青く繕う
矢向 亜紀
第一部
第1章 水底
1-1. 不帰の先
天国から冷たい手が伸びて、しきりに青年の頬を撫でていた。彼は意識を取り戻し、
いや、もしかしたらここは地獄なのかもしれない。地獄とは、どんなところだろう。
せめてそれを確かめたくて、彼は目を開く。眼前に広がるのは天国でも地獄でもない。
川の中でうつ伏せに気絶したまま、青年は長いこと経ったらしい。ふやけた指先の皮膚を眺めながら、彼の頭に疑問符が浮かぶ。こんなになるまで水の中にいたとして、どうして意識があるのだろう? なぜこの体は、浮かぶことなく沈んでいる? 疑問符は止まない。
二つ目の答えはすぐにわかった。青年は、やけに動きにくい身をよじってちらりと背中の方を見やる。先の尖った金属片が、きらきら輝く水面へ向かって伸びている。橋の残骸か、電車の一部か。彼の身の丈ほどあるそれに、背中から水底へ向かって串刺しにされていた。まるで昆虫標本だ。
誰かが金属片を見つければ、自分も引き上げられるだろう。青年はそう算段し、安堵のため息をつこうとして思い出す。ここは水中だ。
青年の疑問は、一つ目へ戻って立ち止まる。なぜ、こんな状態で意識がある? それに。
いくら怪我の治りが早いからと言って、腹を刺されたままで痛みを感じないなんて。
すると、不意に体が持ち上がった。金属片から体は抜けない。人体を射抜くほど重たい金属片と、青年の体。それがたった一人の小脇に抱えられているようだ。彼の目の端に見えたのは、茶色い革靴と紺色のスラックスの裾。それが、まるで石畳の街を歩いているような足取りで水中を進む。捜索隊とは思えない。
やがて石だらけの岸辺に辿り着き、青年の体は川から引きずり出される。その拍子に何度か咳をすると、腹を貫く金属が一緒になってずるずる揺れた。石に当たって、カンカンと調子外れな音が鳴る。体の内側を前後に擦られて、邪魔で邪魔で仕方がない。
「ああ、それか」
低い声がして、腹の皮膚が内側から背中の方に引っ張られる。金属片はそのまま放り投げられたのか、背後で石といがみ合って乾いた音を響かせた。
青年が安堵したのもつかの間。ぐるんと視界がひっくり返った。急に明るくなった世界と、鮮明になる呼吸。川の上流に目をやれば、谷を繋ぐはずの橋が千切れ落ちている。電車の残骸をぶら下げて、ぐらりぐらりと。
何が起きたのかわからない。彼女はどこにいるんだろう。青年は咄嗟に口を開く。
しかし、その喉は見知らぬ男の視線に射抜かれた。空を背負い、背を曲げてこちらを覗き込む長身の男。その瞳は、まるで曇天が陽光を想って青空を真似したような色だ。愁いを帯びた青とは裏腹に、目つきは鋭い。本人の意思とは無関係に、その猛禽類にも似た造形は自然とこちらの身を強張らせる。
次第に視界が開けて、青年は男の顔を確かめた。金色の髪は額を隠すほどの長さだろうが、今はそれを後ろに撫でつけている。やや面長な骨格、落ちくぼんだ眼光の上にある整った眉をひそめた表情。その意味は疑問? 混乱? しかしなぜか、頬の毛が逆立ちそうなほどの歓喜を隠しているようにも見える。一度だけ見せた、左の手の甲を顔の真ん中に当てた仕草のせいだろうか。
高い鼻と薄い割に立体的な唇が、彼の顔に影を落とす。そのせいか、男は青年よりも幾分年上に見えた。幾分。その年月を、青年は知らない。
紺色の背広に薄茶色の長い外套を羽織った男は、濡れた足元も気にせず立っている。彼女を探しに行くより先に、この男に礼を言った方がよさそうだ。青年は、もう一度ふやけた唇を動かそうとした。しかし、先に口を開いたのは男の方だ。
「よぉ、最後尾」
きっと癖なのだろう。男は口を片方だけ上げて、笑ったような顔をしていた。
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