1-4. 青く繕う
これは罰なのか? それとも、救済? アルノには答えがわからない。だが確かに、男の青い針はレイアの胸を貫いた。
男は同じ動作を繰り返す。空に繋がる糸はレイアの体へ吸い込まれ、背から出た針がまた胸を刺す。まるで繕いをするかのように、何度も何度も。
男の横顔は崩れない。自分の行為に迷いも躊躇いもないのだろう。儀式のように丁寧に、その動きは静かに続いた。男が糸を切るまで、何度も。
目の前の景色を、アルノはただ見ているだけだ。薄茶色の背中に飛び掛かり、男の頭を引っ張れば、この行為を止められたかもしれないのに。
「貴方……、何して……」
冷え切った喉が強張る。足元がふらつき、アルノは膝から地べたに座り込む。
口に出すのが怖かった。怖かったのに、唇は震え喉が空気を求めた。これでも医者のはしくれだ。青ざめたレイアの顔を見れば、ほんのわずかな希望も
男から答えは返って来ない。その代わりに男は、空を見上げた。
「おい、見えるか?」
声に導かれて、男の視線をなぞる。糸は静かに空へと昇り、レイアの体から白い気配を引きずり出す。
「あれが、レイア・ハドソンの魂だ」
白い気配は、次第に遠くへ消えていく。元々、空のものだったかのように。別れも言わず、音もなく。
「綺麗に繕えたな」
男は満足気だった。しかし、何もかも諦めているようにも聞こえた。それがふと、地べたに座り込んだままのアルノの方を向く。
「お前、名前は?」
「……アルノです。アルノ・オーメロッド」
「だろうな」
何の興味もなさそうな口調の割に、男は幾分、口元を和らげた。不機嫌に見える表情のせいか、些細な表情の軟化がわかりやすい。
しかし、それを隠すように雑に自分の頭を掻くと、男はアルノに向かって、自分が羽織っていた外套を投げつけた。ずぶ濡れのままで、アルノは幾分大きなそれを肩に引っ掛ける。それだけでも暖かく感じたのは、外套がちっとも濡れていないせいだった。
おかしい。おかしなことばかりだ。
「……貴方は一体、誰ですか?」
「ああ、そうか」
こちらに歩いてきた男は、アルノの前にしゃがみ込んで真っ直ぐな視線を向けた。灰色がかった青い瞳に映るアルノは、死に際の羽虫みたいに弱々しい。青の視線で射抜かれた昆虫標本。水底で身動きが取れない、数分前と大して変わらない。
すると、男は左の手のひらを広げて見せる。火傷の痕だろうか、蛇が巻き付くような色素沈着が彼の手のひらや手首を這い、背広の袖の中に消えていく。だが、男が見せたかったのはそんなものではなかったらしい。
「これでわかるか?」
男は、何の躊躇いもなく針で手のひらを貫いた。勢いよく針を引き抜けば、左手から血が溢れ出す。
アルノは思わず息を飲む。出血のせいではない。ただ、目の前の出来事が信じられない。揺れるアルノの瞳に、男は驚愕以上のものを読み取ったらしい。満足気に、今度は何もかも受け入れたような響きで言った。
「これで、わかるな」
アルノには見える。男から流れる血の色は青い。
瞳と同じ色が、灰色がかった薄い青が、男の手のひらを汚していく。それでも男は、痛みなど微塵も感じていないような表情でアルノを見つめている。
男の頬骨が動く。どこから来た高揚感なのか、唇は赤々と、しかし声は静かに響く。懐かしさを覚えそうなくらい、はっきりと男は言った。
「俺はコロー・グレー。青の死神の二番手だ」
手のひらに開いた穴は少しずつ小さくなり、元通りに戻っていく。流れ落ちる血だけが残り、仕立てのいいシャツの裾を青く汚す。
「ど……どういう意味ですか?」
「見たまんまの意味だよ」
「そんなの、私、知りません……」
「それなら、お前は?」
「……私?」
コローは何も言わずに顎をしゃくって視線を下げた。そこには血まみれのアルノの腹があって、今もその色を残している。
男の声は、これまでに聞いたどんな音よりも優しく響いた。
「お前が誰か、教えてくれるか?」
天国から冷たい手が伸びて、しきりにアルノの頬を撫でていた。
それは水底の流れなんかではなくて、川辺に吹き込む暖かな風の仕業でもなかった。
「……アルノです」
その一言を口にすれば、もう、元には戻れない。
しかしアルノには、戻る場所なんてなかった。
「……アルノ・ブルー。青の、死神です」
自分の腹に残る血は、緑を帯びた青い色をしていた。その景色が滲んでいく。
ここで、アルノの意識は途切れる。
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