プールにて

第1話 アトランタオリンピック

1996年7月28日(日)


「今何位?」

トイレから戻ってきて、

ビール片手に、テレビの前にしがみついている親父に

日本人女子選手の順位を聞いた。


五輪の女子マラソン。

必死に駆けている選手たちがテレビに映し出されていた。

ついでにテレビの横にあるビデオデッキを見る。

録画を示す赤のマークが点灯していた。


「3位のまま。あーでも。20秒差でカトリン・ドーレが来てる」

日本人女子選手は3位のままのようだ。

途中まで2位だったのにな……。


「1位はロバのまま?」

俺は違う質問を親父に投げかけた。


「そう。ロバ」

親父が短く答える。


1位はエチオピアのロバ。

レース中盤で一人で先頭集団から抜け出しトップに躍り出ていた。


「追いつけそうにはねーな」

親父がため息交じりにこぼしながら、ビールに一口付ける。


「2位はじゃー……」


「……エゴロワ。うーん。追いついて欲しーけどな」

親父が現実と願望をこぼした。


1位のロバがテレビに映し出される。

……。フォームに崩れがみられない。

ぶれたり、不自然に体を回したりとかが…無い。

画面左の表示は40kmを示している。


もう40kmも走ってるというのに!

これが世界の頂点……。そう感じた。




結局、俺と親父が……

いや、日本人のほとんどがだろう……

応援していた日本人選手は3位でゴールした。


「すげーな。手術したんだろ。それでメダル取るんだからたいしたもんだよ」

親父が手放しで日本人選手を誉めた。


「カズ。お前も頑張れや。シューズ代と合宿のお金くらいは何とかするからよぉ」

親父がこちらを見ずに、俺に声を掛ける。

ビールの空き缶は2缶目。

今、3缶目に口を付けた。


1ヶ月に一足はダメにしている。

シューズ代もバカにならない。

合宿なんて5万も掛かる。

ウチはそんなに金銭面で余裕がある家庭では無い。


「……。俺。どうなんだろうな?」

自分はどうなんだろう。そう考えることが多くなった。

だからこの言葉が出てしまう。


「どうなんて。どうしたんだよ?」

親父がこちらに顔を向けて問う。


「なんか。自分の将来とかどうしらいいのかなって」


「高一だろ? まだ時間はあるって」

親父はいつもと同じ物言いだった。

もう進路や将来を見定めてる子がいる。

でもそれに比べて俺は……。


「大学には行って欲しいと思うけどな」

これも、親父はいつもと同じ物言いだった。


「あなたー。明日も仕事早いんでしょ。早く寝ないと」

お袋から親父へ注意が飛んできた。


「おぉ。そうだな。ジャー寝るかな」

大きな伸びをして親父は立ち上がった。


「それとちゃんとお水も飲んで」


「分かってる分かってる、じゃ先に寝るな。お休み」

そういって親父は寝室に消えていった。


「それとカズ。アンタ! 

録画するのは良いけどしっかり片づけなさい

アンタの部屋、ビデオと本でぐちゃぐちゃじゃない!」

今度はお袋から俺にお叱りが飛んできた。

両手を腰に手を当てて仁王立ちしている。


「あ。ごめん。明日の朝。片づけるよ」


「もう。ホントに親子そろって片付けが出来なんだから」

そう言いながら、お袋は親父が飲んだビールの空き缶を片付け始めた。

親父も部屋の片づけが出来ない方だ。

俺はそれに似てしまったらしい。





『初めて自分で自分を誉めたいと思います』

レース後、ブラウン管を通して3位となった彼女はそう答えていた。


自分を誉めるぐらいのこと

俺は出来ているんだろうか?


真剣に何か取り組んだって

胸を張れるんだろうか?


テレビに映る日本人女子選手と教師を目指す清水さんが重なって見えた。


手に携えている銅メダルが

俺には眩しくて眩しくて仕方なかった。


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有森 裕子……

元女子マラソン選手で日本におけるプロランナーの草分け的存在。

『初めて自分で自分をほめたいと思います』は

踵の手術後(1994年)の、踵にマヒが残った状態でアトランタ五輪(1996年)を走り、銅メダルを取った際に涙ながらに語った言葉である。

またその年の流行語大賞に選ばれている。


ワレンティナ・ミハイロヴナ・エゴロワ……

ロシア・チュヴァシ共和国出身の元女子マラソン選手。

バルセロナオリンピック金メダリスト。

バルセロナ、アトランタと2大会連続で有森とデッドヒートを演じた。


ファツマ・ロバ……

エチオピア・アディスアベバ出身の女子マラソン選手。

アトランタオリンピック金メダリスト。

なのだが、ロバは下馬評にも挙がらないほど無名の選手だった模様。

また女子マラソン競技においてオリンピックで

アフリカ勢の女子選手が優勝したのは、ロバが史上初めてとのこと。


カトリン・ドーレ・ハイニッヒ……

ドイツ(旧東独)のライプツィヒ出身の元女子長距離走・マラソンランナー。

ソウルオリンピック銅メダリスト。

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