午前10時から12時
午前10時、開店時間。掃除も終わり、厨房に火を入れて、あとはお客さんが来るのを待つだけ。
「鈴、忘れてますよ。いつも忘れるんですから」
店の扉には開いた時に鳴る鈴をかけている。だけどそれは閉店間際には外して、次の日の開店の時に扉にかける様にしていた。鈴の音がご近所の迷惑にならない為の一手間。気にするほどのことではないが、商いはそういう一手間が大事なのだと二人は思っている。
「あゝまたやってしまった。最後の日まで癖だな」
「じゃあお願いしますね」
鈴を扉にかける。
最初の一つは壊れてしまって、二つ目は店主が無くして、三つ目はどうしてもあの鈴が欲しいとぐずる小さな子どもにあげてしまった。あの時の若い夫婦の平謝りぷりと、鈴を手にした男の子のキラキラした目は今でも覚えている。その男の子も、もう高校生くらいになってるかもしれない。
4つ目の鈴、最後の鈴が鳴る最後の一日の始まりだ。
店の扉が開き、鈴の音が鳴る。最初のお客さんだ。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
入ってきたのは道路の向かい側にあるラーメン屋の店主だ。
そのラーメン屋ができたのは15年ほど前、開業した時にはまだ青年といった雰囲気だった。
道路の向かい側に別の店ができた時、妻が言ったことを店主は今でも覚えてる。
「値を上げましょう」
それまで消費税ができた時も材料費が上がった時も、メニューの値を上げることはしなかった。店を始めた時の値段でずっとやってきた。それを向かいに店ができたから値を上げると言う。私は理由を聞いた。
「私たち年金を貰い始めましたよね。それを念頭に店を続けて行くなら、今の値段のままでやっていけます。でも向かいの店の青年は違いますよ。良いですか?お客さんが二つの店で悩む時それは健全なことですか?」
妻の言う通り同じラーメンでも400円の差があった。
「確かにそれはそうだが、この店のお客が喜んでくれるなら良いんじゃないか」
「いえ、貴方それは違いますよ。私たちの店がなくなって私たちがいなくなる時が来ます。その時この小さな町にバトンを渡さないといけないんです。その為の値上げです」
結局妻の言葉に従って、値上げした。お客が減るのではないかと言う心配は杞憂に終わった。そして今、向かいのラーメン店の店主が来てくれている。
「長い間おつかれ様でした。ラーメン美味しかったです。あと餃子お願いしてもいいですか?」
この中華店では焼く前の餃子を持ち帰ることができる。それで家で自分で焼くのだ。ニラとニンニクと豚肉で出来てるだけなのにとても美味しい。おまけについてくるタレを目当てに買う人もいる。パックに入った焼く前の餃子を受け取る。
「ご馳走様でした。ありがとうございました」
そう言ってラーメン店の店主は扉の鈴を鳴らして出ていった。
少し早めの昼食にくる人に混じって、この店の餃子を買いにくる人が多い。
ある主婦は餃子を取りに来てこう話した。
「この餃子を食べる為に息子たちが帰ってくるんです。どうしても仕事の事情で今日は来れなくて残念です。家族でいただきますね」
別の客は話す。
「俺の体はこの店の飯と餃子で出来てます。高校時代お世話になりました」
小さな町の小さな中華料理店、最後の一日が始まった。
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