2-4. 落ちる

 しばらく黙っていれば、マッカン美術館のドーム型の屋根が見えてきた。石畳の街においては時計台と並んで背が高く、象徴的な建造物だ。


「私、美術館に入るの初めてです」

「はあ? んなわけあるかよ」


 顔はよく見えないが、きっとコローは、しわくちゃの紙みたいな顔をしているに違いない。しかし、妙にきっぱりと言い放つその言葉に、アルノは幾分の疑問を覚えた。どうしてそんなにはっきりと。


「私、解剖図や図鑑はよく見ていましたが……。あんまり、美術には明るくなくて」

「ああ、そうだったな」


 美術館の屋根に降り立つと、コローはアルノを下ろしてから時計台に視線を送った。アルノもつられて見てみれば、間も無く、青い便箋に書かれた時間だ。コローは足早に屋根の上を進む。


「お前、何で医者なんかやってた。人間の命を救いたかったのか?」

「怪我を治すのが得意だったのと、人体に興味があったので。でも、人を死なせないためというのとは、少し違うかもしれません」

「と言うと?」

「人が死ぬのは避けられないことです。だから、それを無理して延命したり不老不死を願うのはおかしいですよね」


 コローの後ろ姿を追いながら、アルノは彼が今まで繕って来た魂の数を考えた。けれど当然、そんなことわかるわけもない。彼がどれくらいの時間をこの役割に費やしてきたのかさえ、アルノはまだ知らない。

 昨日、レイアに言えなかったことを思い出す。


 ──救えなかったから落ち込んでるんじゃないよ。

 ──じゃあ、どうして?


「私は、少しでも多くの人に、その人に似合う最期を迎えてほしいんです。それだけです」

「……それは、昨日も?」

「はい。あんな死に方、おかしいです」

「俺はああいう風には死なないから、よくわかんねえな。そういうの」


 コローの横顔は、興味があるのかないのかわからなかった。まるでどこかに落として来た答えを探すように、彼はしばらく黙っている。そうしてそのまま屋根の縁に足をかけると、コローは外套の襟に顎をうずめて石畳の街を眺めた。


「でも、おかしいことなんざ腐るほどある」


 彼は屋根から飛び降りた。


「コロー!」


 アルノは思わず大声を上げた。「死なない」と、ついさっき言ったばかりだというのに。その影に足がすくみ、アルノは慌てて地上を覗き込む。当然、そこにはなんの惨劇も見当たらない。

 ただ、窓から顔を出したコローが、不思議そうにこちらを見上げていた。


「おい、早くしろよ」

「あの、私にも出来るんですか?」

「は?」

「だって、落ちたら」


 するとコローは、アルノの言わんとするところを自分なりに解釈したらしい。


「ああ、さすがに頭が取れたら修理しなきゃならねえな。申請の仕方は教えてやる。泥みてえにしつこいぞ」


 建物に入ってしまうコローの影と、足元に広がると石畳の街を見比べる。足を一歩建物から出せば、風が吹き上げて、アルノの前髪を揺らした。


 往々にして人は、高いところが怖いのは「目の前に広がる景色のせい」だと言う。しかし、実際落ちたら死ねそうな高さに来てみれば、景色は理由の一つでしかないことがわかる。

 アルノは、足を一歩前に踏み出すのを躊躇った。景色のせいではない。風のせいだ。地べたから吹き上げる風。上空から吹きすさぶ風。そのすべてがない交ぜになって、アルノの髪を、外套を、決意を揺らしている。

 怖い。落ちれば死ぬ高さだ。


「背広も外套も着てりゃあ平気だ。飛べ」


 コローの声がする。目の前の光景に意識を引き戻すと、アルノはもう一歩を踏み出した。


 落ちる。


 けれど、地面は遠かった。窓に手を伸ばせば、こちらを覗き込むコローが苦笑いを浮かべていた。そのまま、アルノは室内に引きずり込まれる。


「色々言い忘れてた。まだお前、人間みたいなモンだもんな」

「ええ、まあ……」

「人間って、何が得意なんだ?」

「“死ぬのは怖い”って考えること」

「そりゃすげえな」


 ちっともそんなこと思っていないような口ぶりで、コローは歩き出す。

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