第2章 お似合いのさいご

2-1. 弱い男

 昨日のことを、アルノはよく覚えていない。全部、悪い夢の欠片みたいだ。口の中にざらざらと残って、ちっとも消えてくれない。

 目が覚めた時の静寂は、疲れ切った体を押さえつけるように重たい。アルノの周りには、孤児院の仲間も病院の同僚もいない。あまりにも静かなものだから、世界で生き残ったのは自分だけなのかと、酷く混乱しながらアルノは目覚めた。

 沈黙を押しのけて体を起こせば、ベッドのサイドテーブルに白い紙片が置かれていた。流れるような筆記体は、青いインクでこう告げる。


『アルノ・ブルーへ

 目が覚めたら支度して降りて来い。 コロー・グレー』


 隣には青い便箋。こちらは、タイピングされた文字が一行だけ。


 ──15時21分、ラッセル・カーター、マッカン美術館


 懐かしい響きだ。美術館は、アルノが人生のほとんどを過ごした場所と同じ名前を冠していた。孤児院の、質素だが暖かな景色が脳裏を過ぎる。暖かさは共に暮らす人たちから溢れていた。もちろん、レイアからも。


 ここは自分の故郷、石畳の街なのだろうか。アルノは眠気と疲労感を振り払いながらベッドから出て、辺りを見渡した。

 珈琲色をした木床の部屋には、ベッドとデスクとクローゼット。今はサイドテーブルの上のランプだけがついていて、天井には照明が一つ。天井と壁は、同じ薄い青色をしている。

 窓は壁の上の方に一つあり、ベッドに立って覗けば見覚えのある景色が広がる。石畳の街。どうやら、予想は当たったらしい。部屋が二階にあるおかげで、道行く人の頭が点々と動くのがわかる。

 時計台の鐘が鳴る。いつもと何も変わらない。自分が居なくても、レイアが居なくても。世界は変わらない。そう呟くように。


 クローゼットには、紺色の背広と薄茶色の外套、数本のネクタイと白シャツが几帳面に並んでいた。前開き扉の内側に備え付けられた小さな鏡を覗くと、見飽きた一人の男が寝ぼけ眼でこちらを見ている。

 干し草みたいな金色の髪が、ぼさぼさと分け目なく頭を覆う。瞳の色は生まれつきのはずだ。いつから死神の色を帯びたのだろう。薄い瞼を擦れば、二重が更に深くなり鬱陶しい。

 昨日散々コローの顔を見てきたアルノには、自分は目ばかりがやけに悪目立ちしているように思えた。顎も口も鼻も小さいせいだ。猛禽類の前に平伏す鼠か蛙か。レイアがいつまでも自分を弟分扱いしていたのもわかる。この男は、弱そうだ。

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