2-8. 赤い瞳
一人きりの自室で、アルノは外套を脱いだ。ポケットの中にはもう、青い便箋は見当たらない。短い深呼吸をしてから、クローゼットにあった部屋着に着替える。
ハンガーにかけた外套のポケットから、そっと白いボタンを摘み上げる。もう、あの頃と今を結んでくれるのはこのボタンだけになってしまった。
「……レイア。今のぼくは、死神でクリーニング屋なんだ。変な話だね」
ボタンは黙っている。
「みんなの服をアイロンがけしたり、レイアの洋服を繕っていたおかげで、何とかなる気がするけどさ。……子どもの頃からお医者さんになりたかったのに、もう、なれない」
あんまりにもボタンが何も言わないので、アルノはベッドに背中から倒れ込んだ。ボタンに開いた四つの小さな穴から、無理矢理天井を覗き込む。何の愛着もわかない天井が、向こうでじっとしていた。
「これからのぼくは、人の魂を繕うんだ。……もしかしたら、病院にいる時よりも、よく似合う最期をたくさんの人に見せてあげられるかもしれないね。そうだといいけど」
なめらかなボタンの表面を撫でると、アルノの目頭は熱くなる。子どもの頃は、こんな風にしていればすぐにレイアがやって来て、文句を言いながら頭を撫でてくれた。最近ではさすがに、彼女の前で泣くことはなかったけれど。思い出すのは、彼女の温かくて小さな手だ。
「コーヒー、飲んでくる」
辺り一面を覆う沈黙が、そっとアルノの背を押した。まだよそよそしいドアノブを開け、階段を降りキッチンへ向かう。そこにはきっと、コローの姿があるだろう。
しかし、予期せぬ光景にアルノの背筋は凍り付く。
背の高い男が立っていた。コローよりも
男が着ているのは制服だ。街でよく見る郵便配達員の制服。紺色ではない。そして、青でもない。赤だ。
「……誰、ですか?」
陶器のような肌に触れたら、こちらの指がかじかみそうだ。燃える赤い瞳を持ちながら、男が纏う気配はその色とは真逆。血の気のない薄い唇がわずかに上がれば、口元に埋め込まれた丸い小さなピアスが光った。切れ味の鋭そうな男の顔にしては、随分調子はずれな飾りだ。
何もかもが矛盾している。見ているこちらの心は乱されるのに、彼自身は何も感じていないような。
男は、そのすべてが当然のことのように口を開いた。
「コーヒー、淹れたてだよ」
アルノは唖然とした。圧倒的な存在感と空虚を内包した男が、言語を用いるなんて! 言葉の通り、男の手元にはもう一つコーヒーカップが置かれている。湯気が立つ様子から、男の言葉が嘘ではないのは察しがついた。カップを恐る恐る引き寄せれば、作り物のような顔の彼が、氷に最も正しく線を引くような動きでほんのわずかに微笑んだ。
「もう少しちゃんと見てくれたら、僕の名前もわかるだろうね」
「え?」
男がこちらに身を乗り出す。後ずさりしたって限界だ。がらんどうのキッチンの壁に阻まれて、眼前に迫る男を見上げることしか出来ない。自分の顔が強張っているのはわかる。それでもアルノは、彼から視線を逸らせなかった。
「……私、貴方に会ったこと、ありましたか?」
男は口を開かない。答えの代わりにアルノの正面に立ち、壁に手をついて顔を近づけてきた。彼はコローよりも背が高い。切れ長の赤い瞳に映るアルノの顔は酷く引きつっていたが、それと同じくらい、男の言葉の意味もわかった。
知らないはずの名前が、アルノの口から零れ落ちた。
「……クー・ドィ・フードゥル?」
「おめでとう。正解だ」
耳元で男がささやく。冷たい感覚が耳に走った。ピアスが耳をくすぐっていたようだ。クーは顔を上げると、慰め程度に目尻を下げた。
「大丈夫、怖がらなくていい。もう、君は死ねないんだから」
赤い瞳の色に吸い込まれませんようにと、アルノは願った。
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