第37話 イップス

1996年6月29日(土)


「お前さぁ。安静にしてろってクガセンから言われなかったか?」

自電車で駅に着き、

遠藤を真正面に見据えながら

俺は電話口で話した内容を繰り返した。


「少し出歩くぐらいなら構わないって言われてる。それに鬼塚もいるし……」

そーですか。そーですか。

お前が倒れたら、俺が運ぶってことですか。

まぁ。何回かやってるっちゃやってますけどね。



久我山先生……!!期末テストの勉強がしたいです……。



どっかの元長髪不良の3Pシューターのように呟いた。

だが俺は呟いただけで、膝から折れてしゃがみ込むようにはしなかった。

人の往来のある道端で流石にそこまでの真似は出来ない。



「……延期しても」

無駄とは分かっていたが、俺はまたしても電話口での内容を繰り返した。


「早くしたいんだ」

遠藤の回答は既に決まっていたようだ。



電車に揺らされながら、俺達は目的地に向かった。


……会話は無い。


少し遠藤の顔を見る。

その視線は空中にあるが、強い意思が感じられた。



駅から降り、徒歩10分。

俺達は目的地についた。



"県立図書館"

黒い御影石にその文字が刻まれていた。



「鬼塚はここで長距離の勉強してたの?」

入口へ向かって歩きながら遠藤がようやく口を開いた。


「ここなら大抵の本があるからな……」

俺は暗黙の肯定をした。



そうだ。俺はここで長距離を勉強し直したんだ。



あの暴行事件で、退部してから……。



俺は中に入ることを促しながら、声を掛けた。

「じゃ。ま。お勧めの本を紹介するわ。

それと、学校の図書館と違って私語厳禁だからな」


リディ・アード先生の本は外せんな。

それと基礎的だけど入門ブックみたいなものもいいか。

後は宣伝や試合結果とかが多いけど

陸上競技の月刊誌も良いかな。

でもあれは部長が部室に置いてたかな?

頭にお勧めの本を描く。


しかし遠藤は俺の服を握り、中に入ることを拒んだ。

「うん。それともう1つ教えて欲しいことがあるんだ」


「何だよ?」

歩みを止められたコトに少し不満げに俺は答えた。


「高跳びのイップスって…どんなの?」

遠藤が予想もしないコトを聞いてきた。


「あん? お前。それ聞いてどうすんだよ」

遠藤は長距離専門だ。今日もその勉強の為に来ているはずだ。


「ちゃんと向き合いたいんだ。高宮さんに」

遠藤は俺の目を見据えてそう答えた。




こ・い・つ。それが目的かよ!!




「お前。そんなの聞いてどうすんだよ」

声に不満が籠った。


「わからない。けど知りたいんだ」

遠藤は真摯な目線を俺にずっと投げかけた。


「素人がどうのこうの出来る話じゃねーんだぞ!」

声に怒りが混じる。


「分かってる。分かってるんだよ

でも。それでも。何か出来る事があるなら

してあげたいんだ!」

なおも遠藤は強い意思の籠った瞳で見返えしてきた。



俺はそのまま遠藤の瞳を真っすぐ見た。

……だが遠藤は目を逸らさなかった。



「はぁ。しょうがねぇ。知ってることは教えてやる

だけど治し方なんざ分かんねぇぞ」

俺の方が折れた。

そしてその態度に遠藤の顔が緩んだ。


まず図書館の中では無く、

併設されている食堂へ向かった。

そこは私語厳禁では無かったからだ。


「中じゃ話せねぇからな。取り敢えず知ってることを話すぞ」

それに遠藤から聞いておかなきゃならない話もある。


食堂の椅子に腰を掛け、

俺はコーヒー、遠藤は紅茶を頼んだ。


「俺もそんなに高跳び詳しいわけじゃ無いからな」

直ぐに出てきたコーヒーをすすりながら話す。


「それでも僕よりは詳しいでしょ」


「まぁ。そりゃな。

高跳びって種目はイップスっていうか

心理的要素が割と絡んでくるのは確かなんだよ

俺達がやってる長距離と比べてな……」


長距離種目に心理的要素が全く無いという訳では無い。

ただ俺は跳躍種目の方が心理的なもの、精神的なものが絡む割合は大きいとみていた。


「そのあんまり実感が湧かないんだけど

その心理的要素が、実際にどういうふうに影響するの?」

遠藤が率直に聞いてきた。


俺は天井を見上げ、

少し考えをまとめてから答えた。

「まずな。高跳びは試合では3回飛べるんだ。

その中で1回成功すれば良い。

でも同じ高さで3回失敗したらそこで終わりなんだ。

なんだけど……、

3回目は絶対に成功出来ないって人がいた。

練習中では余裕で飛べる高さでもな」


「えっ。何で」


「わかんねぇよ。でも3回目までいくと駄目なんだ。

上手く飛べない。これ跳べなかったら終わりだっつー

プレッシャーのせいかもしれないけど……。

そういう人がいたんだわ」


「ふーん。何か不思議だね」


「他には……

跳んでる最中にバーを掴んじまったりって人もいる」


「何で!?」


「分かんねぇよ。でもあるんだ。そういうの」

そう。分からない。

でも実際に有る。

俺も少しだが見たこともある。


試合中、何回かバーを掴んでしまった人がいた。

見ていて居たたまれなかったな……。と思い出す。


「ま。あとはバーが顔とかに落ちてきてトラウマになって飛べないとかかな」

これは俺も少しかかった。

だが割とその後、普通に跳べるようになった。

"ちょっとした恐れ"それが高跳びにはダイレクトに響く。

それを俺は身をもって知っている。


「そんなこともあるの!? でもさ。それってイップスじゃないんじゃ」


「そうかもな。でも

どこからどこまでがイップスか、なんて

俺にもよく分かんねぇしな」

共通しているのは今まで跳べていたのに

急に跳べなくなってしまうことぐらいだ。

まるで羽根をもがれた鳥のように……。


「……あのさ」

遠藤が重々しく口を開く。


「……何だ」


「治らないの?」


「パターンが色々だからな。

治った人もいる。

でもやっぱり時間は掛かって場合もあるんじゃねーかな……。

それに、駄目だった人もいるしな」


「あの。その。治し方って……」


その答えに俺は決まりが悪く、頭を掻きながら答えた。

「それも色々なんじゃねーの。背面跳びが怖い時は

ハサミ跳びで跳んで練習したりとか、逆に跳ぶ練習はせずに基礎連したりとか。

何か変化付けたり、目先を変えたりするんだよ。

ま。上手くいくかどうかは分かんねぇんだけどな」


今にして思えば

高宮が俺の背面飛びを見たいと言ったのは

これが理由だったのかもしれない。


俺の腕の使い方はランニングアーム。

高宮のはシングルアーム。

跳び方が少し違うのだ。

もしかしたらフォームを変更して

イップスを克服しようと

高宮は考えていたのかもしれない。

本人に聞かなきゃ分からない話だが……。


「治す方法あるんだ!」

遠藤の明るい声が響く。


しかし言わなきゃならない事がある。

言いたくないことだが……。


「ただし月単位で時間が掛かる事がある。

だから……。

9月の新人戦に間に合うかどうかは分からん」

そう。もう9月の新人戦が迫っていた。



「……そうか」

遠藤が俯き気味に答えた。

無理もない。


「で。だ。高宮は何て言ってるんだ。

そのどういった場合に飛べないって言ってるんだ」

遠藤に聞きたいことがある。

高宮は自分のイップスについてどう感じているかだ?

どういう条件下で起こり易いか

そういったことが解決の糸口になるかもしれない。


「んー。

告白を手伝ってもらった時も、ちょっと話したけど

"周りから注目を集めちゃうと駄目になっちゃう"って言うんだ」



周りから注目……!?


そういえば。高宮と遠藤が

放送部の部活紹介用に撮影していた

あの時……。



"視線"が二人に集まっていたはずだ。



「じゃ。あの時のあれは……。

撮影するからってカメラが回って

視線が集まったから……」


「そう。そうなんだよ。

僕もそのせいじゃ無いかと思って」


プレッシャーに弱いってタイプのイップスなのかな?

色々と症状があるから分からんちゃ分からんが……。


「他には何か言ってなかったか」


「うーん。あ。そう言えば、中学2年の時からだって言ってた」


中学2年から…。

丸っと1年、抱えてる感じか。


「1年ぐらい治ってない訳か……」


「でも最近調子いいって言ってたんだけど……」


「そっか……」

現状把握としてはこれぐらいかな……。


高宮のイップスについての情報をまとめると

以下3点だな。

・人の注目、視線を集めると起きる可能性がある

・中学2年から抱えている

・フォームを修正して克服しようとしていた可能性がある

こんなもんかな。


……。中学2年の時に何かあったんかもしれんがな。

バーが落下して頭に当たったとか。

しかしまぁ。本人いないし、

それに直接聞くのもね……。


「それとさ。『メジャーリーグ2』って映画で捕手の選手がイップス克服してたんだ……」

遠藤が思い出したように口を開く。


「何だよ? その『メジャーリーグ2』って?」

遠藤くん。あなた映画と現実をごっちゃにしてません?


「鬼塚? 知らないの?

とんねるずの貴さんが出てる映画だよ。見てないの?」

いや。流石に貴さんは知ってるけどさ……。


「俺はお前ら程、映画は見ねーんだよ」

遠藤と高宮はしょっちゅう映画の話をしている。

映画部があったら映画部に入ってたんじゃねーかなコイツら。


残念そうな表情を遠藤が見せる。

だから、お前らと違って映画はそんなに見ねーんだっつーの。

俺は!

「そんで。その映画でイップス治してるのか?」


「そうそう。そうなんだよ」


「なんか使えそうな方法なら使ってみれば良いんじゃねーか。

元々ダメ元みたいなところあるしさ」


「あ。あんな方法使えるわけ無いよ!!!

何言ってるんだよ!!! 鬼塚は。

だ。だって。女性用下着の……を……するなんて」


「は!? 下着?」


「な。なんでもないよ。と。とにかくその方法は使えないんだ」

何故か遠藤は顔を赤らめ押し黙ってしまった。


さてと。

遠藤から聞きだせる情報はこれぐらいかな?

そう思って俺は残っていたコーヒーを飲み干した。

しかし対面に座っている遠藤は紅茶に全く手を付けていなかった。


「んじゃ。調べるか」

俺はそう言って、食堂を出る事を示した。


「えっ。何を」

遠藤がキョトンとしている。


「イップスの治し方に決まってんだろ」

俺はニヒルな笑いを遠藤に見せつけ

蔵書200万冊はある図書館の入り口を顎で示した。

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どっかの元長髪不良の3Pシューター……

「安西先生…!バスケがしたいです……」はあまりに有名。


アーサー・レスリー・リディアード……

多くの五輪メダリストを育てた伝説的なランニングコーチ。

ニュージーランド出身。

実際に指示をした

ピーター・スネルに800mで金メダル

マレー・ハルバーグに5000mで金メダル

バリー・マギーにマラソンで銅メダルを獲得させ、

日本の著名な陸上指導者にも多大な影響を与えた。



『メジャーリーグ2』……

1994年のアメリカ映画。メジャーリーグベースボール(MLB)を舞台にした野球コメディ。日本人キャストとして とんねるずの石橋貴明も出演している。


この映画で登場している捕手のルーブ・ベイカーは

投手にボールを返球する際に暴投してしまうというイップスを抱えていたが、

作中内でそのイップスを克服した。

その克服方法は驚くべきものであり

"無心となって暗記した『女性下着』の特徴を述べながら投手へボールを返球する"という

方法であった。


高跳びのアームアクション…

踏み切る際の腕の使い方のことで以下に代表なものを紹介。

・ランニングアーム……

自然な腕の振りで、踏み切り動作が行いやすい、スピードを生かした跳躍向き。

ただし、バー側の肩が下がり易く、跳躍が流れやすい難点を持つ。

・シングルアーム……

ランニングアームと同様、スピードを生かした跳躍向き。

バー側の腕を上げておくため、肩が下がらない。

・ダブルアーム……両手を同時に振り上げる事で足への衝撃を跳躍力に変化させる。

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