2-5. 糸を呼ぶ

 アルノたちはドーム型の屋根の内側にある職員用通路に着いた。室内は吹き抜けで、殺風景な手すりから下を覗けば展示室が見える。窓から陽が差し込むが、展示物には一切日光が当たっていない。


「見えるか、あそこだ。もう死んでる」


 眼下に広がる真っ白な展示室。大理石で出来た床がまぶしい。壁に飾られた絵はよく見えないものも多いが、荘厳な彫刻や抽象的な立体作品が、曖昧な輪郭の影を落としている。そこに、一人の紳士がうつぶせで倒れていた。まるで展示物の一つのように。


「ほら、糸探せ」


 コローに言われて、アルノは辺りを見渡す。昨日レイアの頭上に現れたような、白く細い糸を探してみる。しかし、それらしきものはどこにも見当たらない。


「どこ見てんだよ。糸は空から降りてくるんだぞ?」

「空……」

 

 その言葉を聞いて、アルノは窓の外に目をやった。

 青い空。嫌味なほどによく晴れた、品行方正な青い空。その青の中で、一本のか細い糸が揺れている。それは不安気な迷子のように風に揺れて、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

 咄嗟にアルノは、窓を開けて手を伸ばした。そうしろと言われたわけではないのに、それが自分の役割だと思った。隣のコローの声色に、わずかな感嘆が混じる。


「へえ。初めてでここまで持って来られるなら、上等だ」

「え?」

「あと少しだ、最後尾」


 言われるがまま、アルノは窓から手を伸ばして糸を引き寄せようとした。しかし、ふわふわと漂う糸はなかなかその手に収まらない。何度も腕を振ってみるが、あと少しのところですり抜けてしまう。


「ああ、もう。じれってえな」


 今度はコローが隣から手を伸ばす。すると、糸はあっさりとこちらに近づいて、火傷跡が残る左手に収まった。


「ほら、ラッセル・カーターの糸だ。ちゃんと持っててやれ。行くぞ」


 そのままコローは、廊下から飛び降りてしまう。眼下に見える展示室に、彼の薄茶色の外套が浮かび上がるように見えた。そうして彼がこちらを見上げた時、アルノは確かに青い視線に射抜かれた。

 呼ばれている。コローにではない。青の死神に、青の死神の役割に。


 アルノは息を止め目を閉じると、手にした糸を握りしめてその場から飛び降りた。もちろん、彼は死なない。

 鈍い衝撃の後で目を開けば、そこには目を丸くしたコローが立っている。尻もちをついたアルノを見下ろし、しばらく黙った後で、こちらに手を伸ばした。コローに手を引かれて立ち上がる。こんなことまで、彼の手を借りないといけないなんて。その気恥ずかしさから、アルノは自分がついさっきまで居た高さを見上げるふりをした。


「あんな所から落ちても、平気なんですね」

「まあ、外套も背広も着てるしなあ」

「これがあれば平気なんですか?」

「ああ、そうだな」

「貴方は郵便配達員の格好なのに」

「俺がどんだけ死神やってると思ってんだ。これぐらいの仕事なら、背広はいらない」


 貴方はどれだけの間死神なんですかと、アルノは聞こうとした。しかしコローは彼ではなく、ラッセル・カーターに視線を落とす。清潔な美術館の床。塵一つないその上に、白と灰色が混ざった髪と顎髭を蓄えた紳士が倒れている。茶色のジャケットの仕立ては良さそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る