2-3. 空を駆ける
キッチンを出て廊下を少し進めば、濃紺のドアが一つ見えた。その向こうにあるのがクリーニング屋の店舗だ。カウンターと小さな椅子、通りに面した窓。隣の作業場には何台かの洗濯機と大きなアイロン台。
「お前が使え」
「私が?」
「服の流れは世の中の流れだ」
「でも」
アルノの戸惑いなど気にする様子もない。コローは店の正面玄関に向かうと、ドアに挟まれている新聞を拾い上げた。青い瞳が一面を撫でるように動いて、前から知っていたような口振りでこちらを向いた。
「お前の記事が出てる」
そうやって手渡された新聞の一面には、堂々たる大きな文字が鎮座していた。
――史上最悪の汽車事故、フィン橋崩落で四十三名が死亡
死亡者一覧をなぞる。アルノの名前が載っている。当然、レイアの名前も。
「新聞の一面に名前が載るなんて滅多にねえだろ。多少は喜べ」
「……どうせなら、もっと誇らしい記事がよかったです」
「そうか」
コローはアルノの手から新聞を奪うと、それをクリーニング屋のレジカウンターに放り投げた。もう興味はないといった様子だ。がらんとした人気のない店内に、一度だけコローは息をついてから口を開いた。
「ここに戻って来るまで外套脱ぐなよ。人間に気づかれるから」
「わ、わかりました」
「それにお前、まだ弱そうだしな」
青い郵便配達員の制服の上から、コローも薄茶色の外套を羽織る。だからアルノも真似をして、彼の背中を追った。
一歩外へ出れば、そこは見慣れた石畳の街だ。いつもと変わらぬ光景。石畳の上を人々が歩き、夜を待つ街灯は黙って立ち尽くし、家々が並んでいる。しかし、アルノの視界からコローは消えてしまった。
「ああ、悪い。忘れてた。とりあえず飛べ」
声のする方を見上げれば、二階建ての屋根の上からコローがこちらを覗いている。
「と、飛べって?」
「いいから飛べ!」
「あ、はい!」
言われるがまま、助走を付けて飛び上がる。なんとか屋根に手が届き、必死で登ろうとすればコローに引き上げられた。
そうして初めて屋根の上に立った時、アルノは目の前の光景に目を奪われた。
どこまでも続く石畳の街。遠くに見える時計台、連なる橙色をした民家の屋根、通りを歩く人。窓越しに見るのとは違う。そこには風が吹いていた。見上げれば、いつもより空が近い。手を伸ばせば届きそうだ。
「おい、行くぞ」
コローは一言だけ言うと、今度は屋根の上を駆け出した。橙色の瓦なんて気にする様子もなく、屋根から屋根へと飛び移る。その度に、外套の裾が躍るように翻る。
アルノも慌てて後を追った。足がもつれないように、必死で屋根の上でじたばたもがく。でも、追いつけそうにない。
「もたもたすんな! 遅れちまうだろうが!」
「人間は普通、こんなところ走らないんですよ!」
走りながら叫べば、コローが急に立ち止まり、こちらに向かって駆けてきた。青い風のようになめらかな動きだが、屋根を蹴る足音は確かに聞こえる。
「えっ?」
「めんどくせえ、じっとしてろ」
コローはいきなりアルノを横抱きにすると、また同じように走り始める。「ちょっと」と声をかけても、ただ前だけを見て。
「あの、こんなの、恥ずかしいです。子どもみたいで」
「顔が見えねえと気分悪りぃんだよ。黙って付き合え」
コローの薄い顎が見えた。骨に沿って伸びる皮は、たるむことが無い。風になびく頬の産毛を確かめると、アルノは死神の顔から視線を落とした。
興味本位で、そっとコローの左胸に耳を当ててみる。死神の心音は、人間のそれよりは控えめだ。身体能力が高い分、この程度の運動では心臓も騒がないのだろうか。暗闇に耳を潜めているような心地がした。その静寂に、コローの低い声が重なる。
「悪いが、俺だってお前みたいな奴に会うのは初めてだ。勝手がわからねぇのは大目に見てくれ」
「私みたいって、どういう意味ですか?」」
「人間から死神になる奴。逆なら……」
そこまで言うと、コローは一度舌打ちをして黙り込んだ。眉間に寄る皺の深さに、アルノは続けるべき言葉が見当たらない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。