第10話 独り立ちへ|逃亡と帰還

 この夜のことは私の記憶の中に焼き付いていて、少しも風化することがない。


 闇に包まれた街、限られた街灯の光の中をどこへ行くともわからないまま走った。靴はすぐ生地にまで雨が染みてズブズブになったし、傘も布が剥がれてダメになったが、それでも私は走っていた。雨の夜、住宅街に誰かがいるわけもなく、私は孤独を余計に感じながら進んでいった。ずぶ濡れになった私は私をいったいどうするつもりなのかわっていなかった。どこまで行っても、自分がどこに行こうとしているのかわからなかった。


 それでも密かに逃亡先として期待していたのだろう、一人の級友の部屋の近くまで来ていた。高校の近くにあるそのアパートまで、二時間近く走りっぱなしでいた。灯りがついているのを見ると、私は少しばかり安堵した。同時に胸の締め付けがまた来たけれど、今度は重圧によるものではなく、泣き出してしまいそうになった心の乱れからだった。


 そのようにして一人暮らしの友人にかくまってもらった。就職組のことなど何も知らない、高校生に一室を借りてやれるほど裕福な家のものだった。私は雨の中を走ってきた疲れから彼のところで眠った。翌日も彼が学校へ行くのを送り、人目を避けてずっと部屋にいた。


 先生のところへ帰ってきたのは三日目のことで、友人が私のことをクラスで仄めかしたり、級友の訪問でその話が本当だとバレたためだった。だが、この告げ口はありがたかった。袋小路にいた私には、走り出した瞬間から逃げたところで恐怖からは逃れることができない、自分がどこにも行けないことに気付いていた。ずっと友人の家の隅で恐怖していたくらいなのだから。


 自分の無力さ、小ささが思っていた以上のものであり、これまで感じていた恐怖が裏付けされたのだと思うしかなかった。私はすっかり怯えてしまった。

 しかし何より、こんなことをしでかした私に先生がどんな顔をしているか、それが恐ろしかった。私は先生を裏切ってしまった。これまでの日々のことも、これからの日々のことも。



 帰ったときも外は激しい雨だった。先生は玄関で腕組みで立って待っていた。おどおどしている私とはまた違う表情、沈んでいる様子が見て取れた。予想したような怒りに満ちた顔ではなく、憐れみと残念だという様子が見て取れた。

 先生は数歩進み、雨の中に出て私を迎えた。「こっちに来なさい」と静かな声で言った。私はその方へ歩いた。


 先生がそんな様子だったので、私は愚かにもどこかで甘えた言葉を期待していた。

 しかし先生からそんな言葉が出るわけもなかった。間合いが詰まったところで袖の下に腕を回され、私は一瞬のうちに投げ飛ばされた。雑草の合間に溜まった水が激しく飛沫を上げ、私の背中に激しい痛みが走った。


 投げられた私の前には先生の顔があった。目は見開き、歯を強く食いしばって息を大きく吐いていた。雨水は先生の顔をつたって流れてきて、先生と私の顔を濡らした。身体を起こした先生は「立て」と言った。私はしばらく腰が抜けたようになり立ち上がれなかった。何事が起こったのかわからず茫然としていた。


 やがて心と目頭に熱いものを感じ、涙が止まらなくなった。

「着替えて部屋に来なさい」

 私が起き上がるのをずっと待っていた先生は、そう言って中に入っていった。

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