第11話 独り立ちへ|先生の言葉

 先生の部屋で私たちは向かい合ったが、互いに何も言わなかった。

 私は俯いて先生の顔を見ることもできなかった。察するに、先ほどの厳しい形相は隠れていたが、もちろんこれまでより畏怖を感じずにはいられなかった。


「黙っていても始まらない。おまえは私に報告することがあるだろう」

 それでもしばらく黙っていた私だったが、その間に心の中ではこの三日間、どんな心で過ごしていたのか、何を考えていたかが蘇ってきて、またしても泣いた。

「探したんだぞ……。大切な面接の日だったのに、何があったのか」


 顔を上げた私は、先生の顔にいつものような厳しさがないことに気付いた。

 そのとき、今の老いと疲れが見える静かな顔は、私のせいでそうなってしまったものだとわかった。結局私は、自分のことしか見えず、事を起こせば何かが起こると思っていた。そのせいで、先生に思った以上の迷惑をかけてしまっていた。


 私は少しずつ話していった。広すぎる世界への恐れと小さすぎる自分の存在、わからない未来の姿、選ぶことができず人生の多くを決めてしまう仕事というもの、続いていくかもしれない孤独との戦い……。先生は一つ一つを黙って聞いてくれて、理解も示してくれた。


 静かに頷いた先生は理解を示してくれたようだった。

「こんなことをする前に話せばよかったものを……悩んでいることには気付いていたが」

「気付いていらしたのですか。ではなぜ……」

 なぜ声をかけてくれなかったのか……そう言おうとして、やめた。先生はそれには答えなるはずがない、愚問だった。


 しばしの沈黙の後、先生は話を始めた。

「昔のことだが……。私の知り合い、私と同じ年のものに、おまえとまったくおなじことをしたものがいた。就職のときに逃げ出してしまった。田舎から都会への就職は集団でするのが普通で、それに乗り遅れると田舎で生きることになった。都会での生活に気持ちが昂ぶっていたとは思うが、同時に恐怖心が強かったのだろう。それに田舎の生活も嫌いではなかった。離れていくのが不安だった。結局、集団就職の列車が出るとき、彼は駅ではなく河原にいて水面に石を投げていた。しかし彼はまだ迷っていた。ここで石を投げていることと列車に乗っていること、果たしてどちらが正しいのか、本当に悔いてはいないのかを考えていたが、わかりもしなかった。それがどういうことかわかっていなかったようだが、答えを出せないままに逃げた彼は愚かだった。なぜなら、選ぶこと、決意することの責任を放棄して逃げたつもりなのに、人生は止まってくれないからだ。逃げて辿りついたところは安息の地ではない。彼は田舎にいることもできなくなった。大きな約束や期待を裏切ったものは白い目で見られる。追い出されるようにどこかへ流れていった。苦労は想像以上で、いろいろなことをして暮らしたが、その後悔は記憶からは決して消えなかった。……まったく、おまえにとってこれ以上に人生を学ぶ人間はいないだろう」


 先生の話す人生の先人を想像すると、自然と呼吸が深くなった。その人の心情どころか顔つきまで目前に浮かんでくるようで、身に染みた。


「それで……その人はどうやって生きたのですか? それからの人生は」

 そう言うと、私は先生に睨まれた。

「この男の話はここまでだ。――逃げたところで、安息の地へは辿り着けない。それだけだ。この男がどうなったのかなどと聞くようでは、大切なことにはまったく気付いていないようだが、仕方ない。わからないのなら、これからもずっと悩んでいるといい。よく悩んでみなさい」


 それで先生は私に下がりなさいと言った。けれど、私はこの機会を逃したくないと、頑として動くまいとした。涙を流す人間がときどきする、弱い立場を利用した行動だった。先生は先生で動かない私を微動だにせず見ていた。互いに睨むようにして見つめ合っていた。


 そのまま数分互いに譲らなかったが、最後には私の根が勝った。先生は諦めて、私へ答えを与えてくれた。


「おまえに話すことはもちろんできる。だが私の言葉を聞いて生きていくとして、本当に役に立つのか考えてみなさい。ある人の体験をこれ以上聞いても何とも仕方ない。これはある男の、彼だけの人生なのだから。聞いたところで、それをおまえが真似して失敗したらどうする? いったい誰の責任なのか。まさかどこの誰とも知らない男のせいにはできないだろう。あるいは聞いたようにして成功したとする。そのままならそれでいいが、別の壁にぶつかったらまた私に、あるいは誰かに意見を求めるだろう。まるで今のおまえのように。困った末に自分で決断せずに助言を求めるのでは、いつまでも他人の言いなりだ。ひどいときには相手のいいようにされて操り人形にもなるだろう。それをわかった上でどうしても助言が欲しいのなら言わないでもないが……本当にいいのか? ずっと昔、おまえは苦しくても自立できる道を選んだ。それなのに、いまさらそんな選択をして自分の意志をなくしてしまうのか?」


 今度こそ話は終わった。



 その晩、私は布団の中で先生の言葉を何度か思い出した。やがて暗闇に一筋、光が見えたような気がした。光は決して温かくはなかったが、私の目にかかっていた暗いものを取り払った。


 私が光のなかに感じたものは判然とはしない。先生の言葉、自分で選択しなければならないというものは、厳しい響きが大きかった。一方で、私はこの日のためにずっと見守られていたのだと肌に感じた。厳しいことを言うようで、先生はずっと見ていてくれた。もしかしたら「距離を置いて教育する」ことを貫いた点では、他の子供よりずっと手をかけられていたのかもしれない。幼い日の決断のときから、先生は私に大事なことは言わないようにして、おそらく言いたいのを堪えて、私の旅立ちのためにすべきことを一人でさせようとしたのだろう。そういうことに全部、気付いたのだ。


 この夜から私はもう自立したようなものだった。完全な落ち着きなどはやってこなかったが、私は先生や先生に教えられたことが自分に味方してくれていると感じた。一人になっても、私は孤独になるわけではないのだ。

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