幼年編6 -冬の訪れ
月は満ちては欠け、幾度も巡った。
その間、グウィディオンは一所に長く留まることなく、旅を続けた。何かを恐れでもするように、追われてでもいるように、さながら風のように、さすらい続けた。
グウィディオンは元から口数の多い男ではなかったが、倒れていた若い男を葬った後は、前にも増して無口になった。
子供は、相変わらず男の腕の中にいた。そして、黙ったままの男の心臓の音を聞いていた。
嵐のように黒い馬を駆り、草原を行く男の姿が人の目に留まることは少なかったが、偶然すれ違った旅人は悪魔の手先かと恐れた。だが、男の膝の上には、いつも、天使のように美しい、幼い男の子が座っていたのだった。
季節は飛ぶように流れ、いつしか冬のはじめに差し掛かっていた。
その日グウィディオンは、久しぶりに小さな町に立ち寄っていた。森で獣を狩り、岩場で眠る自給自足の旅とはいえ、やはり、要り用なものはある。そういったものを、森で採った薬草や岩場で見つけた鉱石、獣の皮などと交換するために、月に一度は町に来た。
けれど必要にかられてとはいえ、彼が大きな町に入ることは無かった。いつも決まって、人の行き来の少ない、小さな町を選ぶのだった。
スェウは、男の旅する理由を知らない。この国の名前も、過ぎていく町の名も、自分たちが何処へ向かっているのかさえ、考えたこともなかった。
自分と男と、旅を共にする馬以外、口に出して名を呼ぶ相手は居なかった。
町に入ると、彼らは、小さな雑貨屋の前で馬を止めた。
重い剣を帯びた見知らぬ旅人の姿に、町の人々は胡散臭そうな視線を向けたが、ぴったりと側に寄り添うスェウの姿を見て、幾らか表情を和ませた。
悪い人間は、子供に好かれないと知っていたからだ。
この頃から少しずつ、グウィディオンは子供の前から姿を消す時間を作っていた。巣立ちを促す獣の親のように。
最初は、ほんの僅かな時間すら、真っ青になって、ふるふると震えていたものだった。付いて来るなと言っても、いつのまにか後ろに立っていた。
少しの間なら完全に姿を消しても平気になり、言われた場所から動かなくなったのは、ようやく、ここ最近になってからのことだった。
「スェウ。しばらく、ここで荷物の番をしていてくれ。」
子供は、馬のたづなを握ったまま、じっとグウィディオンを見つめる。
今では、半刻くらいならば、ひとりで居ることも出来るようになっていた。だが、それが限界だった。いまだ、グウィディオンから離れて過ごすことは難しい。
「大丈夫だ、店の中に入るだけだ。ヴィンドもいるだろう。」
ヴィンドというのは、彼らの乗る、黒い雌馬の名前だった。
馬は、決してこの子に逆らわなかった。体格のいい男を乗せて何年も旅をしてきた気性の荒い雌馬だったが、この幼い少年の前でだけ、すっかり大人しくなるのだった。
グウィディオンが雑貨屋に入って行ったあと、スェウは、馬を側の木に繋ぎ、荷物を降ろして、しばらく雑貨屋の扉を見つめていた。ほかに興味のあるものが無かったからだ。
馬は、小さな主人の傍らにじっと立っている。
すぐ向かいは、酒場だ。昼間から酒の匂いがきつく漂い、酔っぱらいの笑う下品な声が響いている。
通り過ぎてゆく人々の足音、町のざわめき、露天から聞こえる威勢のよい売り子の声。
足元に降りてきた鴉の羽ばたきで、スェウはようやく、扉に釘付けになっていた視線をよそへ向けた。
小さな町だったが、スェウは、今まで、こんなに沢山の人間がひっきりなしに行きかう場所を、あまり知らなかった。
町という場所が人の集まる場所であることは知っていても、そこに住むことは、想像してもみなかった。町に住む人は、姿かたちは似ていても、違う人間か、それとも種族の違うもののように思っていたのだった。
「あな、珍しや。こんなところに、月の子がござる」
ふいに、しわがれた、低い声が側でした。スェウは驚いて、腰を浮かして振り返った。
「坊、どこから落ちてきなさったね。その服や馬は、一体どこで手に入れなさった? まるで人の子のように見える」
「……。」
大きく見開かれた青い瞳に映っていたのは、擦り切れたショールを頭から肩に掛けた、背の曲がった一人の老婆だった。
「おや。人の言葉が分からんのかね。そんなはずは無かろう」
「…僕は、スェウ」
スェウは、ようやく口を開いた。もどかしいほどに言葉が出てこなかった。こんなとき、どう言うべきなのか、この子供はまだ、何も知らなかった。
老婆は、重い眉をひくつかせた。
「それがお前さんの名前かね」
スェウがうなづくと、老婆はからからと笑った。少年の背に冷たいものが滑り落ち、彼は思わず馬に擦り寄った。
「ますます珍しや。名を持つ月の子とは。坊、その名は誰に貰った。誰がお前に名をつけたのかね? それでは、ぬしは、この地上に繋ぎとめられておるのかえ?」
「……。」
スェウは、わずかに身を引いた。
老婆が萎びた手を伸ばそうとしたとき、黒い雌馬は、何かを察したように高く嘶いた。荒々しく踏み鳴らされたひづめの音に驚いて、人々が振り返る。
雑貨屋の扉が開き、グウィディオンが表へ出てくる。
「どうした、スェウ」
その時には、老婆の姿は、かき消されたようにその場から見えなくなっていた。
グウィディオンは、何も話そうとはしなかった。
スェウも、尋ねることを知らなかった。けれど、その沈黙の時は、確実に過ぎ去りつつあった。
生まれてはじめて、グウィディオン以外の者と言葉を交わしたスェウの中で、何かがゆっくりと変わり始めていた。
ずいぶん馬を走らせ、もう日もとっぷりと暮れる頃になって、グウィディオンは、ようやく、息の上がった馬を休ませた。
いつものように、岩陰のくぼ地に一夜の宿を求める。
月の無い、薄暗い夜だった。
「今年は、いつもより霜の降りるのが早い」
冷たく冷えきった草の間に荷を降ろし、彼は、呟いた。
「冬になれば、この辺りも…雪に埋もれる」
男は、冬の間の暮らしを考えているようだった。
大人でも辛い冬の寒さの中、子供を連れて旅をすることは出来ない。何処か壁と屋根のあるところ、冬の間暮らせる場所を探さなくてはならなかった。
湿った風が吹いている。風が雲を運んで来る前兆だ。朝方になれば、凍てつくような雨が降り始めるだろう。
秋から冬へはほんの一瞬、体の芯まで冷えるような長雨が続くと、やがて、真っ白な霜の降りる厳しく長い冬がやって来る。
「あのね、」
スェウは、思い切って口を開いた。
「月の子っていわれた」
淡々と荷物をほどいていたグウィディオンの手が、一瞬だけ止まった。
「明日は早い。雨が降り出す前に発つぞ。」
「月って、誰のことなの」
「月は、月だ。空に輝く月のことだろう。お前の髪は、月の光みたいな金色だからな。スェウという名前も、そこからつけた」
「名前をくれたのは…、おとうさん?」
「ああ、俺だ。」
「……。」
子供は、黙って目を閉じた。普通なら覚えていないはずの頃の記憶まで遡り、何かを思い出そうとしているのかもしれなかった。
グウィディオンは、その日、火を起こさなかった。
地面は既に夜霧に湿って、乾いた木は拾えそうに無い。大きくせり出した岩の下の、僅かに乾いた場所に鹿の皮を敷き、その上に腰を下ろした。
「ここへ来い」
彼は、子供を側に寄せて、抱いた。
火を炊かない夜の平原の空気は冷たく、マントにくるまっても、その上からしみこむ夜露は、子供の体には厳しかった。
子供は、まだ一度も病気をしたことは無かったが、こんな暮らしは、大の大人にも辛いはずだった。
「町で何か、あったのか。」
グウィディオンは、腕の中で、子供が身を振るわせるのを感じた。
「…そうか。」
グウィディオンには、ある程度のことが察せられたようだった。
痩せた村の娘から、父親のないこの子を引き受けたのは、春先の夜のことだった。
今はもう、秋に差し掛かっている。成長の早い獣の子ならば、ひとり立ちしている頃だ。
「なあ、スェウ」
グウィディオンは、ゆっくりと言った。
「冬になったら、どこか暖かいねぐらを見つけて、春が来るのを待たねばならん。森の中の洞窟でもいい。打ち捨てられた廃墟でもいい。俺は今まで、そういった、人の寄り付かん場所を選んで暮らしてきた。だが、お前には、人のいる町や村の方がいいのかもしれん。」
子供は口をつぐんでいた。
静かな時が、流れていく。
「スェウ。」
ふいに、男は言った。
「人間というのはな。いくら腕っ節が強くても、どうしようもないものがある。剣の力に頼むだけでは、変えられない運命もある。」
荷物の中には、鷹の紋章が鮮やかに刻まれた、立派な剣が隠されている。それに勝るとも劣らぬ大剣を、グウィディオンが持っていることを子供は知っていた。
それは、決して触れてはならぬと強く言いつけられている品だ。
子供は、獣の皮を剥ぐ小刀のようなものを除き、生まれてからまだ一度も、武器に触れたことが無かったのだ。
「町で聞き込みをして分かった。この間、死んでいたあの男だがな。あれは、――マース公の息子、グウェルンだったそうだ。」
どうせ分からぬと思いながらも、グウィディオンはとつとつとして語った。
「この国には、昔、大きな戦があった。…もう、十五年も前のことだ。その戦で、大勢の人間が死んだ。俺の知っている連中もだ。それ以来、人々の顔からは笑顔が消え、喜びの歌は耐えて久しい。希望の灯台からは灯が消え、再び燈されることも無い。」
「希望って、なあに」
子供は聞いた。
「希望というのはな…。」
男は、子供を抱く腕に力を込めた。
「今、俺の腕の中にいるようなもののことだ。」
その会話は、初霜が降りる数日前に交わされたものだった。
風のうわさに、イオナのはるか西方の領地、リドランに反乱の兆しがあると流れた。その領地は険しい山と海に囲まれ、海の向こうに多くの船を送り出していた。
そして、山のあるがゆえに、冬になると国中を覆い隠す、陰鬱な濃い霧を、知らずにいられたのだった。
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