幼年編1 -光の子
「俺の子だ。」
唐突な言葉に、赤子を差し上げる司祭の手が止まった。
集まった人々に囲まれる沼地には、月の輝きが反射して、かたわらに泥まみれになって蹲る、痩せた、若い娘の顔を照らしている。
おずおずと馬上の人物を見上げた娘の白い頬には、涙の跡があった。
それは、静かな月の晩に、あまりにも荒々しく、奇妙に見える集団だった。
祭りの陽気さはなく、陰気な空気に包まれて、人々は眠りもせずに夜中に沼地にひっそりと集まっている。
人々が、こんな夜にどうして陰気な顔をして沼のほとりに集まっているのかを、他所から来た者なら訝しんだだろう。だが男は、その理由を知っているようだった。
「聞こえなかったのか。俺の子だと言ったんだ。」
黒い大きな馬が荒々しくいなないて、太いひづめを一歩、沼に向かって踏み出した。人々は踏み潰されまいと、慌てて道を開ける。静まり返った人々の表情は、どこか、怯えているようにも見えた。
「そこもと、何者か。」
司祭だけは避けもせず、赤子を掴んだまま、キッと男をにらみつけた。たとえ武装した屈強そうな男であっても、神に仕える身としては、恐れなど見せてはならないものなのだろう。
「俺か。俺の名はグウィディオン。こんな”なり”だが、これでもイオナの者でな。」
小さなざわめきが人々の間に起こった。イオナは、その片田舎の人々にとって、神聖に思えるほどに都会だった。
かつて王イヴァルドが治め、きらめく幾多の尖塔に飾られた国の首都。
イオナの名はつねに王の名とともにあり、その地方の人々に、恐れにも似た響きを持って語られる名だった。
しかし、王が大国ルヴァインとの戦に破れ倒れたのち、都は半ば廃墟と化しているという。なおも貴族や聖職者たちが多く住み続けるが、その大半は、王とともに没落し、どこへ行くこともかなわぬ者たちであった。
この男も、そんな取り残された者たちの一人か。
王のおわした秩序正しき時代ならばいざ知らず、今となっては、イオナの名に、さしたる権威もない。それを知ってか、司祭は、凛然としてなおも言う。
「それが本当にしろ嘘にしろ、よそ者には違いない。これはよそ者には関係の無いことだ」
「俺の子だと言ったはずだ。」
男はにやりと笑うなり、身軽に馬を下りた。背の丈は、ゆうに司祭の倍はある。
「俺の子だ。父親のいる子は悪魔の子ではない。人の子だ。人の子を殺した者は、…どうなる?」
司祭の表情が凍りつき、集まっていた人々――近くの村の住人たち――もまた、言葉をつまらせた。
父無し子や後見人の無い子は、人の子とは認められず、洗礼を受けさせてもらえず、名を与えられず、沼に沈めて殺された。
この地方の、古くからの習慣だった。男は、それを知っている。
司祭ははじめて、うろたえた。
赤子殺しは大罪になる。王が倒れた今も、王の施行した法令は生きている。この男が密告すれば、自分を含め村の者たち皆が咎めを受けるだろう。
「通りすがりの者が、出任せで我らを惑わすか」
「出任せではない。それとも何か。お前たちは、その娘に子供の父親をちゃんと問いただしたのか。誰が本当の父親なのか知っているのは、産んだ女だけだ。」
司祭は強い声で、ひとり泥だらけのままうずくまる娘に向かって問いただす。
「アランロド。どうなのだ。」
「……。」
娘は、泥だらけのまま、黙って視線を下に落とす。
「答えよ、アランロド。」
「その方です。」
かみしめるように言葉を吐いた。
「ならば、この子は、流れ者との間に出来た子か。」
「そう…です」
声は喉につまり、娘は、長い黄色い髪を泥に垂らして嗚咽を始める。
それを聞くなり、グウィディオンはにやりと笑い、司祭の腕から赤ん坊を攫い、あれよという間に自分の懐に押し込んだ。
「立て」
娘の腕をつかむと、半ば力づくにして馬に乗せる。
「どこへ行く?」
「さあな、どこだっていい。流れ者は流れ者らしく、いずこかへ流れていくまでのこと。こいつは俺の女だ。貰っていく。異存はあるまい?」
それ以上逆らおうとする者は、誰もいなかった。
男の腰に揺れる重い剣は、ただの飾りではない証拠に使い込まれた跡がある。金箔の禿げた立派な柄は、皮の服とこすれてガチャガチャ鳴っている。
淡い月の晩、黒いマントで身を包み、黒い馬に乗った男は、さながら地獄からの死者のように、娘と赤子を攫っていった。
「悪魔だ」
誰かが呟いた。
「あの娘は、確かに悪魔の子を産んだ。そして悪魔が、地獄の底から花嫁を迎えにやってきたのだ」
青白い夜の光が曲がりくねった泥だらけの道を照らし、道の端には、まだ溶けきっていない雪の塊が灰色に汚れて影にひんやりと潜んでいる。
男に借りた毛羽立った上着を肩にかけ、しっかりと赤ん坊を抱いた娘は、何も言わず、俯いているばかり。
無論、男は悪魔ではなかった。ただの通りすがりの、旅の者でしかなかった。
この地方を通るのは、何年かぶりのこと。よって赤ん坊の父親でもなかった。この辺りの集落に知り合いは居ない。娘の名も、司祭の呼ぶので初めて知った。
「何故…」
かなり走ったところで、娘はようやく、目を伏せたまま、おずおずと問うた。
「気まぐれだ。たまたま通りかかったときに、あんたの叫び声が聞こえた。それだけだ」
「あなたは…?」
「さっき名乗ったとおりだ。俺の名はグウィディオン。かつてイオナに仕えていたというのも、本当だ。無理やり連れてくるような真似をしてすまなかったが…、父なし子を産んだとあっちゃ、もう、あの村にはいられまい。」
娘は、小さくうなづいた。
まだ子供にも見える年だった。
こんな若い娘が、どうして子を産むことになったのか、グウィディオンは少なからず気になったが、それは聞いてはならぬことかもしれない。
赤ん坊は泣きもせず、静かに眠ったままだった。
しらしらと更ける夜の中、旅人たちは道端に火を起こし、濡れた体が温まるのを待っていた。
娘は黄色い髪に、ほりの深い小さな顔をした、この地方では、ごくありふれた顔立ちだった。
とりたてて美人でもなく、かといって、不器量でもない。凡庸な顔立ちの娘には、都会からの求婚者が訪れることもなく、年頃になれば、親同士が決めた近隣の村の適当な夫のもとに嫁ぎ、一生を主婦として暮らす。そして親たちも、それを望む。行きずりの恋など、あってはならぬことだった。
まして、他所者の子を産むことなど。
「どうして… 助けてくださったのですか。」
娘は、もういちどおずおずと口を開いた。
「なに。要らない赤ん坊は殺してしまえ、って、そんな考えは気に食わんだけだ。悪魔の子なんて、この世にあるはずもない。時代錯誤な考え方だ。」
「そう…思われるのですか。」
「当たり前だ。あんたが誰と子を作ったのかは知らん。おおかた、旅のものにでも無理強いされて言い出せなかったんだろう。少なくとも、生まれてきた子に罪は無い。」
赤々と燃える火に照らされて、子を抱く娘の細い手は白い。グウィディオンは何故か、その手の白さに目を奪われた。
「夢を、見たのです。」
意を決したように、娘ははっきりと話し出した。
「それはちょうど、このような、青い月が空にかかる夜のことでした。月を見ながら眠ってはいけない、と、魂を奪われてしまうからと、母は何度も教えてくれたのに、その日のわたしは、月があまりにきれいだったので、つい雨戸を開けたまま、床についてしまったのです」
「迷信だな」
「いいえ。――あれは、夢なんかではありませんでした。月のしずくが、わたしの口の中に落ちてきて…。喉を通って、腹の中に落ちていく感じがしました。今から十月ほど前のことです。」
「……。」
娘は、なおも語り続ける。
「わたしは身ごもったことを知りました。きっとそれは、あの夢を見てしまったせい。けれど恐ろしくて、誰にも言えない間に月が満ちて、青い月の晩にこの子は生を受けました。だから…」
言葉が途切れ、娘の手は震え出す。目じりには、大粒の涙が滲み出していた。
「ご覧になって」
両手で差し出された、布にくるまれた赤子を、男は拒否することはできなかった。ごつい大きな手で受け取った。
そして、見た。
司祭の手にあったときは閉じていた、赤ん坊の両の瞳が開かれている。
そこには、青い、月のかけらが二つ。きらきらと輝きながら自分を見ていた。
表情のない、人形のような子供。
だが、確かに生きている。暖かな肌のぬくもりだけが、人の子のそれと変わらなかった。
「この子が、何に見えますか。」
「人の子だ」
「だったら、どうしてただの一度も泣き声を上げないのですか。ここに来るまで、いちどでもむずがる真似を見せましたか。」
「おとなしい子なんだろう。」
男は赤ん坊を抱いたまま、娘を見た。
「あんたは、この子が悪魔の子だというのか? 自分の子ではないと?」
「いいえ。わたしの子には違いありません。」
「なら、何故だ」
「育てられる自身がないのです。」
娘は嗚咽をはじめた。赤ん坊は、澄んだ瞳をゆるやかに動かして、泣き声の出所を探そうとしている。
男は溜息をついた。
それは、この娘の正直な気持ちだと思った。
母親としての情は、ある。宿った命が葬り去られることに拒み、子供が沼に沈められるのを止めようとして、グウィディオンの気を引くほどに悲痛な叫びを上げたではないか。
だが確かに、この子供は、泣きもしなければ笑いもしない。肌は白く、この世のものとも思えぬ美しさ。娘の決意がゆらぐ気持ちも、痛いほど分かった。
「ならば、この子供は俺が預かろう。俺が育てる。それでもいいか。」
「え…。」
娘は涙を溜めた目で、男を見上げる。
「だが、ひとつだけ頼みがある。この子供のことを、忘れないでやって欲しい」
男は、娘のひざに赤ん坊を返した。娘はじっと、我が子のそして、おもむろに、涙に濡れた自分の手で、幼な子の小さな手を包み込んだ。
「約束してくれるか」
「ええ。…でも、この子にはまだ、名前がありません。あなたが父親なのですから、あなたが名前を」
「そうだな。」
男は笑うようにぎこちなく唇の端を吊り上げて、赤ん坊の、もう片方の手を握った。
「…スェウ。この子の名前は、スェウにしよう。光、という意味だ。いい名前だと思わないか、どうだ?」
娘はうなづき、ほんの少しだけ、微笑んだ。
「良い名です。わたしは…その名前を、ずっと心に抱いておきます。」
赤ん坊の目と青い月とが、それを、じっと見つめていた。
昔日の頃より、名づけられた言葉は魔力を持ち、すべての悪しきものから子供を守るという。
そして、名を持たぬ子は人とは認められなかったが、名のある子は人の子として認められた。
グウィディオンは子供に簡単な洗礼を施し、自分の子として引き受けた。
名前とは、何一つ持たず生まれてきた子が、最初に、自分だけのものとして手に入れるもの。
その時から、この子はスェウという名を、己だけのものとして、持つことになる。
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