂に用心する心が強かったが、

家に帰って自分の部屋で一人になると、冷たく振り切るように帰って来た事が悔やまれた。

きっと都の殿方はあれが普通で自然なのだろう。それなのに、この私は妙に警戒して用心してしまった。

生まれて初めて一目見るなりこの人だ!と思えた人だったのに…。

菖蒲は武麻呂の声や話し方、顔や姿等を繰り返し思い出していた。

都の人は皆、あの人のように素敵な人ばかりなのだろうか?

背は丈高く、色白く鼻筋がとって通っていて、目が何とも言えず美しく魅力的だった。

自分が今まで見た人達の中にあんなに美しく上品な男の人はいなかった。

やはり公家の血筋だからだろうか?


菖蒲は折角訪れた出逢いを縁のないものと諦めて、自分から逃げて来た事を後悔していた。

その日は朝食も勿論、昼食も夕食も食欲がなく殆ど食べなかった。

両親も使用人達もどこか体が悪いのではないかと心配し、ヒソヒソ話し合っているようだった。

夕飯の膳も殆ど箸をつけずに済ますとすぐに自分の部屋に籠って物思いにふけるばかりだった。

暗くなっても灯もつけずにいる菖蒲の所に母親が呼びに来た。

「お前の知り合いだという男の人が来ていなさるヨ。」

菖蒲が驚いて飛び上がるように出て行くと、玄関にはここの神主の息子と武麻呂が立っていてそこには父親が何事かと出て来て対峙している所だった。


「菖蒲、この方と知り合いか?」

と父親に聞かれどう答えていいか困っていると、

今は妻帯して子供まである神主の息子が、

「今朝、偶然、神社の参道でお嬢さんに会ったそうです。こちらは私の友人で決して怪しい者ではありません。素性もしっかりしています。

こちらの菖蒲さんの事が忘れられず一目だけでも、もう一度顔を見て帰りたいと言うものですから連れて来ました。申し訳ありません。」と言った。

すると脇から、

「私は古池武麻呂と申す者です。こんな遅い時間に大変失礼しました。

今日は帰ります。明日、また改めて伺います。

本当に驚かせて申し訳ありませんでした。」

少しも悪びれた所がなく驚く程サッパリとした話し方だった。

その物言いや様子に好感を持ったせいか、菖蒲はその夜、両親の前でこの日の朝の一部始終を話して聞かせた。

相手から聞いた家柄や長男という事も話した。

話しながら、悲しくもないのに最後には何故か涙ぐんでいた。

母親が、

「それで貴女はあの方の事を好きになったの?」と聞いた。

「いいえ、解りません。」

菖蒲には解らなかった。

それでも何だか切なくて訳もなく涙が出て来るのだった。

両親はそういう娘をじっと見ていた。

次の日、今度は改まった身なりでまた、武麻呂と神主の息子が訪ねて来た。

何か暫らく父親と三人で話し合って帰って行った。

帰るのを菖蒲が見送りに出た時、武麻呂が菖蒲の目をチラリと見て微笑んだ。

菖蒲はその時、胸がいっぱいになった。

私はこの人が好きなんだとはっきり思った。

一人部屋に戻ってからも、私はあの人の事が好きなんだと繰り返し思った。

それは叫びたい程の思いだったが、菖蒲は先の事を思うと悲しい気持ちになった。

父親は何を話したかを娘には一切聞かせなかった。

その次の日は、武麻呂が一人で来た。

その時も父親と武麻呂だけが二人で母も誰も入れずに長い事話をして、そして帰る時また菖蒲は見送りに出た。

その時二人の目は合ったが、武麻呂は相変わらず優しそうな目をして菖蒲は悲しそうな目をしていた。

父親は聞きたがる妻にもましては当の菖蒲にもまだ何も話していなかった。

父親は突然、目の前に現れた武麻呂と、いう男と話をし、その家柄よりも本人の性格、人品、もしも一緒になるというならこの先々の事をじっくり話し合って確かめていたのだった。


どんなに優秀な申し分ない男達を連れて来ても、この人は違うと言って首を縦に振らなかった娘。あの源之亟程の男でも、この人ではないと言う、一人娘の菖蒲だった。

これでは一生婿もとらず嫁にも行かず年をとってしまうというのか。

カネヤマ印で栄えて来た橘の家は途絶えてしまうのか?

いつか養子を貰ってその子供に継いでもらうしかないのか?

とあれこれ思い悩んでいた所に現れた男だった。

妙な男だったらたちまち追い払ったろうが、あの神主の息子が保障する通り、都でも有名な神社の家柄の長男だという。

古池と言えば由緒ある公家の家だという。

だが武麻呂と名乗るあの男は長男だというではないか。長男とあっては娘をそこに嫁にやるより仕方がないだろう。

しかし、果たして菖蒲は務まるだろうか。

全て一流の人達を招いて身に付けさせた素養は誰にも負けないと思うが、都の暮らしとなればそれは別物であり、都はあまりに遠い。

親としてはそれを第一に考えたのである。

それが武麻呂本人と話しているうちに、自分は実家を捨ててこちらに婿養子に来ても良いと言う。

長男ならそれは無理だろうと言うと、父親を説得してみますと言った。そして、

実家の許しを得たら、私と菖蒲さんを一緒にして下さいと頭を下げられた。

見ると色白で山で働けるような頑丈な体つきではないが、さっぱりとした裏のない性格が気に入った。

使用人を使いこなせる能力があるなら、例え体力が無くともどうにかなるだろうと父親もまた、その話を聞いた母親もすぐにその気になった。

そして武麻呂は都に帰って行った。

カネヤマではきっと反対されるだろうと覚悟していたが、案外あっさりと許しを得る事が出来たとの知らせがあった。

それから遠い所なので何度か手紙のやり取りがあったものの、その半年後には菖蒲と武麻呂はめでたく夫婦になる事が出来たのだった。

祝言には、武麻呂の両親は顔を出さず、やがて神社を継ぐという妹の婿養子が代理で顔を出しただけだった。

だが大事な長男を婿にとられたのだ、先方の親御さんだって複雑な思いだろう。

菖蒲の親達はそう思って納得した。

今まで数々の見合い話を断って来た菖蒲の祝言は慎ましく厳かに武麻呂の友人の神社で執り行われた。

それでも二人は晴れて一緒になれた喜びで何の不満もなかった。

ただ一つ父親がこの日の為に誂えた着物と帯はどんなお大名の姫君にもそう手には入らぬだろうと思う豪華な品だった。

一人娘がやっと目出度く、しかも好きな相手の嫁になれたことを一番に喜んだのは当人よりも父親と母親だったかも知れない。

派手な祝宴を開いてどんちゃん騒ぎをして披露しない代わりにとその振袖と帯は、庶民が聞いたならば腰を抜かす程の大枚をはたいて買い求めた品だったその絢らん豪華な衣装を菖蒲に着付ける時に母親が惚れ惚れしながら娘の晴れ姿を見つめて、

「このお着物と帯はな、山一つ分の値があるんですヨ。菖蒲の為に大枚をはたいて作らせたんですヨ。この着物は子供が生まれたらその子に、孫が生まれたら孫にと大事に伝えて行っておくれ。菖蒲は本当にこの国一番の花嫁じゃネー。本当に本当に良かった。」

そう言っては涙を拭いていた。


武麻呂が婿に来て最初の一年は何事もなく順調に物事が運んで行った。

その間に父親の片腕だった源之亟は、父親の許しを得て独立しカネヤマを出て行った。

武麻呂は常に舅(父)と共に歩きながら仕事を学び覚えて行った。

娘婿が頭脳明晰なのは誰の目にも明らかだった。この調子で行けばいずれ立派な経営者になるだろう。

舅(父)も周りの者もそう思った。

だが二年目に入ると、山の見回りから帰った婿の顔にゲッソリと疲れが見え始めた。

しかし何と言っても、都育ちの力仕事とは縁の無い元公家の出である。

父親は少しがっかりしたが、外回りを減らして婿の体に負担をかけないようにした。

だが、武麻呂の食欲は元々細かったが、更に次第に食欲が無くなり、ある日突然全く食べ物を受け付けなくなってしまった。

それで、この辺りでは名医と呼ばれる医者を呼んで見て貰うと、医者は横になっている武麻呂の腹を暫らく押していた。

あっちを押し、こっちを押し、強く押したり弱く押したり、その度に武麻呂は痛そうに顔を歪めた。

その後、医者は非常に難しい顔をしていた。

武麻呂は観念したように始終目を瞑ったままで、一言も医者に聞かなかった。

医者は診察が終わると、離れた所で待っている家族に、

「これは腹の中に悪い腫れものが出来る病気です。私にはどうする事も出来ません。腹を裂いてその腫れものを取り出す方法があると聞いた事があるが、残念ながら私にはその施術は出来ません。腫れものはかなり大きくなっているので、もしも腹を裂いても治す事はなかなか難しいでしょう。」

そう言って、痛みをやわらげる薬を置いて帰って行った。

菖蒲は薬を飲ませる為、急いで武麻呂の所へ行った。

武麻呂は顔から体から油汗を流して苦しんでいた。

菖蒲は薬を飲ませながら、この人を助けなくっちゃ、必ず助けなくっちゃと心の中で繰り返していた。

それでも薬が効いたのか、武麻呂はトロトロと眠り始めた。

菖蒲は両親の所に行って、どうか都の医者に診て貰って治療したいと訴えた。

両親は勿論、良い医者がいるならどこまでも探して治療させてやると言ってくれた。


目が覚めた夫に、「都になら名医はいるでしょう?そこに行って貴方のお腹の腫れものを取って貰いましょう。」

と言ったが、何故か武麻呂は頭を縦に振らなかった。

ただ痛みが来たら、痛み止めの薬を飲ませて欲しいと言うばかりだった。

両親も都に行くように勧めたが、武麻呂は、

「あの医者は名医です。私には解ります。この体で長旅はしたくないし、里の両親にも知られたくない。いつまでも元気にやっていると思って貰いたい。このままで良いんです。」

そう言うばかりだった。

しかし菖蒲は、横に寝ていると夜中に苦しむ夫のかすかなうめき声で目が覚めると、それを見ているのが辛くて自分までもが苦しくなるのだった。

とうとう菖蒲も食欲が無くなり、食べ物を吐くようになった。

何も食べずにいても吐き気がした。

自分も夫の病気がうつったのではないかと思ったがそうではなかった。

菖蒲は体に子供を身籠ったのだった。

その事を知ると、年を取った両親は喜んだ。

病人を抱えて苦しむ娘の姿を見て心を痛めていただけに、一筋の光が射す心地がしたのである。

菖蒲はせめて武麻呂に知らせて元気づけようと話した。

痛みには波があって非常に苦しむ事があるが、まるでその波が引いて穏やかな凪の海になったように痛みがやわらぐ時があった。

菖蒲が、「私のお腹の中には貴方様のお子がいるのですヨ。貴方はお父様になられるのですヨ。どうぞ元気を出して御病気をやっつけておしまいになって下さい。」

そう言うと、武麻呂は久々に嬉しそうに笑って、

「菖蒲、子供が出来て嬉しいヨ。それだけでも私がここに婿養子に来た甲斐があったって事だヨ。私が死んでも子供だけは残せた。

それだけでお父さんに申し訳が立つヨ。」と言った。

「何て事おっしゃるんですか?死ぬなんて縁起の悪い事おっしゃらないで下さい。子供が生まれるんですヨ。貴方のお子が。」

「そうだネ。私は生きるヨ。どうしたって生きてやる。その子の顔を見るまでは死ねないヨ。ところで菖蒲、お前が良い子を無事に産むためにもお願いがあるんだが、お父さんに頼んで”堪忍部屋””を作って欲しいんだ。」

「堪忍部屋?」

「ああそうだ。ずっと考えていたんだが、北の方にあるあの物置を少し直して私が多少泣いてもわめいてもお父さん達やお前にその声が聞こえないようなそんな部屋を作ってくれないか。私はそこで安心して周りの人達に気兼ねなくゆっくり体を休めたいんだ。

そして苦しくなったら誰に気兼ねなく大声をあげる事が出来る。ここではそうはいかない。菖蒲の体にさわるからネ。

もしも折角授かった子供が駄目になったらどうする?安心して病気と闘える部屋を作って欲しい。そして、そこでの私の事は全てサト婆に任せて、菖蒲は私の調子の良い時に会いに来て欲しい。私からサト婆に言うから、頼む。

必ずそうして欲しい。苦しむ姿を菖蒲に見せたくないんだ。」

すがるような武麻呂の目だった。

菖蒲は急いで父親にその事を話し、北端にある物置の床を剥いで底を掘り下げて半地下の形にし、壁も頑丈にして武麻呂の言う堪忍部屋を作って貰った。

そこは母屋とは唯一細長い廊下で繋がっており、しかもその部屋は明り取りの小さな窓も北向こうの森に向いているので、例え多少大きな声を出しても母屋の方までは聞こえない作りに出来上がった。

部屋の中には仕切りのある厠も作り、病人が外に出る事なく安心して療養出来る、そんな”堪忍部屋””が出来上がったのだった。

武麻呂はその部屋を気に入り移った。

それから菖蒲は日に一度や時には二度、武麻呂の痛みの弱い時に会いに行った。

病人の顔は苦しみと戦っているためか、げっそりこけて、神社の参道で会ったばかりの、あのうっとりするような端正な風貌はすっかりおもがわりして痛々しい程だった。

時には一言二言話しただけで痛みが始まるのか、体を震わせて早く帰るようにと菖蒲を追い返す事もあった。

医者が来て、頓服を置いて行った。

菖蒲は医者を追いかけて行って、もっとお薬を多く頂けないかと頼んだ。

「お金はいくらでも差し上げます。先生、どうかお願いします。」

医者は悲し気な目で、

「この薬は一時痛みを取る事は出来るが、飲み過ぎると寿命を急激に縮める薬です。大量に飲むとそのまま死んでしまいます。」

そう言い残して帰って行った。

それからは薬の事も全部サト婆にお願いする事にした。

サト婆は若い頃からカネヤマに奉公して、一度、所帯を持った事もあるらしいが子供も無しにずっとカネヤマに奉公し続けて年老いた心根の優しい女だった。

菖蒲も菖蒲の母もそういうサト婆を心から信頼し頼りにして来た。母親よりも年上で、実の子供がいればとっくに仕事を辞めさせて楽をさせねばならない年頃になっていた。

だが当時はまだ丈夫で、カネヤマの為に一心に働いてくれていたのである。

サト婆はどんな時も愚痴一つ言わず、カネヤマの身内のように親身になって働いてくれる人だった。それでこの度の病人の看護もお願いする事になったが、誰もが尻込みするその仕事をサト婆はまるで実の息子を労わるように世話してくれてるのは本当に有難かった。

サト婆が呼びに来て菖蒲が会いに行くと、薬が効いているのか武麻呂はトロリとした眠たげな目をして菖蒲の顔と次第に大きくなって行くお腹をいつまでも見ているのだった。


そして十か月後、菖蒲は無事男の子を出産した。

両親は大喜びだった。立派な跡取りが出来たと喜んだ。

「菖蒲、よくぞ男の子を生んでくれた。御苦労だった。」と父親は娘を労った。

予想に反して安産だったので、一日経つと歩けるまでになった。

菖蒲は母子共に元気である事を知らせる為に、両親と一緒に生まれたばかりの赤子を見せに細い渡り廊下を通って赤子を連れて行った。

武麻呂はいきなり起き上がって、

「男か?女か?」と聞いた。

菖蒲の母が、「男の子ですヨ。良かったです。男の子だったんですヨ。」と嬉し気に話して菖蒲も又喜んで貰えると思ったが、武麻呂は少しも嬉しそうな顔をしなかった。

むしろ男の子と聞くと何故か悲しそうに気を落として、

「少し菖蒲と話があるから。」と言って両親と赤子を帰した。

二人っきりになると、

「菖蒲、私はきっと、もうそうは長い事はないだろう。だから今のうちに謝っておかねばならない事がある。」と話し出した。

その顔は痛みによる苦しさではなくて、今、正に生まれたばかりの赤子の将来と、いずれ一人で育て一人で悲しい思いをする菖蒲への憐れみだったかも知れない。


そうして武麻呂は話し出した。

「自分の家は昔から続く由緒のある家だったが、いつの頃からか多分、大昔からだと思うが、古池の家に生まれる男の子は長生きしないという迷信というか言い伝えが出来ていた。

その事をはっきりと知らされたのは私が十歳の時だった。

うちには”堪忍部屋””と呼ばれる離れた部屋があって、その時、そこには私のただ一人の叔父が伏せっていた。

私の父は養子で私の祖母は叔父を生み、次に私の母を生むと後は子供を生む事をやめたんだ。女の子さえ生まれてくれれば、とにかく女の子が欲しかったのだ。

女の子さえ一人いれば婿を取って後を継いでくれるからネ。何故かって男の子はやがて苦しみの種になるからサ。

私の母も最初に私が生まれ、次に妹が生まれると後は子供を生む事をしなかった。

世間には五人も六人も、時には十人なんて兄弟の多い家が沢山あるのにネ。

それがどうしてだかという事を私は堪忍部屋に寝ている叔父から聞かされたんだヨ。

叔父は仲麻呂と言って大変優秀で頭の良い人だったが、体を壊して静養していると両親から聞かされてはいた。

当然あの神社を継ぐ立場にありながら嫁も貰わず、小さい私をよく可愛がってくれたものだ。暫らくして自分でもそう長くは無いと悟ったのだろう。

ある日、叔父が私を呼んでいると言うので私はその堪忍部屋に行った。

そこは家族の者でも簡単に立ち入ってはいけない部屋だった。

昔からの古池に仕えている老いた爺が、仲麻呂叔父の世話を受け入れているらしかった。

その部屋に初めて入った私は珍しくて部屋を見回した。

壁も天井も黒光りして、まるでこの家に潜む怨霊が全て集まって来そうな部屋だった。

あの明るく朗らかだった叔父が暫らく見ない間に戦い疲れた野武士のように無残な有様だったから、尚更そう感じたのかも知れない。

私はその姿を見た途端、「叔父様、こんなに弱ってお薬を飲まなきゃいけませんヨ。」

そう言ってポロポロ泣いてしまったんだ。

叔父はそんな私を嬉しそうに見ながら、

「泣いてくれるのは武麻呂、お前だけだナ。嬉しいヨ。」

そう言って、私の顔を撫でてから話し始めたんだ。

「いいか?武麻呂、よく聞けヨ。お前も、この古池の家に生まれた男の子ならその災いか呪いがかかっているかも知れないんだ。

今から言う事は決してお前を脅かしたり怯えさせるために話すんじゃないんだ。

私はネ、お前の事を心底思って言うんだヨ。早いうちにつまり今から知っていれば、心構えってものを持っていたらおのずとその生き方も違って来るだろう?だから話すんだ。」


「この古池の家には昔から男の子はある程度まで育っても長くは生きられない。若くして死んでしまう呪いがかかっているんだヨ。

こう言うとお前は笑うだろう?私もそうだった。

大昔じゃあるまいし、そんなこと迷信だと笑い飛ばすのは簡単だが、そうも行かないんだ。実際この通り私も死病に罹ってしまった。私はネ、両親の顔色や世間のちょっとした噂話が気になったのは十七歳の時だった。

ずっと古くからうちにいる爺に聞いたんだ。爺は私をとても可愛がってくれたから、爺を問い詰めて聞いたんだヨ。「爺、何か僕に隠しているだろう?」とネ。

何故かというと、丁度その頃、二つ年下の妹が十五やそこいらで婿をとるという話を小耳にはさんだ時だった。婿をとる事自体はそんなに不思議ではないのに、兄である私に隠すようにコソコソと話を進めているのが不愉快だったしネ。

私はネ、長男だ。長男なら家を継ぐのは当たり前だ。そう思い、一生懸命勉強している私には、はなっから期待していないような仕打ちに見えたからネ。この私という者がちゃんといるのに、あたかもいないようなそんな扱いだった。

そう言えばおかしい事は他にもあった。

自慢する訳じゃないが、私が学問所で上位の成績を修めた時も、しまいに首席を取り続けて卒業した時も、親達は他の家の親のように手放しで喜んでくれることはなかったんだヨ。喜びもしない、むしろ父親ときたら苦い顔をするばかり母親も良かったネと言葉では言いながら、何か煮え切らない態度だった。その度に、私はいつも妙な気分だったからネ。

「爺、何か隠している事があるだろう?私はもうじき十八歳だ。早い者は嫁を貰って父親になっている者もある。私は何を聞いても驚かないし落ち着いている。

だから本当の事を言ってくれ。私は両親の本当の子ではないのか?

もしかしたら捨てられていた子なのか?」とネ。

爺は全く見当違いの疑いを持っていた私を見て「ああ、何て事をお考えなのでしょう。

でもむしろそうであってくれたら旦那様も奥様もお苦しみにはならなかったでしょう。

貴方様は正真正銘の、この古池の血を引く男子であらせます。

そうであるからこそ、長くは生きられない定めになっているのでございます。」

そう言って終いには爺は泣いてしまった。

そんな馬鹿な話があるものか!

現に私はその時、どこも悪くなくピンピンしていたからネ。そんな迷信を信じて両親も爺もどうかしていると私は心の中で笑ったよ。

やがて妹の婿に選ばれたのは自分も昔から尊敬していた学習館での先輩だった。

人柄も尊敬できる人だった。だから私はその人を妹の婿に迎える事に何の反対も無かった。

とにかく今は騒いでも始まらない。それからの私は慎重に行動した。

あの両親はどこまで何を知っているのだろう。もしも知っていたとしても自分に話して知らせる筈はない。父親の顔、母親の顔を思い浮かべてそう確信した。


やがて幼い妹に優秀な婿がやって来た。

その先輩がいくら私より年上で優秀だとしても、私にとっては義理の弟になる。

そういう気持ちもどこかにあって私は何事においても負けまいと頑張ったが、父親は神社の主な仕事を長男の私ではなく婿を第一に用いているのは明らかだった。

いくら私が頑張っても父親は何が何でも私に教える事はせずに婿を重用するばかりだった。

私は義理弟の先輩がこの家に来て大分慣れた頃、

そうだヨ、義理弟というのは武麻呂、お前の父親だ。丁度二人だけになる時を密かに作って、腹を割って話を聞いてみた。

「この度の縁組に際して私の事で何か聞いているだろう?

私は噂などでは聞いているが、私の父親が貴方に何と言ったかそれを知りたい。もしも自分の寿命が果たして本当にそう長くないのなら、知っておかなければならない。

どうか昔から先輩を尊敬している後輩に本当の所を知らせて欲しい。」

そう言う私にお前の父親は口を真一文字に結んで一言も言葉を漏らさなかった。

その代わり、恐らく私の父が渡したのだろう、この古池家に代々伝わる過去帳のようなものを持って来て、私の前に置いたのだ。

私の父との約束通り一言も口には出さず、それを見せただけだった。

きっと婿として嫁の父親との約束だけは果たさねばならないと考えたのだろう。

だが私の心情も充分理解した上の決断だったと思う。

その過去帳とは何世代も前からの御先祖からの死亡記録が詳細に記されたものだった。

誰が何歳で亡くなったか。

どういう病気で亡くなったかが記されていた。

そしてそれが男か女かも記されてある所に、奇妙な印が入れられてある所があった。

朱の筆で、“血”という印だった。

おおむね、女や当主は四十五歳を超えて六十、七十、中には八十まで生きた者もあったが、“血”の印が入れてある人物は皆、男で、早い者は十八から遅くとも二十代半ばまでに亡くなっている者ばかりだった。

その者達はいずれも古池の家に生まれた直系の男子ばかりだった。

しかも死因はどれも腹に腫れものが出来て、それが原因だと知った。

それを見た私は驚いた。これが本当ならやがてはこの自分にもその呪いが来るというのか?

そんな馬鹿な筈はない。

今、自分はこんなにピンピンしているではないか。

だが私はそれから慎重になった。

もしも気を付けていれば、そのおぞましい、この連鎖を断ち切って逃れられるかも知れない。それからの私は食べる物にも気を付け、消化の良いもの、腹ごなしの良いもの、そういう物だけを口にするように心掛けた。

私は健康のまま二十歳になり、二十四歳になり、二十六歳になった。

よし、あと四年生き延びて三十歳を迎えたら私はその呪いとやらから逃げ出したという事になる。

そうしたら、地方の田舎の村の小さな神社の神主にでもなって、そこで妻を迎えてのんびりした幸せな一生を送ろう。私の気持ちは希望に輝いていた。

婿を迎えて妹が生んだ子供は男の子で武麻呂と名付けられ、とても愛らしかった。

私は武麻呂お前を相手してやりながら、こんな可愛い子供にも私にも絶対に呪いの血が流れてなんかいるものか!と思った。

大昔に例え何があったか知れないが、その何かは何百年も経った今の自分達には何の関係もない。

今時、そんな事を恐れるなんてどうかしている。そう思って生きて来た。

私は今まで頑張って来たんだ。

だがそんな矢先、自分の胃がある日、何者かの手でギューッと握り絞られるような痛みを感じてギョッとした。それはほんの一瞬だった。

その痛みはすぐに嘘のように消えたし、それはその一度切りだった。

ホッとした私は増々用心深くなり、堅い物を避けて、お粥のような味の薄い流動食を取るようにした。

そんな私の様子を心配そうに疑り深そうに見ている両親の目は増々私をたじろがせた。

きっと心配しているのだと思いながらも、そういう目で見るな!と言う思いが強かった。

何日かすると、ギューッと絞られる痛みはそれから毎日のようにやって来た。

こんなに気を付けているのに何故なんだ!

私はその痛みを家族に知られるのが恐かった。知られたが最後、呪いの運命に負けるような気がしたからだ。

それからの私は何でもないような素振りで必死に隠し通した。

だけれども、ある日、

余りの痛みに七転八倒する日が来てしまった。

その時は我慢して体裁を保つ余裕など無かった。きっと大声を出して転げ回ったのだろう。

そしてその後、あまりの痛みに私は気を失っていた。

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