2-6. 針を呼ぶ

「館長か。こんなところで何やってたんだ」


 そんなことを言いながら、コローはラッセル・カーターの亡骸のそばに立った。アルノも同じように隣に立って、ふと、亡骸の正面にある絵を見上げた。

 大きな絵だ。ただひたすらに赤が入り乱れる絵だ。黒く、赤く、青く。赤はうめき、悲鳴を上げる。

 それは、穏やかな美術館の中で違和感を覚える光景だ。しかし一方で、この展示室のすべてを支配するのもまた、この一枚の絵のように思えた。


「……あれ?」


 絵と向き合った時、妙な感覚がアルノの頭の内側をくすぐった。それはやけに鮮明で、唐突に表れる。もう少し。しかし脳裏を過ぎる何かに焦点は合わない。


「おい、ちゃんとしろ」


 コローの声と、視界の端から伸びてきた手が意識を遮った。コローの手には、白い糸。いつの間にか手を離していたらしい。それをもう一度掴んで先を辿れば、糸は建物の天井を貫いて伸びていく。


「まずは、針を呼んで糸を通す」

「針を呼ぶ?」


 またアルノは辺りを見渡した。昨日見たコローは、気付かぬうちに青い針を手にしていた。しかし今は何も持っていない。あの針はどこから出てきたのだろう。

 すると、コローは何かを思い出したようだ。多分、アルノがまだほぼ人間であるという事実を。彼は「ああ」とぼやけた諦めの声を出してから、続けた。


「大事なものを思い出せ。何でもいい。そりでも図鑑でも、何でもいいから」

「大事なもの?」


 軽くうなづくと、コローは手のひらを開いた。手本を見せるつもりらしい。しかし、手本にしてはあっさりしている。次の瞬間には、青く細い針がコローの手元に握られていたのだから。


「貴方は、何のことを考えて針を呼ぶんですか?」

「馬鹿なこと言ってねえで、早く呼べ」


 コローの舌打ちを合図に、アルノは慌てて自分の手のひらを見つめた。

 大事なもの、大事なもの。そう思う度、頭の中がどろどろと重くなる。


 汽車のボックス席。向かい合って座るレイアの顔。濃い茶色の髪と、おそろいの色をした瞳。お姉さんぶるくせにボタン付けはへたくそで、そそっかしくて小さな怪我だらけ。相手のことばっかり気にかける優しい幼馴染。アルノの秘密を知る唯一の人。

 彼女のシャツにつけてあげられなかったボタンは、どこにあるんだろう。もう、川に流されてしまったのか。アルノは恐る恐る外套のポケットに手を入れた。指先が、何かに触れた。


「これ……」


 幼馴染は言っていた。「光に当てると、虹みたいな色が見えるんだよ」と。だから大事に使いたいと言い訳して、何度もアルノにボタンをつけてと……。

 レイアが甘えてくるのは、ボタンのことぐらいだった。彼女に甘えていたのは自分で、その優しさにさいごまで応えられなかったのも自分だ。それでも今、小さなボタンはアルノの手の中にある。


「……レイア。ぼくだよ」


 その瞬間、手のひらの上に長い針が現れた。落とさないように急いで掴む。ボタンをポケットに仕舞ってから、青い針をじっと見る。裁縫道具の針とよく似た形。鏡に映る自分の瞳と同じ色。針は輝いていた。コローは隣で、機嫌が良さそうに舌を鳴らす。


「上出来だ。じゃあ、糸を通してみろ。針に括り付けたら出来上がりだ」


 普通の繕いよりもずっと簡単だ。針が大きければ糸を通す穴だって大きい。あっさり糸を通してみれば、コローが続ける。


「そしたら、こいつの死因目掛けて針を刺せ。魂はそこにある」

「死因?」

「よく見りゃわかる。見えなきゃ、見えるまで探すだけだ」


 だからアルノは、紳士の亡骸のそばにしゃがみ込んだ。

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