天才奏者

増田朋美

天才奏者

その日というか、今年の冬は去年よりも寒いようだ。なんだか公園で遊んでいる子どもや動物も大変少ない。たまたま、杉ちゃんとジョチさんが、バラ公園を通りかかると、ベンチの上で広上麟太郎が座って、なにか考えているのが見えた。

「おーい、広上さん。何をしているのかな?」

杉ちゃんが尋ねると、麟太郎は杉ちゃんたちの方を見た。

「どうしたんですか?こんな寒い日に、一人でポツンと何を考えていらっしゃるんですか?」

ジョチさんも麟太郎に聞いてみる。

「ああ実はなあ、次のコンサートに出演する予定だったソリストが、何でもディスクの売上が多すぎて多忙になったので、出演できないと言ってきたんだよ。それで、代役をどうしようか。考えているところだ。」

麟太郎は、大きなため息を付いた。

「はあ、ソリストって、一体何をやらせるんだ?」

杉ちゃんがそう言うと、

「ベートーベンのピアノ協奏曲、第五番だよ。」

と、麟太郎は答えた。

「誰か、やってくれる人がいないか、考えているところだ。そうだ、もしかしたら、水穂に頼むかもしれない。」

「生憎ですが、水穂さんは、容態が良くないので、とても舞台には出られないと思います。」

麟太郎の話にジョチさんは釘を打った。麟太郎はそれを聞いてがっかりした顔をする。

「そういうことなら、いいやつがいる。あの、高橋喜朗さんにやってもらおう。彼だったらきっと弾けると思うよ。」

杉ちゃんがすぐに言った。

「高橋喜朗さん、ああ、あの吃音者の方ですね。」

ジョチさんも杉ちゃんに合わせた。

「何!そんな良い人材がいるんだったら、すぐに会わせてくれ。俺たちは、困っているんだから。」

「そうですね。でも、彼は確かにピアノはうまいかもしれませんが、かなり重度の吃音者です。オーケストラのメンバーさんとうまく渡り合えるかどうか。それに、以前、オーケストラの人たちにバカにされたこともありましたよね。」

麟太郎の発言に、ジョチさんは、心配そうに言った。

「ウン、それはそうだけど、今ソリストがいないと、演奏会はだめになってしまうので、その人に頼むことにしよう。それじゃあ、すぐに彼の住んでいるところに言って、お願いしにいこう。」

麟太郎は急いで、スマートフォンを取り出した。

「はい、本人の話だと、一色に住んでいるということです。」

ジョチさんは、したり顔で言った。

「わかった、一色というとどこになるのかな。こういう事は早ければ早いほどいい。すぐにお願いしにいこう。」

「確か、彼の住んでいるところは、青葉台公民館の近くだって聞いた。」

杉ちゃんにそう言われて、麟太郎は、青葉台公民館に向けてタクシーに来てくれるように頼んだ。麟太郎は、杉ちゃんたちにも付いてきてくれるように言ったので、杉ちゃんもジョチさんもタクシーに一緒に乗った。

とりあえずタクシーは、青葉台公民館の前で三人を下ろしてくれた。公民館から、杉ちゃんの案内についていって、小さな家が連立しているところにきた。以前は、家族と暮らしていた高橋喜朗さんであったが、何でも最近になって、障害年金などで一人で暮らし始めたようなのだ。その小さな家の中から、予想通りピアノの音が聞こえてきた。曲は、サンサーンスの動物の謝肉祭であった。杉ちゃんが、でかい声でこんにちはと言って、ドアを叩くと、それまで聞こえていた、ピアノの音が止まった。

「こんにちは。今フィナーレやっていたな。ちょっと広上さんから、お願いがあるんだって。聞いてやって。」

杉ちゃんという人は、お邪魔しますも言わないで他人の家に上がり込んでしまうくせがあった。応答に出てきた喜朗さんより早く、その小さな家の中に入っていた。

「お前さんが、吃音者であることはちゃんと知っているから、思っていることをしっかり話してくれよ。」

そう言いながら、高橋喜朗さんについて、杉ちゃんたちは、居間に入った。喜朗さんは、三人にお茶を出そうとしたが、

「そんなものは要らないから、俺の話を聞いてくれ。今度というか、来月に行われる富士フィルハーモニーの定期演奏会に、ソリストとして出てもらいたい。曲は、ベートーベンの皇帝でお願いしたい。出演料は出せるだけ出すから、出てもらえないだろうか?」

麟太郎は、ここまでを一気に話した。

「そ、そ、そうは言っても。」

高橋さんは、やっぱり閊えながら言った。

「あ、あんな、す、ご、い曲、と、とても弾けませんよ。」

「いや、大丈夫だ。動物の謝肉祭が引ければ、きっと弾けるさ。なにかあったら俺が助けるから頼むよ。出演してくれ。」

麟太郎は、もう一度頭を下げた。

「そ、そう、は、いって、も、ですね。ピアノは、ひ、けても、こ、う、い、う、ふうに、何も、しゃ、べれない、と、演奏、がなりたち、ませんよ。」

麟太郎が、何を言っているかわからない顔をすると、ジョチさんが、

「ピアノは弾けても、自分のようにうまく話せないということでは、演奏も成り立たないと申しています。」

と、通訳した。

「いや、そんな事は気にしなくてもいいさ、もし必要があったら、通訳すればいいんだから。それでもし、トラブルがあっても、なんとかなるよきっと。」

麟太郎がそう言うと、

「広上さん何もわかってないんですね。単純に出演すればいいと言うわけでは無いんですよ。いずれにしても、練習の時や、本番でも、オーケストラの人たちと言葉が通じなかったら、演奏はできませんでしょう。」

ジョチさんは直ぐにいった。

「そうだなあ、、、。」

麟太郎は少し考えたが、

「でも、俺は音楽のチカラを信じてる。音楽はきっと障害があってもなくても、人を結んでくれると信じてる。だから俺は、出てもらいたい!」

と、聖人君子みたいな事を言った。

「まあそうですけど、もうちょっと現実を考えないと。広上さんの言っていることは、まるで砂上の楼閣です。きっと実現できませんよ。」

ジョチさんは、反対した。

「そんな事は、絶対に無いさ。そもそもベートーベンでさえ、健常ではなかったわけだから、吃音者がソリストになっても大丈夫だよ。」

麟太郎はすぐに言った。

「ですけど、ベートーベンの頃と今では時代がちがいます。ベートーベンの頃は、もっと皆さん余裕があって、障害について、もう少し寛大でした。今は、それがありません。それに、吃音であることを売り物にしても、長続きしないことは、多くの例でわかるではありませんか。それは、わざわざ高橋さんに体験させなくてもいいと思いますが?」

ジョチさんは、心配そうにそういうのであるが、

「まあ、一度、演奏してみたらいいじゃないか。高橋さんは、弾けるくらい演奏技術はあるはずだしさ。だめだったら、他の人を考えればいいんじゃない?」

杉ちゃんが口を挟んだ。

「そうだよそうだよ!絶対に大丈夫だ!俺は絶対できると思ってる。音楽は、そういうことも可能だと思ってる。俺は絶対諦めないからな。どんなに反対されても意思を曲げないぞ!」

麟太郎は、意思を貫くように言った。

「そうですね。」

杉ちゃんとジョチさんは、顔を見合わせた。麟太郎は手帳を破って、富士フィルハーモニーの練習場所を書いて、その日に来てくれと改めて懇願した。高橋さんはとりあえずそれを受け取ってくれた。麟太郎たちは、必ず来てくれと言って、その日はお開きになった。後は高橋さんの意思にかけるしか無いと思った。

それから3日経って、富士フィルハーモニーの練習の日がやってきた。麟太郎は来てくれるか心配で仕方なくて、一時間以上前から、市民文化会館の玄関先で待っていた。待ち合わせ時間通りに高橋さんはやってきた。麟太郎は大喜びして、彼をリハーサル室へ招き入れた。そして、部屋の中で音合わせをしていたフィルハーモニーの楽団員に、

「今日から、この人が、ソリストとして演奏をしてくれる。よく演奏を聞くように。」

と言って彼を紹介した。高橋さんは、

「よ、ろし、く、おねがい、します。」

と、一生懸命ご挨拶してくれたのであるが、楽団員たちは、彼のことをバカにしたような目つきで見るだけであった。

「じゃあ、早速、皇帝の第1楽章をやってみよう!」

と、麟太郎はカバンの中から指揮棒を出して、指揮台に上がった。高橋さんは、設置されていたグランドピアノの前に座った。麟太郎が指揮をふりはじめて、みんなが演奏を始めると、高橋さんも演奏を始めた。確かに、演奏技術は十分にあるし、ちゃんとしっかりできている。音色だって、きれいに響いているし、音のバランスも悪くない。やっぱり、彼はちゃんとデキる人であるな、と、麟太郎は思った。

「よし、よくできているぞ。それでは、二楽章をやってみる。なにかわからないところとか、できないところはあるかな?」

麟太郎がそうきくと、

「先生、この人と本当にやらなきゃいけないんですかね。確かに、うまいことには、うまいんですが。」

と、団員の一人がそういう事を言い始めた。

「話ができないんじゃ、俺たち、困るんですけどね。だって、俺たちが、話していることも、通じないんでしょ?」

別の団員もそういう事を言っている。なんでと麟太郎は思うのであるが、どうやら障害者をソリストとして迎えるのは、相当難しいことだと思われるのだ。皆、障害者の下に立つのは、嫌なんだという人が多い。特に、クラシック音楽をやっているような人は他人より上の立場に立っている人が多く、障害者を嫌う人が多いのであった。

「そうかも知れないけれど、適任者はこの人しかいないんだ。他に、探して来ようにも探せないんだよ。だから、今回の本番は、この人にやってもらう!」

オーケストラというのは、ときに変なことが露見するものである。指揮者というのは、音楽的にはリーダー的なポジションであるのだが、オーケストラに雇われているという立場なので、オーケストラに文句を言うのは、めったに無いのだ。それを利用して、オーケストラの人たちは、指揮者に文句を言うこともある。指揮者が、オーケストラをがんと押さえつけることは、伝統的に考えるとあり得ない話であった。

「そうですか。広上先生は、なんだかおかしくなったみたいですね。私達は、音楽を聞かせるのであって、福祉事業をやっているわけじゃないんですよ。」

と、ちょっと感情的にフルート奏者がそういうことを言った。

「広上先生は、音楽を、障害のある人にやらせてやって、その人の同情票で、やっていこうと考えているじゃありませんかね?」

これには、麟太郎も頭に来た。

「いや、決してそんな意味でやっているわけじゃない。ただ、高橋喜朗さんが、ピアノが上手いから、それでやらせてあげたいだけだ!それに、吃音であろうが、無かろうが、そんな事、関係ないじゃないか!なんで、そうやって、誰かと誰かを比べようとするんだよ!」

クラシック音楽を演る人は、多くの人が比べる癖が着いている。誰々より誰々のほうがうまいとか、自分は少なくとも誰々よりはましとか、そういうふうに考える人がとても多いのである。なんでそういう事になってしまうのかは不詳だが、そういうふうにあら捜しばかりする人が、非常に多いような気がする。

「大体な、そうやって、あら捜しをするなんて、レベルが低い証拠だ。レベルの高いところであれば、誰でもいいと言って受け入れる。それが当たり前だよ!」

「珍しいですなあ。」

麟太郎がそう言うと、年を取ったオーボエ奏者が、そういう事を言った。

「珍しいって何が!」

「だから、そういうことです。広上先生が、誰でも受け入れるなんていう態度をとるとは、珍しいですね。大体、私達がやりたい曲があると言っても、先生は、難しすぎるからだめといって、聞いてくださいませんでした。そんな先生が、どうしてそういう事を言うんですかな?」

これには、麟太郎は自分は感じていなかった。そんな発言、やっていたかどうか、今は覚えてもいないけど、昔はそうだったかもしれない。でも、それでは、行けないと、いまの麟太郎は思うのである。人って、変わろうとしているときはなかなか変われないが、無意識に変わってしまうことは、非常に多いのである。

「昔も今も関係ない。今しなければならないことは、今回の定期演奏会を成功させることだ!そして、この高橋喜朗さんと一緒に、演奏をすることでもあるんだよ!」

時々、こうやって感情的になれることは、リーダーであることの強みでもあった。それに渋々応じる形で、楽団員の人たちは、高橋喜朗さんと一緒に、練習を開始してくれた。それで良かったと思った。高橋喜朗さんが、ピアノ・ソロの部分を弾き、楽団員さんたちは、オーケストラで伴奏する。それを、何回も繰り返して練習し、一応、ベートーベンのピアノ協奏曲は、形になってくれた。麟太郎は、これでやっと、本番は成功すると思った。

ところが、本番前日のリハーサルの日。麟太郎が、リハーサルを終えて、高橋喜朗さんと、本番のスケジュールなどを確認していた時。

「広上先生。その節はすみませんでした。明日は、なんとか時間を作ることができましたから、よろしくおねがいします。」

と言いながら、一人の女性が、リハーサル室に入ってきた。

「あ、浅井先生。スケジュールが会ったんですか?」

と、フルート奏者がそういった。彼女こそ、本来ソロをやってもらうはずだった、浅井栄子というピアニストである。確かに、彼女であれば、今までのように何度も合わせなければならないということはなかったはずだった。でも、麟太郎は、何故か彼女を許せないと思った。

「一体何ですか。今更来られても困ります。」

麟太郎はとりあえずそういう。

「なんですか。私が、時間をつくって、明日出られるようにしましたのに。」

浅井さんは、そう言うが、麟太郎は、明日は彼女を使わないと思った。

「いえ、ソリストは、こちらの、高橋喜朗さんにお願いすることにしました。高橋さん、彼女に自己紹介してくれませんか。」

わざと、麟太郎はそういう事を言う。

「た、たかは、し、よ、よしろう、で、す。ど、どうぞ、よろし、く、お、ねがいし、ます。」

高橋さんは、吃音者らしく自己紹介した。浅井さんは、それをバカにしたような目で見た。

「あら、吃音者なんですか。」

「そうです。でも、ピアノはものすごくうまいですよ。」

麟太郎はそういいかえす。なんだか、麟太郎も、高橋さんと一緒に演奏をしていると、障害者だろうが、そうでなかろうが、ソリストとして、受け入れようという姿勢に変わってしまっていた。以前は、受け入れなかったとしても、今は、高橋さんのような人を、一生懸命支援しよう、そういう姿勢になっていた。

「恥ずかしいですね、広上先生。代演を見つけられなかったから、それでは、吃音者に頼んだんですか。嫌ですわ。先生がそんなに気が小さいとは思いませんでした。」

そういう浅井さんに、共鳴している楽団員さんもいるようであるが、麟太郎は、そういう人たちを含めて、こういうのだった。

「明日は、必ず成功させます。もし、疑いを持つのであれば、演奏会に参加させない!」

それを聞いて、誰も反発するものはいなかった。そういう事を言われれば、誰も反発しないのであった。

翌日。最終練習も終わってあっという間に本番の時刻になってしまった。まずはじめにオーケストラの楽団員さんたちが席につく。そして、客の拍手と一緒に、指揮者が出てくるのであるが、麟太郎は、高橋喜朗さんと、一緒に出ていくことを心から望んだ。高橋さんの手を繋いで、麟太郎は、舞台に出た。そして、高橋さんをピアノの前に座らせて、自分は指揮台の上に上がり、指揮棒を持って、指揮をし始めた。オーケストラの人たちも、もう諦めてくれたのか、それとも本番に強い人達が多いのか、それなりに、一生懸命演奏してくれた。高橋さんも、緊張しているようではあるけれど、ちゃんとソロパートを弾いてくれている。あっという間に、第3楽章になり、フィナーレをつくって協奏曲は終わってしまった。さあ、どうなるかと思ったら、会場は割れんばかりの大拍手になった。麟太郎が、再び高橋さんと手を繋いで、一緒に礼をすると、拍手は更に大きくなった。きっと、高橋喜朗さんが、みんなに認めてもらえたのだ。麟太郎は、そう確信した。そして、高橋喜朗さんと、一緒に舞台袖へ引き上げる。なんだか、いつも以上に、大きな仕事を成し遂げたような、そんな気がした。

そのまま、演奏会はお開きになった。楽団員さんたちは、楽屋の掃除をしたり、各々の楽器の片付けをしたりしていた。麟太郎が、高橋さんと、楽屋で休憩していると、

「失礼いたします。」

と、浅井栄子さんが入ってきた。

「なんですか。」

と麟太郎が言うと、

「私、負けました。彼の演奏は、ものすごく技術があって素晴らしかったです。私は、あんなふうに立派な演奏はできません。」

と、浅井さんは、頭を下げながら言った。

「誰々より誰々のほうがうまいなんて、そんな事は言ってはいけませんよ。」

麟太郎は、急いでそういったのであるが、

「そうですね。あたしも、比べることなく、音楽を楽しまなきゃいけませんね。音楽って、そういうものですよね。それは、よく気をつけてやらなくちゃ。ごめんなさい、高橋さん。」

浅井さんは、高橋さんに握手を求めた。高橋さんは、

「ど、ど、どうも、あ、あ、ありが、とう、ございま、す。」

と言って、右手を差し出した。浅井さんはそれを強く握った。

「良かった。浅井さんが、そういう穏やかな気持で聞いてくれて嬉しいです。そうやって、身分や地位を超えて、心に通じてしまうのが音楽の保もつ力なんですよね。俺は、それを信じてよかったと思います。」

麟太郎がそう言うと、浅井さんは、

「いいえ、一番変わったのは、広上先生ですよ。先生は、意識されてないのかもしれないけど。」

と、カラカラ笑って言うのだった。麟太郎は、驚いて思わず自分を指さした。


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天才奏者 増田朋美 @masubuchi4996

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