第8話 科学と悪夢の融合

 金剛重工の社長、玉宇辰は死亡した。魂はこの世を離れ、抜け殻となった肉体は今もベッドに横たわっていた。しかし、動く死人となった肉体を仙丹という治療薬が無理やり活性化させたことでその体は特殊な状態にあった。魂はすでに肉体を離れているが生前の記憶が残り、死人であって死人ではない。天界や地獄の住人から見てもそれが何なのかを答えることは難しかった。

(苦シイ……痛イ……奴ガ……毒ヲ……入レタ……)

 あるのは怒りと恨みだった。

 生前の彼は温厚で、避難民を保護すべく努力を惜しまない道徳観を持っていた。

 しかしそれはもう玉ではない。地獄から漏れた憎悪の気に憑りつかれ、しかも部下に激痛を与えられて殺されたという記憶も残っていることで激しい苦痛と殺意に満たされていた。実際には痛覚は持っておらず、苦痛は幻覚であるのだが、そうと気付かなければ現実と変わらない。

 玉の死体は苦痛から逃れるためにどうすべきか必死に考えた。

 記憶の中にある周という警備隊長を殺したい。あの体を引き裂いて、頭を粉々に砕けばこの苦しみから解放される。彼はそんな気がした。

(苦シイ……苦シイ……殺ス……アレヲ殺ス……)

 しかし混乱した記憶の残差は自分を治療するための薬が必要だとも訴えた。周が語っていた軍用治療薬、仙丹。それが自分を苦しめる原因になった様な気もしたが、希少な治療薬を打てば自分は楽になれるという考えも生まれた。

(仙丹……ドコダ……周ガ……手ニ入レタ……?ドコニ……誰ガ……?)

 彼は早く仙丹を手に入れたいと思い、そして周を殺すためにもこの部屋から出たいと願った。そのためにはまず拘束具が邪魔だった。

 玉だったものは腕に力を入れた。老人の肉体だが、死人は怨念で体を動かす。それでも金属製の拘束具は分厚く、壊せるようなものではないし、解く事も出来なかった。彼が腕を見るとある発送が閃いた。

(指ガ……邪魔ダ……)

 親指さえなくなれば手の拘束から抜けられる気がした。

 だから彼は上体を必死に起こして自分の片手に口を近づけ、親指を噛みちぎった。

(痛イィィィ……)

 その激痛も幻覚だったが、彼は苦しみも何もかも周のせいだと信じた。

 親指が根元からなくなると片腕はいとも簡単に引き抜けた。もう片方の腕にも同じ処置を実行し、彼は8本の指で他の拘束具を取り外し、ベッドから降り立つことに成功した。

(……出ラレル……周ハ……ドコダ……薬ハ……ドコ……)

 彼は部屋から出ようとしたが、そこにも鍵がかかっていた。

 憎しみをさらに募らせて扉を叩き壊そうとしたが、その時、扉の外から足音が近づき、話し声も聞こえてきた。

「本当に仙丹で死人が死んだのか?」

「ああ、本当だ。俺もしっかり見た。玉社長は本当に死んでる。いや、もう死んでるんだが……どう表現したらいいかな」

「頭を潰さない限り動き続けるはずだが……」

「ともかく見てくれ」

 接近してくる足音と会話を死んだ脳が処理し、玉だったものは好機だと思った。

 黙っていれば誰かがこの扉を開けてくれる、と。

 彼にとってそれは紛れもない幸運であり、扉を開けようとする男たちにとっては人生最大の不幸だった。電子錠が解除され、扉が開かれる。2人の社員は銃で武装していたが、死人がどうなっていようとベッドから脱出しているはずがないと油断した。

 玉の死体が1人に飛び掛かり、首の肉を食いちぎった。

「ぐぅぅっ!」

「ひっ、う、わぁぁぁぁっ!」

 噛まれた男は出血で気道を塞がれ、数秒間もだえ苦しんだ後で死亡した。

 もう1人の男は一瞬体が固まり、慌てて銃の使用制限を解除した。通常なら暗号と生体認証をかけてあるが、その男はいざという時に暗号を入力するのが面倒と感じたため生体認証を感知する部位に指を触れるだけでよかった。銃は一瞬で使用可能となったがその顔を玉の死体が殴りつけ、指が一本欠けた老人の拳にはありえない威力がこもっていた。

 床にたたきつけられた男は口と鼻から血を吹き出した。

 その顔に向かって玉の足が振り下ろされ、顔を何度も踏まれる度に骨の折れる音と短い悲鳴が上がった。踏みつけが10回を越えた頃には男は何も言わなくなり、玉だったものは小さな満足感を得た。しかし幻の激痛がそれをすぐに塗りつぶす。

(苦シイ……痛イ……周ヲ……殺ス……薬ガ……欲シイ……)

 彼は混濁する意識と記憶を駆使してどこへ行けばいいかを考えた。

 すると自分が殺した男たちがゆっくり起き上がり、意味のない呻き声を発しながら動き始めた。

「うじゅるぅ……」

「るる……ぐるるる……」

(ナンダ……コレハ……?)

 自分が死んでいることも理解してない玉の死体は動く死者を見ながらさらに混乱したが、それらは攻撃してくるわけでもないので肩にかかっている武器に彼の意識が向いた。

(ココハ……危険ダ……コレハ銃……ドウヤッテ……ソウダ……)

 彼は死人から銃を奪い、それを持ったまま通路を歩くとエレベーターの前で止まった。

 その時、たまたまその階で降りようとしていた社員たちと鉢合わせになった。

「え……?」

「玉社長……?」

 青白い顔で銃を持った玉の姿を見た彼らは衝撃を受け、次に恐怖を感じた。

 その青ざめた顔を見て玉の死体に怒りが沸き起こった。

 ここまで怯えるのは彼らも周の裏切りに加担したからだ。そうに違いない。

 そう思った彼は憎悪を込めて銃の引き金を引いた。既に安全装置が解除されていたそれは引き金を引くだけでよく、一度も銃など打ったことのない彼でも容易に結果を出せた。

 数発の発砲音が生まれ、血しぶきがエレベーターの壁に飛び散る。

 玉の死体はまた小さな満足感を覚えたが、再び幻覚の痛みが襲い掛かった。

(痛イ……痛イ……モット……殺ソウ……)

 彼は人を殺した瞬間に痛みが和らぐことに気づき、手段と目的がすり替わった。

 エレベーターに乗って1階へ降りる最中、撃ち殺された死体がゆっくりと起き上がったが彼を攻撃することはない。それを無視して1階に降りると死人達が大きな唸り声を上げた。

「しゃあああああっ!」

「じゅるるるぅぅっ!」

 1階には発砲音を聞きつけた警備員たちが駆け付けていた。

 死人となった社員たちは彼らに反応したのだ。

「おい!死人だ!」

「あれ、社長じゃないか!?」

「部屋から出やがった!」

 警備員がすでに安全装置を解いた銃を向けるが、その前に玉だったものが銃を発射した。

「ぎゃああっ!」

「ぐげっ!」

「こいつ、銃を!?」

 銃で撃たれた兵士たちは次に玉が生み出した死人達に襲われる事になった。

 体に噛みつかれ、悲鳴を上げる男たちを見て彼は紛れもない殺戮の快感に包まれた。

「ハハハハ……イイゾ……」

 死人達がなぜ警備員を襲うのか彼はわからなかったが、今は楽しいので考えない事にした。

 応援に駆け付ける他の警備員にも銃を向け、人を射殺する快感が増してゆく彼の体にも反撃はされていた。銃弾が幾つか体にめり込んだが、元より死人である彼を殺すことはできない。

「フハハハ……ハ?」

 彼は銃から弾が出てこなくなった事に気づいた。

 弾切れである。だが、問題はなかった。使用制限も安全装置も解除されていた銃を死んだ警備員たちから奪えるのだ。さらに生まれた死人達も生者に襲い掛かり、治療棟は地獄絵図と化した。

 地獄の主は治療棟を出るとどちらへ足を向けるべきかを考えた。

「周……」

 彼の脳はやはり周という裏切者を殺したい欲求から逃れられなかった。

「ドコダ……周……オイ、オ前……」

 彼は治療棟から出て逃げようとしていた社員の背中を踏んで言った。

 背中を撃たれたその男は血だまりの中で狂ったように悲鳴を上げる。

「た、助けてくれええええっ!」

「周ハ……ドコニイル……」

 銃を向けられた男は血を失い、白くなった顔を苦痛で歪ませた。

「ひいいいっ!ぎ、玉社長……」

「言エ……早ク……」 

「わ、わかった……言うから……助けて……」

 意識が消えかけた男は血を吐きながら彼が知りたい情報を語った。

「助け……たす……け……」

「裏切者ハ……許サナイ……」

 彼が引き金を引くと死にかけた男の体が小さく跳ねた。

 男の目から光が消え、本来なら二度と動かないはずだったがやがて動く死人となって立ち上がった。その一体も地獄を広げるために殺戮に参加していく。

 玉だったものは目的地に向けて走り出した。老人にはありえない動きで。

「回収班をすぐに帰還させろ!」

 周は無線で連絡を聞きながら怒鳴っていた。

「死人がいる区域を包囲して一体も外に出すな!」

 彼はそう叫んでから血管の浮いた顔をゆがめた。

「治療棟は厳重に警備しろとあれだけ言ったはずだ……」

 彼には大きな焦りと小さな後悔があった。

 死人を研究するという試みはやはり危険すぎたのではないか。もっと施設と警備を強化してから着手すべきだったのでは。

 そう思い始めたが、すぐに自分でそれを打ち消す。

「死人の解明は絶対に必要だ……何も間違ってはいない……全て人類のため……」

 必死に自己弁護をしている周の耳に数発の銃声が届いた。

 今までも聞こえていたが一段と距離が近かった。

「隊長!」

 無線から恐怖に満ちた部下の声が聞こえた。

「どうした!?この近くまで来たのか!?」

「銃を持っています!死人……いえ、あれは玉社長です!」

 けたたましい銃声と共に忌まわしい男の名が告げられた。

 彼は瞬時に仙丹の実験をした事を思い出す。

「死んでいなかった……?しかし拘束は続けて……」

「あんなに早く動くわけ……お、応援を頼みます!応援を……ぎゃああああっ!」

 無線の向こうから部下の悲鳴が上がり、応答が途絶えた。

 彼が応援を呼ぼうとする前に扉が蹴り開けられ、蠟のように白い顔の老人が入ってくると彼は自分の目を疑った。

「玉……社長……」

 自分は悪夢を見ているのだと彼は信じたかった。

 狂気の笑みを浮かべた死人が銃を構えたまま近づいてくる。そんな事はありえないと。

「周……探シタゾ……」

「な、なぜ……い、生きている……?」

 彼が殺した男は死んでいない。だが、どう見ても死んでいる。

 相反する答えに挟まれ、彼はとっさに自分の机の上に置いた銃の存在を思い出す。

 それに手を伸ばすより早く玉は彼に銃弾を発射した。セミオートで打ち出された小さな金属は初速をほとんど失わずに周の胸を貫いた。

「ぎゃああああっ!」

「ハハハハ……ヒヒヒ……」

 玉の死体はこれ以上楽しいものはないという顔で笑った。

「ひいいいっ!だ、誰かあああっ!」

 机に這いつくばり、周は無線に向かって叫んだ。

「ソウダ……私モ……ソウ言ッタ……」

 注射を打たれる直前の自分を思い出し、玉の中で恐怖がわずかに蘇った。

 彼は銃弾をさらに数発使って周の足を撃ち、さらなる快感を求めた。

「やめろおおおっ!」

「楽シイ……苦シク……ナイ……痛ク……ナィィ……」

 彼は麻薬にも似た殺戮の快感に酔いしれ、別の事を考える余裕ができた。

 自分には周を殺す以外にも目的があった気がする。それはなんだったかを考えていると周が懐から小さな箱を取り出して注射器を自分に打とうとしていた。もしもにそなえて所持しておいた仙丹である。

「う、ううううっ……」

「オオ……ソレダ……」

 周が自分に使おうとしていた仙丹を取り上げると彼は自分に向けて打った。

 殺戮のような快感はやってこなかったが、しばらくすると全身に奇妙な力が生まれた気がした。今まで寒気を感じていた体にも熱が通るような感覚が走った。

「フハ……フヒヒヒ……モット欲シイ……」 

「う、ぁ、ぁぁぁぁ……誰か、助け……て……」

 出血死寸前の周がかすれた声を漏らし、彼はそれを見下ろしたまま言った。

「仙丹……モット……出セ……」

「ひぃぃ……仙丹なら渡す……だから……助け……」

「早クシロ……」

 周はそう言われて仙丹の保管場所を思い出そうとしたが、頭が上手く働かず、文字通り必死に記憶から引っ張り出そうとした。 

「あれは……ほ、法務部の金庫に……保管してる……」

「法務部ノ……」

 死んだ脳が考え、その記憶を引き出した。

「ソウカ……」

 銃口が周の頭に突き付けられた。

「あ、あぁぁぁ……本当だ……嘘じゃない……」

「裏切者ハ……殺スゥゥ……」

 彼は周が嘘を言ってると思ったのではない。

 初めから殺すつもりだった。それだけだ。

「待て!待てぇ!も、もう1つあるんだ!」

 周は死にたくない一心で玉の気が変わりそうな事を考えた。

 その結果が新しく保護した5人の情報だった。

「言エ……」

 彼の右足が血まみれの周の足を踏みつけ、絞り出すような悲鳴が上がった。

 それは一層の快感をもたらした。

「あああぁぁぁっ!い、言うぅぅ!だからぁぁぁぁっ!」

 周は保護した翠蘭たちも仙丹を所有していることを告げた。

 それを聞き終えた彼はその意味を考え、次に

「た、助け……たしゅけ……」

 赤子のように泣く周は救いを求めて手を伸ばした。

「駄目ダ……裏切者ハ……死ネ……」

 周の頭に銃弾を撃ち込まれ、その意識は冷たく黒い闇に飲み込まれた。

 そんな出来事が起きるより時間は少しさかのぼる。

 ロニたちがほとんど強制的に回収班に参加させられ、それを見送った翠蘭たちも暇になったわけではない。男二人の背負った労働義務を減らすべく、彼女たちも働けることはないかと申し出て重機部品の組み立てに参加していた。

「痛たたっ!もう!また指挟んじゃった!」

 美朱は慣れない手作業に失敗して何度目かの悲鳴を上げた。

 彼女は怪我人であるが、連まで「僕、頑張る!」と言って作業を手伝っているのに一人だけ寝ていられるほど肝は太くない。

「まるで原始時代に戻ったみたいね」

「え?ロニさんは産業革命って言ってましたけど……」

「どっちも似たようなものでしょ?」

「そうですか……?」

 大学生の大雑把すぎる考えに高校生の翠蘭は疑問を持った。

「翠蘭お姉ちゃん、さんぎょうかくめいって何?」

 小さな手で次に使う部品を持ってくれている連が聞いた。

「ええとね、私もそんなに詳しくないけど……」

 彼女が歴史の授業で受けた知識を頭から引き出した。

「まだ人間が手で仕事をしてた時代があったの。それが石炭燃料で機械を動かすようになって生活がすごく豊かになったんだって。たしかイギリスって国で起きたのかな?」

「あー、私も授業で習ったわ。そうそう。50年くらい前になくなったのよね」

 ちゃんと知ってますよと言わんばかりに美朱も補足した。

「ふーん」

「その時代と今、状況的にどっちが幸せかわからないわね。最低でもその頃は死人が動かなかったでしょうし」

「でも、病気や飢饉があって死者がたくさん出たそうですよ。黒死病っていう感染症だったかな?」

「へー、そんなのあったの。でも、死人に追われるよりずっと……あれ?病気と言えばさあ、悟空先生って病気にかかるのかしら?」

「え?」

「だって戦って怪我してたじゃない?天国の人でも怪我するなら病気にもなるんじゃないの?」

 美朱はすでに翠蘭から孫悟空の正体を聞き出しており、それをあっさり信じた。それどころか、きゃあきゃあと騒いでサインを貰おうとしたが色紙がないので断念した。

 そんな彼女の疑問に翠蘭は答えようがなかった。

「うーん、ならない気もしますけど……でも、地上に降りた時、体が変化したって言ってましたし……」

 上書きという悟空の言葉を彼女は思い出した。

 風邪でも引いたら人間の薬で治るのだろうか。今までは大丈夫と思い込もうとしていたが、急にあれこれと不安を抱いた。すると美朱は彼女が予想もしなかった事を口にした。

「悟空先生、人間と子供作れるのかしら?」

「……は?」

 彼女は何かの聞き間違いかと思った。

 だが、美朱は念を押すようにもう一度聞いた。

「子供よ。だって、気にならない?ほぼ人間と同じだし、子供できるのかなーって」

「え?さあ……どうなんでしょう……」

 話についていけない翠蘭は作業を行う手が止まり、なんとなく気まずくなった。

 小さな連の前でする話でもない気がするが、美朱は話を止めない。

「神様と人間が結婚したって昔話もあるじゃない?あとで、聞いてみようっと」

「ええっ!き、聞いてどうするんですか?別に美朱さんには関係ない事じゃ……」

 そう言いかけた時、彼女はふと考えた。

 まさか、と。

「美朱お姉ちゃん、孫悟空と結婚するの?」

 連が次の部品を渡して聞いた。

「ええ。その気満々よ。結婚したらお祝いしてくれる?」

「うん!」

 純粋な子供はにっこりと頷いた。

 ある意味、世界が地獄になってから翠蘭が最も衝撃を受けた事だった。

 何をどうしたら人外の存在を伴侶にしようと考えるのか。様々な恋愛観が受け入れられた2122年の今とはいえ、彼女にとって知り合いに山や湖と結婚したいと言われたような心地だった。

「あれ?じゃあ、翠蘭はその気がないの?」

「私……ですか?その気も何も……」

 仏神の一種である男にそんな感情を持っても仕方ない。

 彼女はそう思っていた。

「えー、死人に襲われる直前で救ってもらったんでしょう?まさに英雄じゃない。ぐさっと来るものでしょう?」

「ぐさっと……?」

 眉を寄せて困惑する彼女に美朱もまた信じられない顔を見せる。

「あっ、ひょっとしてまだ恋したことがないの?」

「そ……れは……」

 あまりにも不躾な質問じゃないですかと彼女は言いかけたが、相手はその躊躇を肯定と取った。

「じゃあ、まだわからないわねー」

「……でも、美朱さんも恋をしてるわけじゃないんでは?その、孫さんに」

「私は付き合ってから恋を確かめる主義なの」

 彼女の返球はあっさり打ち返された。 

 そして美朱がにんまりと笑った。

「確認するけど、私が悟空先生とくっついてもいいわよね?」

「え?は、はあ……」

 そう言った時、彼女は悟空の言葉を思い出した。

 心配すんな!俺が守ってやる!翠蘭は父ちゃんに会いたいんだろ?

 そう言われた時、彼女は嬉しさのあまり涙が出そうになった。それは感謝なのか。美朱のいうところの恋やそれに似た何かなのか、彼女にはよくわからなかった。

「後で文句言わないでね?よーし。世界一の玉の輿、目指すわよー」

 競争相手がいなくなって機嫌がよくなった美朱に対して翠蘭は何かを言おうとしたが、その時、遠くから爆竹のような音が届いた。

「あれ?今の……」

「あなたも聞こえた?連はどう?」

「僕も聞こえた!」

「何でしょう?」

「訓練……じゃないわよね?」

 音を立てれば死人を集める危険がある。

 それを知っている彼女たちは困惑した。いいや、それが意味する1つの可能性が浮かんではいたが口にするのを控えた。それが現実になりそうだったから。

 しばらくして静寂が戻ったので二人はほっと胸をなでおろしたが再びの破裂音。今度は複数回。そして増え始めた。

「これって……」

「やばい感じね……」

「翠蘭お姉ちゃん……」

 連が彼女の手をぎゅっと握った。

「どうしましょう?玄関に鍵はかけてますけど……」

「く、車で逃げた方が良いんじゃない?」

「でも、どこに?私、まだ碌に運転できませんし……」

 二人が悩んでいると社宅の戸が激しく叩かれた。

 一瞬、死人かと3人は思ったが戸を叩いた主は焦った声で言った。

「敷地内で死人が出たと報告がありました!事態が落ち着くまで絶対に外に出ないでください!」

 彼女たちが何度か言葉を交わした警備員だった。

 それぞれが少し落ち着きを取り戻したが、代わりに疑問が沸き上がった。

「怖いですね……」

「でも、警備員も多いし、大丈夫じゃない?ああ、もう!こんな時に悟空先生もあいつも出ちゃってるなんて!」

「おじちゃんと孫悟空、帰ってこないの?」

「ど、どうなんでしょう?」

 翠蘭は安全と思っていた場所が早くも崩れ去り、あの2人をどれだけ頼りにしていたかを実感した。

「危なくなったら外に出ていった人たちも帰ってくる……でしょ?」

「でも、戻るのも時間がかかりますよ。それまでに……」

 彼女はその先を言えなかった。

 間に合わなかったら。その時はこの建物に籠城するしかない。2人は間違いなく助けに来てくれるだろうが、それまでに死人に気づかれたら。最悪の事態を考えてしまった彼女は慌ててその想像に蓋をするが、そこではっとした。

「駄目……」

 思わず声に漏れた。

 彼女はそれでは駄目だと思った。ロニにも美朱にも嫌な事から目を背けるなと言われたのにまたやってしまった。

「きっと大丈夫よ……でも、用心はしておきましょうか」

 美朱は個人輸送機の助けを借りて部屋を移動し、自分の荷物から彼女が見た事のあるものを取り出した。

「それって……」

「そう。ロニが持ってきたんでしょ?」

 それは突撃銃だった。

 ロニが兵士から回収し、外出前に2人へ渡したものだ。

「これが役に立つ時が来たわねー。来てほしくなかったけど」

 美朱は恐る恐る認証装置を操作し始めた。彼女がかつて言っていた生体認証なしの緊急解除法。ロニはこの場所に避難した兵士からそれを聞き出す事に成功していた。

 美朱の指がキーを叩くと電子音が鳴った。

「わっ、本当に解除されちゃった!これであとは引き金を引くだけ……よね?」

「美朱お姉ちゃん、それ使えるの?」

「だ、大丈夫よ!」

 美朱は小さな連の前で強がったが、銃を扱ったことがないのは明らかだった。

 私が持ちます。翠蘭はそう言いかけて躊躇した。

 負傷して個人輸送機の助けを借りる美朱よりも翠蘭の方が明らかに銃を持つべき状況である。しかし彼女の中にある不安と一種の甘えは他人に守られたいと思ってしまった。

 だが、迷う彼女の目の前で連が小さな両腕を上げた。

「僕が持つ!美朱お姉ちゃんは怪我してるもん!」

「まあ、嬉しいわ!でも、10年早いわね。ふふふ」

 美朱は笑ってお礼を言い、翠蘭は初めて自己の醜さで死にたくなった。

 自分は怪我人と小さな子供を危険にさらす人間だったのかと。

「私が使います!」

 彼女は自己嫌悪と戦いながら美朱に手を伸ばした。

「え?いいわよ。使ったことなんてないでしょ?」

「怪我人よりずっとマシです」

 固い決意を宿し、彼女はじっと美朱の目を見た。今も不安で胸はいっぱいで、それどころか手が震えている。それでも彼女はこれ以上自分に幻滅したくなかった。

 美朱はそれを感じ取ったのか真面目な顔になった。

「本気?」

「本気です」

「危ないわよ?」

「正直にいうとすごく怖いです。でも……」

 彼女は母親の最後を思い出して言った。

「お母さんみたいな大人になりたいんです」

「そう……じゃあ、私も正直に言うわね」

「え?」

「あなたの事、ただの赤ん坊だと思ってたの。でも、ちょっと見直したわ」

 美朱は突撃銃を渡し、大人の怪談を踏み出した彼女を祝った。

「うわ、けっこう軽いんですね……」

 彼女は突撃銃が想像していたほど重量がない事に驚いた。

 そっくりの玩具と言われても信じるかもしれないくらいだ。

「大昔じゃあるまいし、そんなものでしょ。あっ、引き金に指をかけちゃ駄目よ?」

「撃つ時だけ、ですよね?」

 ロニから言われたことを2人は思い出す。

 銃口を向けるのも引き金に指をかけるのも撃つ時だけ。その時が来たら迷わず絶対に撃て。ロニは2人にそう強く言った。

 彼は祖国の射撃場で少し習っただけと言ったが、2人とも何か事情があることを察していた。

「僕が持つのに!」

 連はまだあきらめずに頑張っていた。

 そんなやりとりをしている間に銃声は徐々に増え、彼女たちに近づいていた。

「近いですね……」

「さすがにやばいわね。流れ弾が怖いけど、車で逃げるべきでしょ?」

「わ、私もそう思います!」

 警備員には悪いと翠蘭は思ったが、逃げ場を失う方が危険と感じたので自分たちだけで脱出することにした。目的地は悟空たちが資源回収に向かった地区。悟空たちと連絡を取れず行き違いになる懸念はあるが、そこは賭けるしかなかった。

 社宅から出ると悲鳴と銃声がはっきりと近くに聞こえ、翠蘭は車を置いた場所まで突撃銃を持ったまま走った。美朱は個人輸送機に連を乗せてしまおうか迷ったが、請われる危険があるので並走させた。

 彼女たちが少し走って背後を振り返ると死人たちが唸り声をあげて人々を襲っているところがはっきりと見えた。

「あいつ、何が事態が収束するまでよ!ここ、崩壊するんじゃない?」

「どうでしょうね!連君、転ばないようにね!」

「うん!」

 3人は車が駐車された場所がすぐ近くであることに感謝し、そこまであっという間だと思った。

 だが、あと少しと言う所で服を赤く染めた死人が建物の影から飛び出してきた。

「あ、あぁ……」

「しゅるるるうぅぅぅっ」

 不気味な音を出す死人に彼女は突撃銃を向けた。

 撃たないなら向けるな。向けたなら必ず撃て。

 言われたことを実行するだけだが、翠蘭の指は急に固まった。

 当たり前の倫理観が人の形をしたものを撃つことを躊躇させ、その間に死人は彼女たちの方へ走り出した。

「撃ちなさい!」

 美朱の怒声が固まった指を動かした。

 半自動に設定されていた銃はダダダッと数発の弾丸を放ち、死人の胸部に食らいついてわずかに足を止めさせた。だが、頭を破壊しない限り死人は止まらない。再び走り出した死人に翠蘭は今度こそと顔に銃口を向けた。

「撃って!」

 また美朱が叫ぶ。

 撃つしかない。だが、血の気が引いた死人の顔を凝視することで彼女は指が震えた。役立たずの指を呪う一瞬の間に死人はさらに距離を詰め、彼女が死を意識した時、彼女の服を強く掴む連の掌を感じた。撃たなかったら彼はどうなるのか。それを考えた瞬間、彼女の指が動いた。

 数発の弾丸は死人の頭蓋骨を破壊し、脳を外へまき散らした。

「行くわよ!」

「は、はい!」

 彼女は人を撃った衝撃に浸る間もなく走り、無事、3人は車の元へたどり着いた。

 運転手の席に座るとロニに教わった通りにエンジンを起動し、レバーとペダルを操作すると車が前に進み始めた。

「わっ、動いた!」

「当たり前でしょ!ほら、行きなさい!」

「翠蘭お姉ちゃん、がんばって!」

「い、行きまーす!」

 どこか頓狂な掛け声を出し、翠蘭は車を加速させた。

 走る車の外からは相変わらず銃声が続いており、悲鳴も増す一方だった。どう考えても金剛重工は避難所として崩壊しつつあると彼女は確信する。

 脱出すべく車をさらに加速させたが、固く閉じられた門が彼女たちの前に立ちふさがった。金剛重工に来た際にはそこは開いており、普段は無線操作で開けられることを2人は知らなかった。

「ど、どうしましょう!」

「体当たりで開ける……のはたぶん無理よね。裏門から行く?」

 美朱の言葉には無事にそこまでたどり着けるか。そこは開いているのかという不安が詰まっていた。だが、他に道はない。翠蘭がミラーを見ながらハンドルを操作しようとした時、彼女の手を美朱が止めた。

「来たわー!」

 その声には十分すぎるほど歓喜の感情があっていたので彼女は意味を誤解しなかった。

 門の格子から見える車道の彼方から悟空が走ってくる。門を軽々と飛び越えた彼が血まみれである事に二人は驚いた。

「おお!お前ら、大丈夫か?」

「そっちこそ!」

「大丈夫なんですか!」

 悟空よりも二人の方が辛そうな声を上げた。

「平気だ」

 そう見てもそんな風に見えないが、今は2人とも追求できる状況ではなかった。

「門が開かないんです!」

「なんとかなるかしら!」

「これか?開けりゃいいんだろ」

 悟空は門の太い格子を掴むと大きく息を吸った。

「うりゃっ!」

 その声と同時に100キロを軽く超えそうな金属の門が開き始めた。

「さっすが孫悟空先生ー!もう素敵すぎー!一生ついていくわー!」

「すごーい!」

 2人が囃すのを聞きながら翠蘭は改めて孫悟空の神秘性を感じた。

「すごい……」

 彼女もつぶやきを漏らした数秒後、悟空は力づくで門を開けて車が通れるようにした。

「で、これからどうするんだ?おっと……」

 悟空は車に乗ろうとした際、少しよろけた。

 まるで眩暈を感じたように苦しむ表情を一瞬見せ、そんな様子を今まで見たことがない翠蘭は急速に不安が膨らむのを感じた。

「大丈夫、悟空先生なの!?」

「大丈夫?」

「平気平気」

 美朱たちが先に訊き、悟空は顔をいつもの明るいものに戻して言った。

 それでも翠蘭は不安が止まらなかった。

「ロニがもうすぐ車ってやつで戻ってくるぞ。なあ、これからどうするんだ?」

「え?」

「俺は死人を片付けて来ようと思ってるけど、その間はお前らが危なくなっちまうだろ?どうする?」

「ええと……」

 翠蘭は少し迷った。

 悟空がいつもの様子なら金剛重工にあふれた死人を一掃してもらおうと思っただろう。だが、今の悟空はとう見ても元気には見えない。怪我の程度はわからないが、軽傷でないことは確かだ。

 翠蘭が悩んでいると美朱が言った。

「悟空先生はもう休んでて。ロニはもうすぐ帰ってくるんでしょう?じゃあ、すぐ翠蘭のお父さんのところへ向かうわ。そうでしょ?」

 声は明るかったが、目は反論を許さないと翠蘭に言っている。

 悟空の体調を案じているのは間違いなかった。

「は、はい!」

 彼女は美朱に流されたわけではなかった。今まではそうだったが、命を守るために銃を撃ったことで少し自立した彼女は本気で悟空に死んでほしくないと思った。これ以上、孫悟空を利用し続けるのは間違っている。たとえ金剛重工にいる人々が大勢死ぬとしても、彼らに恨まれるとしても彼女は悟空に休んでほしかった。

「えー、俺なら平気だって」

「駄目です。連君、救急箱を取って。美朱さん、孫さんの怪我を診てもらえます?」

 翠蘭は初めて自分より上位の者に激しく反対した。

 両親にもそんな事はした事がなかったが、今はなぜかその勇気が出た。金剛重工から車をやや離し、死人が来ていないかにも注意を払う姿はまるで悟空の保護者になったようだ。

「はいはーい!連君、そこの鞄に入ってるわ。さあ、悟空先生、怪我を見せてもらうわねー」

「おいおい、大丈夫だって言ってるだろ」

「こんなに血が出て平気なわけないでしょ?どうなって……」

 美朱が悟空の服をめくった瞬間、言葉が止まった。

「どうしたんですか?」

 翠蘭は周囲に注意を払いながらそちらを見た。

 そして全身の血が凍り付く想いだった。

 そもそも彼が全く抵抗しない事に翠蘭も美朱も違和感はあった。

「嘘でしょ……こんな……」

 美朱の声は震えていた。

「平気だぞ……俺は……」  

 それは悟空が出した最後の空元気だった。

 彼は意識を手放して座席から崩れ落ち、車内に数人の悲鳴が響いた。

 天界からそれを見た誰かがこう言った。

 孫悟空よ。あなたの旅はここで終わりですか?

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