幼年編10 -雪原の涙

王妃のもとに一人で行くように、と言われたスェウは、もう、不安げな顔はしていなかった。少しずつ、獣の子たちが少しずつ巣立ちを覚えるように、グウィディオンから離れることにも慣れるようになっていた。

 「俺は、マース殿と此処で待っていよう。お前だけで行きなさい。ブランウェン殿に、くれぐれも失礼のないようにな」

妃の従者がスェウを迎えに来た。子供が見えなくなってしまうと、マース公は重い心で、昨晩妃から言いつけられた、恐るべき不実な企みを、グウィディオンに仕掛けた。

 広い渡り廊下を歩んで、大きな螺旋階段を登り、渡り廊下を抜ける時、荒れた庭がすぐ下に見えた。

 そして遠くに灰色の海。霧に似た雨が、凍った雪の粒に変わりはじめている。地面に落ちるまでの速度が極端に遅くなり、ゆるゆると、やがて風に舞い散る花びらのようになって、無数に天から降り注ぐ。冷え切った石畳の上に落ちた雪は、溶けてしまうことなく、尚しばらく、儚さを惜しむように、そこに在り続けた。


 妃は子供を呼ぶ前に召使や従者たちを呼んで、その子の風貌と賢さを尋ねていたのだった。

 みな、口を揃えて非の打ち所のない美しい子供だと言った。付け加えて、町の子らのように歓声を上げて騒ぎたがらず、口は利かず、慎ましく座っているのだ、とも言った。

 ブランウェンは高らかに笑った。

 「そうでしょうとも。お人形に声を上げて騒ぐことなど、出来ませんもの」

 「けれど、恐れながら、お妃様。」

一人の若い小姓が言った。

 「その子は時折、とても悲しそうな目をするのです。とても人形とは思えぬほどに」

それを聞いて、妃は訝しく思い、自ら確かめてみようと思った。

 そして、秘密の部屋ののぞき窓から、肖像画の目に開けられた小さな穴を通して、夜明けの客間を覗き見たのだった。

 客人の寝室を覗き見るなど、貴婦人に相応しいことではなかった。寝台に横たわる男の姿を見たとき、彼女の心はふるえ、怒りは鋭い刃となって、想像の中で何度も男の心臓を貫いた。

 けれどその不躾な敵意は、咎めだてするような、静かな視線によってさえぎられた。


 気配を察して目覚めた子供が、真っ直ぐに彼女の隠れている絵の前にやって来た。

 なるほど、召使たちの言ったとおり、何一つ足りないものはなく、この世のどんな母親も羨むほど、美しい子供だった。そして、静かな青い瞳には、父親から分け与えられた悲しみが湛えられていた。

 見つめられたとき、ブランウェンの首筋に恥ずかしさが走り、顔が赤くなった。足音を潜ませて、彼女はその場を去った。

 子供がグウィディオンに「あの人は?」と問うたのは、そういうわけだったのだ。答える側は、その質問の真の意味に、ついぞ気づかなかったが。




 さて、海に張り出す部屋に入ったとき、つまり王妃の待つ私室に迎え入れられたとき、スェウは、寒い廊下を歩くために与えられた、白いマントを纏っていた。縁には、青い糸で縫い取りがしてあった。野山を渡り歩いた靴の代わりに、上等な皮のブーツを与えられて、女の子のように伸ばしたままだった髪は、髪と同じ金の糸で、ひとつにまとめられていた。

 やって来たその子を見た途端、妃は思わず椅子から立ち上がり、目を大きく見開いて、しげしげと顔を見つめた。

 「…なんてこと。本当に、イヴァルドの幼い頃に瓜二つだわ」

 彼女は従者に下がるよう命じ、子供に、暖炉の側に座りなさいと言った。

 冷え切った室内に、暖かな火が燃えている。朝だというのに表は暗く、海は気味悪く轟きながらうねっている。

 「わたくしは、この国の王妃、マースの妻、ブランウェン。」

僅かにくすんだ色合いながら、かつては純白であったことを思わせるドレスに身を包んだ、すらりとした貴婦人は、おごそかな声で子供に告げた。

 「そなたをここへ呼んだのは、他でもない、そなたの父の望みだったからです。わたくしが、そなたに祝福を与えるようにと。」

スエウは、表情を変えぬままだった。ブランウェンは鈴の鳴るような、――それは年月を経て、昔ほど軽やかな鈴ではなかったが、今でも魅惑的な、笑い声を立てて言った。

 「そなたは何にも驚かぬのですね。王妃であるわたくしを前にしても、王のような平静さでいられるとは。」

貴婦人は、自ら跪いた。彼女はそのために、敢えて人払いをしたのだった。

 金の指輪をはめた、白い、ほっそりとした指が頬に触れ、優しく、子供の顔の輪郭をなぞる。

 「天はかくも卑怯な振る舞いをするものか。そなたが、見も知らぬ女の腹から生まれたなど、わたくしには信じられぬ。そなたは、まともに生まれて来なかったエレンの子に見える」

ブランウェンの頬に、ひとすじの涙が伝った。

 「悲しいの…?」

唐突に、子供が口を開いた。

 涙を流す生き物を間近に見たことはなく、グウィディオンはいかな時にも表情を変えることは無かったが、目の前にいる貴婦人の手から伝わるのは、父である男の腕から感じるものに、よく似ていた。

 「土の下にいる人たちのことを考えているの?」

 「いいえ」

妃は静かに立ち上がり、窓の側に歩み寄った。

 「わたくしの妹エレンは、あの海の中にいます。ここから身を投げたのですから。ご覧なさい、その日から、海は決して静まることなく、悲痛な叫びを上げ続けている」

スェウは、波の音に耳を済ませた。海は泣くものだろうか。人ではないのに、人と同じように悲しむものだろうか。

 ブランウェンは、ドレスの裾を静かに引きずって、子供の側にやってくると、顔を覗き込み、また涙を流した。

 「あの男の子に、祝福を与えるなど到底考えられぬこと。それなのに、わたくしには、そなたを呪うことは出来ぬ。」

スェウは、ちらと戸口のほうを見た。長いこと、ここにいる。何故か、胸騒ぎがした。

 「どうか、ずっとここにいておくれ。この栄華のくすんだ城には、そなたのような光が必要なのです」

 「戻らないと…」

 「そなたの父は罪人なのですよ」

冷たい指が、スェウの腕を掴んだ。ブランウェンの灰青の瞳が、一瞬、我を忘れて燃え上がった。

 「わたくしの妹を呪い、わたくしの弟を殺す手助けをしたのです。この国の何処にも、そなたの父を光で照らす場所は無い」

咄嗟に口をついて出たのか、わずかでも、子供のいる時間を引き延ばそうと、気を引くための言葉だったのか。

 「そなたの父は、若い頃の驕りが原因で、強力な運命の精霊に呪われた。あの男に微笑みかけた者は誰であれ、わたくしの妹のように、その身に呪いを引き受けるのです。――戻ってはなりませんよ、スェウ。あれの側に居ては、そなたも同じ運命に引き裂かれることになりましょう」

言ってしまってから、妃ははっとして、手を離した。静かなまなざしに見つめられ、己の我を忘れた言葉を恥じたのだ。

 「照らす光はここにあります」

ふいに、声が発せられた。

 それは魔法を解かれた口が、秘められていた言葉をつむぎだすように、声は大人びて、そこにいる幼い子ではない、別の誰かがその口を借りて話しているかのようだった。

 「呪われていたのは、僕のほうなのです。その呪いを、届かぬように護ってくれたのが、あの人なのです」

驚きのあまり、ブランウェンは、言葉を返すことも出来なかった。

 「なぜ、今まで黙っていたの。そなたが、そのような口を聞ける年だとは思わなんだのに」

だが、妃がどんなに問いかけても、スェウはそれきり、口を閉ざした。沈んだ眼差しで、自分の手元を見つめていた。

 しまいに、ブランウェンのほうが根負けして、もう部屋を出てもよい、と言いつけた。

 その時、雪は既に、地面の色を白で覆い隠し、人の足跡を点々と残すほど厚く積もっていた。




 小姓に付き添われて、長い渡り廊下に差し掛かったとき、スェウは、耳に聞きなれたいななきをとらえた。

 「どうなさいましたか」

子供が足を止めたのを見て、小姓は不安げに尋ねた。

 粒を大きくした雪が視界を曇らせる。渡り廊下の向こうは中庭、中庭の向こうには厩舎があった。黒い大きな影が、人を寄せ付けまいと、踊り来るっているのが見えた。

 「あれは、お客人の馬ですね」

小姓が言うより早く、スェウは雪の中に歩き出していた。初めて見る雪が髪や腕に降り注ぎ、痛いほど冷えた風が、頬に荒々しく吹き付ける。

 「とんでもない暴れ馬だな」

厩番が鋤を手に愚痴っていた。

 「ちっとも大人しくならん。よくもまあ、こんな気性の荒い馬に乗っていたものだ」

 「主に置いて行かれたのが分かるんじゃないのかね。賢い馬というのは、えてして人の言葉を理解するものだから」

そう話し合っていたとき、彼らの視界に、中庭を横切ってくる子供と、慌てて追いかける小姓の姿とが見えたのだった。

 「お待ちください。ここは、お客人の来られるところでは、ありません」

小姓は懸命に止めようとしていたが、スェウは耳を貸さなかった。

 暴れていた黒い馬は、子供の姿を見止めると、途端に、大人しくなり、足を踏み鳴らすのをやめた。厩番たちは、驚いて、顔を見合わせるばかり。

 「ヴィンド」

柵の間から手を伸ばすと、馬はその手に、湯気の立つ鼻面を押し付けてきた。そして何かを訴えるように、二、三度、嘶いた。

 「父さんは?」

スェウは、振り返って三人の男たちを交互に見た。誰かが知っているだろうと思ったのだ。

 「馬に乗らずに、ひとりで出かけてしまったの?」

厩番のひとりが、頭から帽子をとり、うやうやしく答えた。

 「この馬に乗ってた旦那様なら、今朝方、ご朝食のあとすぐに、王様の言いつけでどこかへ行きましたよ、坊ちゃん」

 「多分エレニトの森でしょう」

と、小姓。

 「昨夜、王妃様がそこへ行かせると言っておいででしたから。」


 ちょうど、そう言っているところへ、何頭かの栗毛の馬が引かれてきた。たった今、寒い風の中を駆け戻ってきたように、息を弾ませている。

 それぞれの馬には、弓を手にした軽装の兵士が一人ずつ、付き添っていた。

 「おや。お帰り」

厩番が気さくに声をかけた。

 「どこへ行っていたね。こんな雪の中で狩りもあるまい。」

 「王様のたっての望みでな、森へ行ってきたのだ。今日はかなりの大物だった。」

 「仕留めたのかね?」

 「それは間違いない。ただ血の跡を辿ると、崖の下へと続いていた。首を持ち帰れなかったのが残念だ」

この会話を聞くや、スェウは、何が行われたのかを悟った。ヴィンドは突然暴れだし、その勢いがあまりに強かったので、柵の木が折れ、たづなを繋ぎとめていた皮ひもが切れ飛んだ。

 「危ない、避けろ!」

仰天して、厩番と小姓は雪の中に転がった。兵士たちの連れていた馬はみな泡を食って逃げ出し、黒い馬のひづめは、腰を抜かした兵士たちの眼前すれすれを通り過ぎた。

 「ヴィンド!」

子供は馬を呼び、切れた手綱を引き寄せて、脚を折らせて、その背に飛び乗った。

 驚いた小姓はしばらく声も出せず呆然としていたが、その子供が馬具も付けていない馬の背にしっかりとしがみ付くのを見て、ようやく我に返った。

 「お待ちを、坊ちゃん。一人で何処へ?」

行かせるものかと、立ち塞がろうとした兵士たちは、荒々しい黒い雌馬の嘶きに気圧されて道を譲った。

 スェウは構わず、馬の走るがままに任せた。兵士たちが帰るときに付けた馬のひづめの跡は、積もった雪のお陰で、まだはっきりと追うことが出来た。だが、急がねばならない。雪はなおも降り続き、追うべき痕跡を覆い隠してしまおうとしている。


 冷たい風にあおられて、剥き出しの手は凍えたが、黒い馬の背は熱かった。胸に込み上げる急く思いが、白い息に紛れて流れた。馬の足跡は、城壁の裏に続く白い森へと入っていく。丘を越えて、枝を張り出す針葉樹の森は、どこまでも、続いている。

 ヴィンドはどんな地形にも慣れた馬だった。走れぬ場所はない。そして賢い馬だった。

 雪を跳ね上げ、激しく身を揺らしながらも、背に乗せた小さな主人を振り落としてしまわぬよう、気遣いながら道を急ぎ、風に乗る大きな主人の匂いを探した。

 やがて雪はますます激しくなり、ついには、追うべき足跡は完全に消えてしまった。

 ヴィンドの鼻でも、それ以上追うことは出来なかった。

 馬は疲れきった脚を止め、真珠のように零れ落ちる大粒の汗が首筋を流れるに任せ、主人の降りるのを手伝うために、尻を少し地面に近づけた。

 手綱を手に、くるぶしまで雪に埋もれながら、スェウは、辺りを見回した。見るべきものは何も無い、在るのは、何の変哲もない森の風景だけだった。

 この寒さでは、木々も、森の住人たちもみな、沈黙している。

 子供は、かじかんで、ほとんど感覚の無くなった自分の小さな手を見つめた。ヴィンドが、優しくその手に熱い息を吐きかける。

 時間は刻々と過ぎている。忌まわしい狩りの行われた場所がどこか、突き止める前に、雪が全てを覆い隠してしまいそうだった。


 スェウは、自分の頬に熱いものが流れるのを感じた。

 触れてみると、それは水のようだった。だが、雨でも、溶けた雪でもなく、自分の目が流している水なのだった。

 冷たい指で擦っても、それは止まらなかった。胸の中が熱かった。

 子供は初めて、涙を流すことを知った。誰もいない、雪の降り積もる森の中で、ただ一人、小さな声をたてて、静かに泣き続けた

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