1-2. レイア・ハドソン

 その日、男女の若い医者が電車に乗っていた。郊外の集落からの帰り道。空席ばかりが目立つ車内で、二人は四人掛けのボックス席に陣取った。もうすぐ、その電車が橋から真っ逆さまに落ちるなんて知らない頃の話だ。

 男はアルノ・オーメロッド、女はレイア・ハドソン。どちらもありきたりな名前だけれど、今となっては由来を確かめるすべもない。


 アルノは重たい心と一緒に座席へ体を沈め、レイアと向かい合って窓の外を眺めていた。古くからの友人、きょうだいと言ってもおかしくない彼女。顎のあたりで切り揃えられた濃い茶色の髪、それと同じ色をした瞳が、自分の様子を窺っているのを感じながら。


「アルノ、また落ち込んでる?」


 郊外の集落にアルノたちが足を運ぶ機会は、月に一度の定期往診だけだ。しかし会う頻度が少なくても、アルノにとって彼らが自分の患者であることに変わりはない。


 ──先生、わたしが死ぬ時は丘のてっぺんまで担いで行ってください。せめて最期は草原が見たい。牧場暮らしの日々を思い出しながら、死にたいんです。

 

 そんな些細な願いを叶えてやれなかった患者の墓に、二人は祈りと花を捧げた。


「昨日の夜、お隣さんが帰る前の容体は安定してたんでしょ? 翌朝に死亡確認が出来ただけでも幸運だって思わなきゃ」

「……でも、ベッドの上が死に場所だなんてさ。あの人に似合わないよ」

「アルノって、いつもそればっかり」

「レイアだって、すぐお姉さんぶるじゃないか。おあいこだよ」

「だってお姉さんなのは事実だし」

「三ヶ月なんて誤差だよ。すぐに追いつく」


 自分たちの誕生日に意味はあるのだろうか。孤児院“フィン・マッカン・ホーム”に拾われた時に自己申告したそうだが、五歳の子どもの言うことがすべて正しいとは限らない。

 アルノは、ポケットに入れてあるレイアのシャツのボタンを思い出す。さっき裾をどこかにぶつけて取れてしまった、白いボタンだ。


「それじゃあ、晴れて二十歳になったばかりのお姉さん。シャツのボタンは自分でつけないの?」

「あたしはアルノにつけてほしいんだってば。願掛け」

「何だよ、それ」

「アルノみたいに、人の怪我を上手に治せるようになりたいって」


 そう言うなり、レイアは片方の頬をアルノに差し出した。帰りがけに木の枝に引っ掛けて出来た細い傷が、薄っすら残っている。黙ってにこにこしているレイアを見たら、アルノの毒気は抜けてしまった。レイアの白い頬に手を重ね、温めるように包み込む。数秒数えて手を離せば、傷は跡形もなく消えている。


「アルノ、元気になった?」

「……ありがとう。レイアも、痛みはないね?」

「もちろん! アルノが治してくれたんだから」


 彼女はいつもそうだ。気を落とした弟分を元気づけようとする。十五年前、“大厄災の日”に何もかもを失い、孤児院に連れて来られた時からずっと。二人とも、もう子どもではないのに。

 電車は、谷の間を流れる川をまたぐ橋にさしかかっていた。レイアは諭すように、自分に言い聞かせるような口ぶりで言った。


「ねえ、アルノ。すべての人を救うなんて、人間には無理だよ」

「救えなかったから落ち込んでるんじゃないよ」

「じゃあ、どうして?」


 その時だ。


 金属同士がこすれ合う騒音。急ブレーキの音。電車全体が大きく揺れたと思えば、世界が傾いた。

 大きな子どもが積み木を放り投げるように、橋から電車が落ちていく。


「アルノ、つかまって!」


 アルノが聞いた最期の声。もう姿は見えない。手は届かない。


 あんなにそばにいたのに。

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