幼年編3 -目覚め

 その晩、領主夫人は、寝室で深い溜息をつきながらこう言った。

 「あの子は、きっと今までひどい暮らしをしてきたのでしょうね。これからも、野に寝泊りしなければならないのかと考えると胸が痛みます」

夫人には、長く子供が出来なかった。いずこかの縁者から養子を取ろうかとも考えてはいたが、近い血縁者には、適当な子供が、いなかった。

 そうでなくとも、この十年、新生児が生まれにくくなっているのだった。その理由は誰も知らないが、王の亡霊が国に呪いをかけているのだと言う者もいる。子供の生まれぬ国は、いずれ滅びるさだめだった。


 領主には、妻の考えていることが、よく分かった。

 子を欲しがる者が多い今の時代、子に恵まれた貧しい家では、余った子を売りに出す親も少なくなかった。奴隷商人たちが子供を買い、大きな町へと連れてくる。とくに見目麗しい赤子は高値で取引される。それを、貴族の家が買い取ることも少なくなかった。

 「あの子供は、どことなく品のある顔立ちをしているな。高貴な血筋が混じっているのかもしれん」

渡世人の連れていた幼な子は、貴族の子供として迎えても見劣りしないように思われた。

 「そういえば、あの子の母上はどうなさっているのでしょう。手放すとも思えないのに」

 「連れの男に聞いてみるがいい。正直に答えるとは限らんが。」

小馬鹿にしたように笑って、領主は、布団にもぐりこんだ。

 月はしらしらとして、城を照らしている。


 客人として迎えられたグウィディオンたちもまた、眠りにつこうとしていた。

 グウィディオンは子供をベッドに寝かせ、自身は、ひとり、部屋の隅の長椅子に横たわっていた。大きすぎる、やけに柔らかい寝台が気に入らなかったのだ。

 天蓋つきの大きな寝台には、かつて王城にあったような天鵞絨のカーテンが垂れ、金の縁取りをしたクッションがいくつも置かれていた。こんな床をしつらえられる貴族も、今や、限りなく少なくなってしまった。

 「どうした」

視線に気がついて、彼は体を起こした。子供は、ベッドの中からじっと自分を見つめている。

 「眠れないのか?」

グウィディオンが側に行くと、子供は、何か言いたげに瞬きをする。

 「……。」

そういえば、と、彼は思い出した。

 今まで屋根も無いようなところで夜を過ごしていたため、子供が夜気に冷えないように、ずっと抱いて眠っていた。離れて眠ることは無かった。

 体は大きくなっていても、この子は、生まれてまだ半年も経たないのだ。本当なら、母親が側について眠る、赤ん坊のはずだ。


 彼は子供の側に体を横たえ、肩を抱いてやった。すると子供は安心したように目を閉じて、しばらくすると、静かな寝息が聞こえてくるようになった。

 このときはじめて、グウィディオンは、この風変わりな子供を自然に愛せることを知った。

 赤子を助けたのは、ただの気まぐれだったかもしれない。通りすがりの、見知らぬ場所で…あるいは、かつて犯した罪の、罪滅ぼしのつもりだったのか。

 だが、この子供は純粋に、自分を求めた。たった一人の保護者として、この世で縋れるたった一つのものとして。


 まどろみゆく少年の美しい瞼を見つめながら、小さな声で、グウィディオンは自らも知らず、かつて聞いた歌を、口ずさんでいた。


 ――白い月 銀の星 赤い花びら はらはらと

 零れ落ちるのは涙 過ぎてゆくのは命

 青いたそがれ 金の夕暮れ 天の船は運ぶ


 今はその歌も、虚しく響いた。かつての戦いで失われた、王と、王を守る多くの戦士たちの哀歌にも聞こえるのだった。




 翌朝、出発のために荷物をまとめていたグウィディオンは、領主夫妻の前に呼び出された。何事かといぶかしみながら彼は、高い天井の広間へと通されていた。

 「これ、男。あの子の母親の名は。どこでどうしておる。」

領主から唐突に問われて、グウィディオンは返答に戸惑った。

 「もうこの世にはいないのか」

 「いえ。生きてはおりますが、事情があって、離れて暮らしております。名は…アランロド」

反射的に、彼は答えた。一度も自分から口にしたことのない、その名は、自然にこぼれ出た。

 領主は続けて問う。

 「その者は、名家のものか?」

 「違います。辺境の村の娘です。」

グウィディオンはむっとして、領主夫妻を睨んだ。

 「何をお知りになりたいのか」

 「あの子を、譲ってくれる気はないでしょうか。」

夫人は、懇願するように言った。

 「あんな美しい子に、ひどい生活をさせるのには、耐えられません。ここなら、何の不自由もなく暮らせるでしょうし、わたくしどもには子供もおりません。」

 「養子にしたいと仰るのか」

 「そうだ。悪いようにはせぬ。それ相応の代償も支払おう」

領主は、懐から金貨の詰まった重い袋を取り出して、グウィディオンの目の前に放り投げた。袋は、床に転がって、ヂャランと大きな音を立てる。

 善良な農夫が、一生かかっても稼ぎきれないほどの金額だ。


 それを見るなり、男の視線は鋭く領主に突き刺さった。その形相があまりにも恐ろしく、今にも飛び掛りそうに思えたので、領主は思わず息を飲み込んだ。

 だが、彼は今、何も武器を持っていないし、槍を持った兵士たちが、左右に厳しく控えている。恐れることは無いはずだった。

 「お言葉ですが」

グウィディオンはきっぱりと首を振った。

 「私は奴隷商人ではない。あれを産んだ娘と約束したのです。私が育てると」

 「嘘を言うでない!」

領主はカッとなって怒鳴りつけた。

 「お前のような者が、あの子供の父親であるはずもない。おおかた、どこぞの家から攫ってきて、人買いに売りつけるつもりだったのであろう。この金額ではまだ不足か!」

 「…売るつもりなど無い」

 「ならばよく考えて来るのだな。おい、この男を、余の森にて火を使った罪で、牢にぶち込んでおけ。」

兵士たちが左右から、逞しいグウィディオンを取り押さえ、広間から引きずり出していく。それを見て、夫人はひどく心を痛めた。

 「あなた。あまり手荒なことは」

 「分かっておる。しばらく牢にいれば頭も冷えて、これが十分すぎるくらいの取引だと、すぐに気づくだろう。」

領主は金貨の入った袋を、ふところに収めて、言った。

 「あの子供に、ふさわしい装いをしてやるがいい。」

と。


 その日、夫人は子供のための衣装を仕立てさせたり、部屋を整えさせたりして忙しく動き回っていた。

 子供はいつもと同じように、表情も変えず、無言のままで立っているばかりだった。夫人は、この子が言葉も喋れないのは、きっとひどく虐待されていたからだろう、と不憫がって、何度も、何度も可愛そうにと口にした。

 彼女は、子供の興味を引きそうなものは、なんでも与えてやった。

 高価な玩具や、きれいな絵本。笑わせようと、町の曲芸師を呼んできて広間で芸をさせたりもした。


 けれど、子供は決して笑わず、言葉を発することもしなかった。それどころか、日ましに食べ物も口にしなくなり、どんなに強いても、眠ることさえしなくなった。

 世話係りが子守唄を唄ってやり、寝床へ連れて行っても、しばらく経って部屋を覗いてみると、青白い顔をして、ひとりぼんやりと月を見上げて窓辺に立っているのだった。


 夫人は、子供がそれまで一緒にいた男のことを忘れられないのではないか、と気を揉んで、なんとかして自分たちのことを両親と呼ばせようとした。どんなに短い間だろうと、情があるのかもしれない、と。

 「いい? これからはわたくしのことを、お母さんとお呼びなさい。何でも言って頂戴。甘えていいのよ。これからは、何も怖いことはないし、ひもじい思いをすることも、寒い思いをすることもないのだからね。」

けれど、子供は何も言わず、ただじっと、青い瞳で夫人を見つめ返すだけだった。

 そこには、何の感情も読み取れなかった。

 夫人は、ときどき涙さえ流した。

 「どうして、わたくしのことをお母さんと呼んでくれないの? 何が欲しいの。何をしたいの? さあ、言って御覧なさい」

無口で、決して懐かない、獣のようなこの子供を、いつしか領主は気味悪く思うようになり、滅多に話しかけることもしなくなっていた。

 「あれはお父さんよ。お父さん、と呼んであげなさい」

そう教えられても、子供は、自分からは近寄ることさえしなかった。

 整った顔は、まるで人形のように表情も変えず、澄んだ瞳は何かを見透かすように、じっと、人々を見つめていた。


 冴え冴えとした月の晩、子供はひとり、自分のためにしつらえられた広い部屋にいた。

 高価な絹で出来た、真っ白な敷布が引かれた天蓋つきの寝台は、一人で眠るには広すぎた。

 部屋には、夫人が買い求めた玩具や本が、ところせましと積み上げられている。けれど、それらのほとんどは、手も触れられないまま、元のままにそこに置かれていた。

 館はすでに寝静まって、隣室にいる子供のための召使も、眠りこけているようだった。

 領主夫妻も、自分たちの部屋で休んでいる。人の起きている気配はない。


 子供は音も無く立ち上がって、月の照らす窓辺に歩み寄った。

 「……。」

それは、まるで月と会話しているようなひと時だった。

 しばし月を見上げていたあと、子供は、何かに導かれるように、冷たい石床に素足をしのばせる。



 その晩、館は、まるで魔法の眠りにかかったようになっていた。

 だれ一人、子供がひっそりと部屋を抜け出したことに気がつく者はいなかった。

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