幼年編11 -呪いと祝福
森の木々が震えた。子供は、顔を上げた。
そこには、緑の襤褸を纏った老婆が立っている。いつだったか、グウィディオンとともに立ち寄った町で声をかけてきた、あの老婆だとスェウはすぐに気がついた。
「また会ったね、坊や」
擦り切れたショールの端に白い雪が積もり、大きすぎる口元には、色の黒い、並びの悪い歯が覗く。醜く曲がった鉤鼻は、しなびた茄子のようだった。
こんな人気のない森の奥に現れるのは、魔女か妖精と相場は決まっていた。ことに、醜い老婆は厄介だ。見た目どおりであるか、そうでないかの区別がつきにくいのだ。
魔法をかけられた美しい姫でなければ、心底意地悪な魔女か、はたまた老獪な知恵者か。
スェウは涙をぬぐい、この老婆の近づくのを見つめていた。老婆は子供の黙っているのを構わず、口を開いた。
「月の子は、春に生まれても、夏には元いた世界へ帰ってしまうというのに。とうとう、冬まで居てしまったのだね。」
萎びた、枯れ枝のような指が子供の首筋に触れた。ぞっとするような硬さだった。
「可愛そうに、こんなに冷えてしまって。本当ならば、お前さんは花咲く月の庭で、笑いながら暮らしていられるはずだったのだよ。」
「……。」
スェウがもじもじと、言葉をためらうように俯くのを見て、老婆は片目を吊り上げた。
「おや、思うように口が利けない? そうかい。なら、その綺麗な唇にかかった魔法を解いてあげよう」
その、細く固い指先が、スェウの柔らかな唇にキッと触れ、爪を立てた。痛さに驚いて、思わず一歩、あとすさってしまうほど唐突だった。
「さあ、喋ってご覧。人の言葉で答えてご覧。」
「元いた場所、というのは、ずっと僕を呼んでいた場所ですか」
スェウは、自分でも驚くほどはっきりと、滑らかに尋ねた。自分でも驚いた様子で、思わず唇に手を当てた。老婆は満足そうな笑みを浮かべ、手にしていた曲がりくねった木の杖で、虚空に円を描いた。
その中から、明るい光が降り注いだ。途端に、咲き誇る花の良い香りと、はしゃぐ子供たちの賑やかな笑い声とが、円の中から踊りだして来た。
「月の庭さ。お前さんたちは、あそこに生まれて、子供の姿と純粋な心のまま、永遠に妖精の女王に仕えるのさ。だけど、ごく稀に、月の庭から転がり落ちてしまう子がいるのだねえ。」
「…それで、僕を月の子と呼ぶんですか。」
「そうさね。生まれたばかりの月の子は、とても小さいものなのさ。人の女に飲まれたら人の胎から、獣の雌に飲まれたら獣の胎から、水に紛れて木に飲まれてしまったら、木の虚からでも生まれるしかないさ。あんたの父親は、それを拾い上げて育てたんだよ。つまりあんたは、あの男の本当の子じゃない」
「知ってます」
スェウは、ひどく言いにくそうに、慣れない長い言葉を舌に載せた。
「覚えています。月の写る水に捨てられようとしたことも、あの人がそこから救い出して、僕に名前をくれたことも。地上に産んでくれた
「そうかい。」
老婆は、ため息をついた。
「あたしが誰だか、知っているかい?」
「いいえ」
「あたしは月の庭の主、忘却の貴婦人、リアンノンの第一の召使さ。地上で一年を暮らした月の子は、もう二度と天へ帰れない。これが最後の機会だよ。あたしは、あんたを迎えに遣わされたんだよ。」
そう言って、老婆はぼろぼろの袖の下から一つの小瓶を取り出した。金の意匠で飾られた、美しい硝子瓶の中には、赤い、甘い匂いのする蜜が揺れている。
「これは忘却の蜜、地上でのすべての出来事と穢れを払い落とし、お前さんを無垢な子供に戻してくれる。けれど、もし、これを拒むなら、あたしは、月からの追放者として、お前さんに三つの呪われた運命を授けなくてはならない。すなわち、この世のどんな武器も手にすることが出来ないという呪い、この世のどんな種族から生まれた女も妻に娶ることが出来ないという呪い、そして、この世で最も酷い裏切りによって命を落とすだろうという呪いだ。」
スェウは、じっと老婆の手元を見つめた。暖かく、懐かしい日差しのあふれる、楽しい園への帰路が、すぐ側に開いていた。
けれど、呪いの脅しにも、彼の心は揺れ動かなかった。
「呪いを受けても構いません。あの人のいる場所に連れていってください、お願いします。天の高い場所から来たあなたなら、きっと、この森も空から見えたでしょう?」
老婆は、また一つため息をつき、忘却の蜜の入った瓶を袖に隠した。指を宙に向けると、光の溢れ出していた穴が消え、代わりに、冷たい風の吹き出す、暗い、ぽっかりとした穴が現れた。
「お行き。お前さんは、自分で自分の運命を決めたんだ。あたしの主は不満かもしれないが、その望みは、もはや、あたしには覆せないよ」
「ありがとう。あなたは、三つの呪いを僕にくれたけど、祝福を二つ、くれました。ひとつは、自由に喋れるようにしてくれたこと、もう一つは行くべき道を教えてくれたことです。もしも好意を持ってくださるなら、釣りあうように、あと一つ、祝福を貰えませんか。」
この願いに、老婆は快く笑った。
「運命を受け入れる者に幸いあれ。そして運命に抗う者に栄光あれ。では、この上なく優れた贈り物をあげよう。お前さんが裏切りによって命を落とすことは避けられないけれど、その死は、お前さんがティレ河の水で水浴びをしているとき、灼熱の太陽の下で育った黒檀の枝から、手とナイフで自ら削った槍で、背中の真ん中を貫かれたときにだけ訪れるのだよ。」
こう言って、女は両手を広げ、子供を抱いた。スェウは礼を言い、老婆とそこで別れた。
そして、馬の手綱を引いて、運命の妖精が開いた穴の中へ飛び込んで行ったのだった。
吹雪を抜けると、唐突に、目の前に切り立った崖が現れた。深い闇に見えたのは、黒々とした岩の作る影だった。
凍りついた白い崖に一筋、何かが滑った跡があり、そこから点々と、赤い染みが雪の上に続いていた。そして、大きな黒い塊が、雪の中に力なく横たわっていた。
スェウは、急いで駆け寄った。
「父さん、…」
呼びかけて、掘り起こしたとき、グウィディオンの口元が微かに動いた。首筋に、まだ温もりは残っていた。鍛え上げられた逞しい体は、深い傷を負い、体の下の雪を真紅に染めながら、まだ、命を手放してはいなかった。
子供の目から熱い涙が零れ落ちて、男の凍りついた髭を溶かした。それが、死の眠りに引き寄せられようとしていた男の命を引き戻した。
重たい瞼を上げ、グウィディオンは、目の前に居る者を見つめた。
「…スェウか」
ヴィンドが高く嘶いた。声の出ない、小さな主人の代わりに答えたのだ。
「そうか。…迎えに来てくれたのか。だが、体が思うように動かん。」
顔を歪め、グウィディオンは、矢に貫かれた脇腹に手をやった。この寒さで、傷口は凍りついていたが、既に多くの血が流されている。失った血のぶんだけ体は冷え、死は、刻一刻と迫ってくる。
「このまま、崖に沿って真っ直ぐ行けば、小さな村にたどり着く。そこまで連れて行ってくれるか」
うなづいて、スェウは男の体にマントをくくりつけ、ヴィンドに端をくわえさせた。そして自分は、馬の手綱を取った。子供の力では、大男を馬の背に乗せることは出来なかった。雪の上を滑らせれば、体がひどく傷つくことはあるまいと考えたからだ。
崖の下に吹き溜まった雪は深く、足を取られると埋もれてしまいそうだった。
寒さと疲れに耐えながら、スェウは、懸命に歩き続けた。冬の日暮れは早く、森にはいつしか、夜の静寂が迫り始めている。夜になれば、自ら息を止めない者の体から、無理やり命を切り離すため、鋭い剣を手にした死の女神がやって来るだろう。その前に、森を抜けなければならなかった。
「もう、いい」
どれくらい進んだ頃だろうか。
ふいに、グウィディオンは最後の力を振り絞って口を開いた。
「ここに置いて行ってくれ。このままでは、お前もヴィンドも、寒さで死んでしまう。」
スェウは歯を食いしばって、首を振った。
「土の下に行くのは、ずっと先だと言いました。僕も、そう思います」
驚いて、グウィディオンは目を開き、子供の顔を見つめた。
急に賢くなったのだとは、思わなかった。今まで声に出さずにいて、表情をよく見なければ分からなかったものが、声にも出せるようになったのだ。
やがて、森の切れ目が見えてきた。
夜の女神の足音が、すぐそこまで迫り、小さな村の家々には、火が灯りはじめていた。
ちょうど、寒い野原に牛を散歩させて、家に戻ろうとしていた農夫が、森から出てくる馬と怪我人を見て、大きな声を上げた。村の人々が駆け出してきて、子供を抱き上げ、冷え切った体を毛布でくるみ、三人がかりでグウィディオンを運んだ。
それから、村長と、傷の手当てに心得のある者が呼ばれ、夜は更けていった。
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