幼年編2 -放浪者
夜明けの時が遠ければ、月はいつまでも西の空に輝き続け、
沈むことは無い
まことの血ならずとも、血の契りは決して破られることなく、
黄金の樹は枝をからめる
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かつて英雄と呼ばれた者は、生まれて一晩すると戦いはじめ、生まれて三日すると、人を殺すことを覚えたという。
だがグウィディオンは、その子をずっと抱いていて、戦いには行かせなかった。その子に何がしかの力があるにせよ、決してその運命に従わせようとはしなかった。
特異な生まれをした子供たちの多くは、生まれてすぐに、獣のようにひとり立ちする。
この子供も、三日もすると、ひとりで這って歩くことが出来るようになり、一週間もすると、両足で立ってよちよちと歩くようになっていた。そして、そこらのものに興味を示すようになった。
だが、剣には触れなかった。無骨な男の、逞しい両腕の中だけが、その子に与えられた世界だった。宿命と運命の妖精とて、その鉄のかいなを開かせることは、出来なかったのである。
男は、もう長いこと放浪の旅を続けていた。
その旅は何年にも及び、この島の、ありとあらゆる場所へ行った。短期間だけどこかに雇われ、仕事をすることもあった。もとより当てのない旅、道など無いも同然だった。
イオナから来たと村人たちには言ったが、その町へは、もう何年も、足を踏み入れたことさえ無い。そこは飛び立てぬ鳥たちの住まい、翼もがれた鷹のみすぼらしく朽ち行く処。近くに寄ることさえ、彼には恐ろしく思えたのだ。
屋敷は荒れ果て、人々はみな、去っただろう。縁者はほとんど残されておらず、町にはいない。男にも、かつては将来を誓い合った婦人はいたが、結局結ばれることはなく、それ以来、妻と呼ぶべき女性を持ったことも、おのが子を抱くことも知らなかった。
そんな放浪者であっても、赤子を育てるのに、何の苦労もしなかった。
母親の乳はいらなかった。ただ、旅の途中で立ち寄った村ごとに、コップ一杯の牛の乳を分けてもらうだけで、十分だったのだ。
乳を温めてやる必要もなく、子供は、口元に乳をもっていくとひとりで飲んだ。そして、夜鳴きもせずに、ひとりすやすやと眠っていた。グウィディオンは、ただ、子が冷えぬよう、抱いているだけで十分だったのである。
立てるようになり、ものを噛んで飲み込めるようになるにつれ、その子の風貌は、日増しに目立つようになっていった。
与えた名の通り、スェウは、光輝くような髪をしていた。
満月の光をこぼしたように、白い額に絹のように髪がかかり、瞳は深く澄んでいる。その子を産んだ、痩せた田舎の娘には、似ても似つかないものだった。父親がいるとすれば、その父親に似たのだろう、と、グウィディオンは思った。
子の成長は、驚くほど早かった。
普通の子供の何倍もの速さで、赤ん坊は幼児になり、幼い少年になって、ひとりで歩きまわるようになる。
だが、それ以上、成長は早まることはなかった。
まるで、生まれてすぐに目を開き、耳も聞こえて、ひとりで歩き回ることを覚える野に住む動物の赤ん坊のように、なんとか人間らしく暮らせるまでしか、育たなかった。
ちょうど、子供が生まれてから月が一巡りした頃だっただろうか。
グウィディオンは、子供を連れて、ある小さな町の側の森に一夜の宿を求めた。その町は、裕福な貴族の治める、城壁に囲まれた立派な町だった。
町を治めているのは、かつてイオナの王から俸禄を受けていた領主たちの一人だったが、王家が没落した後は、誰の咎めも受けずその土地を我が物とし、成り上がってきた。そのような輩の中には、公然と王を自称し、かつての領地を自国とする者もいた。
いまや中央には、地方領主たちの思い上がりを正すほどの力は無い。
王に忠誠を誓った心正しき者たちの
吟遊詩人たちは哀歌を奏で、過ぎ去りし栄光を懐かしむが、その嘆きもまた、滑稽なものと取れた。野に暮らす人々にとっては、王が誰であろうと、国があろうと無かろうと、大した違いは無かったのである。
グウィディオンはいつも、日が暮れても町に近寄ろうとはせず、町で宿を取ることもなく、森や岩場の影で眠っていた。
それは、子供を預かるより以前からの習慣だった。流れ者である彼には、宿を取るだけの金が、勿体無かったのである。
はや、日は暮れようとしている。
大きな樫の根元に乾いた木の枝を集めて、火を起こしていた。火打石を叩き合わせると、枯れ枝の上に火花が散り落ちる。白い煙が立ち昇り、やがて、小さな火が生まれた。
子供は、ものめずらしそうに、じっとその手元を見詰めていた。
「スェウ」
呼ばれて、少年は顔を上げた。自分の名前が分かるのだ。
「ここへおいで」
グウィディオンは側に子供を呼び寄せて、木の枝を一本、握らせた。
「火を起こす方法を教えてやろう。こうして、風を送って、細い枝から順番に燃え移らせる」
思えば、生まれて間もない子供に火を扱わせるなどおかしなことだったが、見た目は、もう、一人で火の番をするほどの年頃だった。
辺りには暗がりが迫り、火の周りだけが明るく、温かだ。
子供はじっと、青い瞳で形の無い火を見つめている。
「面白いか?」
返事は無い。
この子は、人の言うことは分かっても、まだ、自分からしゃべり出すことはしなかった。
そして、ただの一度も、ほんのわずかな表情さえ、見せることがない。
「…だがな、火は温かいだけじゃないぞ。放っておくと、どんどん広がってそのあたりのもの全て燃やしてしまう。何もなくなるんだ。扱うときは、よく注意するんだぞ。」
子供は、うなづきもせず、しかし、聞いていることだけは確かだった。
意味を理解することは、していないのかもしれない。
それとも、理解しても、何という顔をすればよいのかが分からないのか。
グウィディオンは、一つ小さく溜息をついて、反応を引きだすことを諦めた。いずれ、この子供も自分で喋りだす時があるかもしれない、と。
薪を火にくべ、森で拾った木の実を数え始めた。生で食べられるものもあれば、いちど火にかけないと食べられないものもある。彼は、それについても根気良く、この子供に教えようとしていた。
「これは椎の実だ。つぶして、粉にして食べるものだが、焼いて食べることも出来る。これは茸だ。木の根元に生えているだろう。生では食うと、腹を壊す。」
だが、見つめているばかりで、やはり言葉は返さなかった。
沈黙には、慣れている。
グウィディオンは、長く一人で旅をしていた。旅の途中で、森の夜を過ごしても、返事を返す者など誰もいない。むしろ、自分から誰かに話しかけようとしていることが、驚きだった。
この奇妙な子供には、何かが欠けている。その何かを、教えてやらなければならない気がした。
夜更けの頃だった。
森は寝静まり、町には明かりが幾つか、ぽつぽつと残っているばかり。
月の輝く夜だった。
町のあるじ夫妻が馬車で通りかかったのは、ちょうど、この時だった。隣の領地で賑やかな宴があり、その帰りに遅くなったのだ。
森の縁に、偶然小さな火が燃えているのを見つけた領主の夫人は、あれは何かしらと指差して、夫に尋ねた。
「無宿者が宿でも取っているのだろう。けしからんな、あそこの森は私の領内だ。火事にでもなったら、たまらん。おい、行って、追い出して来い」
領主は、護衛の兵士の一人を火に向かって送り出した。
だが、帰ってきたとき、兵士の顔はこわばって、少し青ざめていた。
無理です、追い出せません、とこの若い兵士は言った。相手は武装したならず者で、下手に声をかけると襲い掛かって来そうな雰囲気だったから、と。
臆病者と主人が怒鳴りつけるより早く、叱られることを恐れた彼は、急いで付け加える。
かたわらには、まだ幼い子供がひとり、――それも、ひとかたならぬ美しい子供が、ならず者と一緒に火を囲んでいた、と。
この領主夫妻には、まだ子供が無かった。
だが夫人は大の子供好きで、いつも子を欲しがっている。兵士は、婦人に子供のことを言えば、臆病風に吹かれたことを許してもらえると思ったのである。
「まあ。それは可愛そうに。子供をかかえて、宿もないとは」
領主夫人は、ひどく深い溜息をついた。
「彼らをここへ連れておいでなさい。今夜は町の宿を貸してあげるから、と言うのですよ。」
かしこまりました、と言って、兵士はすぐに火を差して戻っていった。領主は怪訝そうに言った。
「子連れで旅をするならず者とは、珍しいな。どこかに母親がいるのだろうか。あるいは、もう亡くしてしまったのかな」
「気になるのなら、問うてみればよろしいことでしょう。」
やがて、兵士は馬を引きながら、グウィディオンと子供を連れてきた。
その子供をひとめ見るなり、領主夫人ははっとなり、金の髪に目を奪われた。
それは、町のどんな子供たちとも違う、どこか高貴な雰囲気さえある不思議な子供だった。表情のない青い双の瞳は澄んで黄昏のあとの空のよう、色は白く、とてもおとなしそうに見えた。
「まあ、なんて可愛らしい子でしょう。」
夫人は大喜びし、自ら馬車を降りて子供を抱き上げようとする。しかしグウィディオンは鋭い目をして、それを遮った。
「奥様。お気遣いは嬉しいのですが、我々はあなたがたの客人になるほどの者ではありません。」
「駄目ですよ、こんな小さな子に野宿をさせるのは、いけません。今宵はわたくしどものところへいらっしゃい。」
「それに、私の森に火をつけられては、かなわんからな。」
領主が馬車の奥から、不機嫌そうに付け加えた。
無理に抗うわけもいかず、グウィディオンは渋々、領主夫妻に従うことにした。一晩我慢すれば、明日には発てるものと思って。
澄んだ天に高く、月は輝く。
森は奇妙に静まり、獣たちの立てる物音さえ聞こえては来なかった。
その町の名はエッセネといった。馬車の中から見える家々の窓には、はや霜が降りて、灰色の石畳が冷え冷えと、領主の館への道を作っていた。
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