第9話 我は斉天大聖

 結果だけを言えば金剛重工は滅んだ。

 社員と避難民の一部は逃げ去ったが、社内には生者は一人もいない。

 かつて玉だったものは社長室から死者が彷徨う自らの会社を眺めていた。

 彼は周を殺した時よりも意識が鮮明になっている。手に入った仙丹を自分に打ち続けたおかげだと信じた。

「ダガ……足リナイ……」

 彼は玉が言い遺した言葉に従って避難者がいるという社宅に行ってみたが仙丹も住人も見つからなかった。

 おそらく逃げてしまったのだろう。それくらいは考えられるほど玉は知性を取り戻していた。無論、生きていた時には程遠い。ゆえに彼の死んだ脳細胞は幼い子供のような思考を繰り返していた。

「紅龍科技……ソコニ行ケバ……アル……」

 彼はこう考えていた。

 紅龍科技公司に行けば仙丹を持った娘が見つかるに違いない。それどころかたくさん得られるのではないか。なぜなら医療機器の大手だからだ。仙丹を無限に作らせて好きなだけ自分に打てたら神のようになれる、と。

 しかしこうも考えていた。彼らはきっと邪魔をしてくる。自分の警備員が悪者であったように。自分の会社には強い重機がたくさんあるから悪者はそれで倒そう。だが、今の社員たちはなぜか頭が悪くなってしまい、何を命じても従わなかった。腹が立って何人かを壊してしまったが、その際に大きな声で叫ぶと社員たちが自分の所に集まることに気づいた。

「フフフフ……ハハハハハ……」

 中庭に集めた、部下たちと思い込んでいるもの。

 実際には死人の大群を眺めて彼は笑った。

 大勢の部下と”あれ”を使えば紅龍科技公司の悪者を倒し、仙丹を無限に手に入れられるだろう。

 そう思って笑い続けた。 



(********)

(またか)

 孫悟空は揺蕩う意識の中で思った。

 声でも音でもない何かが体の中に入ってくる。

(何かを伝えたいならはっきり言えばいいのに。面倒なやつだな)

 そう考えた後で自分には何か大事な用がある気がした。

 お師匠様と約束した大事なこと。

(そうだ!地上と地獄を繋げる穴を塞がないといけねんだ!)

 そのために何をするのだったか。

 また考えると翠蘭という名前を思い出した。

(そうだ!そうだ!あの子の父親の所へ行けば……いや、あれは嘘だった)

 悟空は翠蘭の嘘に気づいていた。

 自分と一緒にいて守ってほしいという願望にすぐ気づいたが、断ったらあの子は恐らく死んでしまう。だから嘘だとわかった上で父親の所へ連れてゆく事にした。そのせいで他の誰かが天国や地獄に行ってしまうのだが、出会ってしまったのだから仕方ないと。

(でも、最後に会った時は急に子供っぽさがなくなったな。何かあったのか?あれ?最後ってなんだ?あれ?俺って死んだっけ?でも……)

 悟空はまだ死んでいない事に気づいた。

 死ねば極楽に戻るか、悪くても地獄に行くからだ。

(あっ!てことは俺は寝てるだけか?よーし!起きるぞー!起きろ、俺ーー!)

 強く念じると真っ暗な意識に光が差し込んだ。

「あっ!孫さん、目が覚めました!?」

 翠蘭が彼の顔を覗き込み、他にも知ってる顔がいくつか加わった。

「おい、お前、不死身じゃなかったんだな」

「悟空先生ー!死んじゃったらどうしようかと思ったわよ!」

「大丈夫?お水、飲む?」

「飲む!」

 最後の言葉に悟空は強く反応した。

 喉がとても渇いていた。上体に力を入れて仰向けの状態から起き上がると見たこともない部屋にいることに気づいた。壁や天井のほとんどは雪よりも白い。

「はい、お水!」

 美朱がにこにこして綺麗なグラスを近づけ、その後ろで翠蘭がむっとしていた。

 悟空がそれを飲むと干乾びた体が喜びに震えた。

「美味えっ!」

「よかったわ!じゃんじゃん飲んで!」

 その言葉に従って水をがぶがぶ飲んだ悟空は気になったことを訊いた。

「ここ、どこなんだ?」

「父の会社です」

 翠蘭が言った。

「紅龍なんとかって所か?」

「はい。あっ、あの後、ロニさんと合流して……」

 視線を受けたロニが説明を引き継いだ。

「お前が死にかけてると言われて紅龍科技公司まで死に物狂いで向かったんだよ。仙丹を使うか死ぬほど悩んだ」

「お?あれ、俺に食わせたのか?」

「いや、人間用だから結局は使わなかった」

 彼は自分の判断が正しかったか今もわからないという様子だった。

「お前の神がかった体力……いや、仏がかった、か?それに賭けた。仙丹がまるで逆効果って可能性もあるからな。それで死んだら俺は一生恨まれただろうな」

「いえ、皆で話し合ったことですし……」

「そこまで心狭くないわよ。ちょっとは恨んだけど」

 どっちだよ、とロニの小声が聞こえた。

「いいでしょ。ああ、そうそう!体に入ってた弾は私が必死に取ったのよ!」

 美朱がぐいっと体を寄せてアピールを兼ねた説明が始まった。

「10発よ。10発。出血はだいぶ止まってたけど、気が狂いそうだったわ」

「気は普通だぞ」

「え?ああ、そういう意味じゃなくて……」

「でも、ありがとな」

「ふふふ。どういたしまして」

「連もすごいな」

「うん!がんばった!」

 悟空は連にもお礼を言い、小さな顔が誇らしげな笑みを浮かべた。 

「俺がいなくてここまで来るのは大丈夫だったのか?」

「ああ。どうにかな。俺達といた回収班の連中も一緒に行くことになって武器と人手はどうにかなった。翠蘭も戦ってくれたぞ」

「え?お前が?」

 彼が驚いてそちらを見ると翠蘭はやや恥ずかしげな表情になった。

「は、はい。皆が戦ってるのに私だけ楽できませんから」

「翠蘭お姉ちゃん、かっこよかったよ!」

「そうか。すげえな……」

 悟空が素直に褒め言葉を送ると彼女は目を泳がせた。

「私も怪我さえなければ頑張ったのになー。でも、本当にすごかったわ。性格もちょっと変わったんじゃない?野性味が出たっていうか」

「野性味って何ですか。もう……」

 翠蘭は不満顔になったが、悟空も確かに彼女が変わったと思った。

 ガラス細工のような脆さがなくなり、美朱との関係も今までより対等に近くなっている。急に何歳か歳をとったようだった。

「あっ!そういや翠蘭の父ちゃんは無事だったのか?」

「はい!」

 翠蘭の顔が快晴になった。

「会社の前まで行ったらカメラですぐ私とわかったそうです。玄関の門が開いて……」

 彼女の言葉が合図になったかのように部屋の自動扉が開き、中年の男が一人入ってきた。

「意識が戻って何よりだ」 

「あ、お父さん」

 翠蘭の父、陽浩然は

「翠蘭の父、浩然だ。孫さん……と呼んでいいかい?」

「ああ」

「まずはお礼を言わせてくれ」

 彼はそう言って深く頭を下げた。

「君がいなければ娘は間違いなく死んでいた。生涯、君に感謝する」

「気にすんな」

「その恩人に無礼な質問かもしれないが……その……」

 彼は自分が持つ個人端末を見た。

 そこに表示されていることをもう一度確かめるように。

「ロニさんに言われたことだし、治療のためにも必要だった。だから君の血液を勝手に調べたんだが……」

 傍にいたロニが「いいって言っただろ?」と無音で口を動かした。

「君はどう言う存在なんだ?医者が言うには血液成分が人間と違う。遺伝子、毛髪、骨格もそうだ。どうなっているんだ?」

「勝手に調べてすみません、孫さん」

 なぜか翠蘭が詫びた。

 だが、そこはどうでもいい事だった。

「当たり前だろ。人間じゃないんだ」

「天界から来た孫悟空……か?」

「ああ。細かいところまで聞いてないのか?」

 その説明を毎回するのは面倒と思っていた悟空は嫌そうな顔になった。

「いや、娘から聞いたさ。ここに避難してる精神科医に診せるか真剣に悩んだ」

 彼がそう言った時、翠蘭はその状況を思い出したのかむっとした顔になったがすぐに戻ったのに悟空は気づいた。

「医学的に見て、君が人間でない事は事実らしい。それを否定するわけにいかない……が、天国や地獄の話となると、正直、どう考えていいのかもわからない。うちの幹部連中も奇術師に化かされた赤ん坊みたいな顔になってるよ」

 私もその1人だは、と彼はつぶやいた。

「議論しようにも話の糸口がないんだ。魂というのは存在するのか?」

「は?当たり前だろ」

「しかし……妖仙の類が実在するというのも奇妙だ。言い伝え以外の痕跡が残るはずじゃないか?」

 悟空は話が面倒臭くなってきたことに気づいた。

 その辺りの事情は彼自身もよく知らず、興味もなかったので自分の用を片付けることに決めた。

「知るか。それよりお前らは穴をどうすんだ?塞ぐのか?」

「穴?ああ、地上と地獄を繋ぐというものだね。永久機関の実験装置が今起こってる奇病の原因というのも……」

「ねーねー、ちょっといいかしら」

 雲を掴むような話に狼狽える浩然に美朱が言った。

「科学的な人たちは死んだ人が暴れ回ってるのをどう考えてるの?生物兵器やらナノサイズの機械やら、そういうので説明がつくなら早く止めてほしいんだけど」

 美朱が腕を組み、唇を尖らせると彼は途方に暮れた顔になった。

「それは本当に耳が痛いよ。死人に関してはこちらも多少の調査はしたが、彼らの脳内や神経に電位差は生じてない。生物として完全に死んでるんだ。それでも動力も伝達手段もなしに動いてる。まるで魔術。永久機関と同じだ……」

 彼も科学を重んじてきた人間であり、それを否定されることは並々でない恐ろしさがある。悟空が言った理屈を信じないというより信じたくないという気持ちが強かった。

「じゃあ、そこは置いとくとしよう」

 ロニが口を挟んだ。

「なあ、英雄先生、死人が銃を使うことはありえるか?」

「銃?あの石飛ばしてくる奴か?」

「ああ」

「そりゃ無理だと思うぞ」

 死人は怨念や邪気で暴れるだけ。

 ゆえにそんな思考ができると彼には思えなかった。

「絶対にありえないか?」

 ロニの声には不安と焦りがあった。

 よく見ると他の面々も何かを知っているらしく、似た表情だった。

「そうなのか?無理だと思うけどなあ……。まあ、何かの拍子に賢い奴も出てくるかもな」

 悟空はあっさりと前言を撤回し、相手を呆れさせた。

「いい加減すぎるだろ……」

「お前らも変な妖術で車や虫みたいなやつを動かしたりしてるだろ。魂がないのに喋るし、動き回ってるじゃねえか」

「それは……しかし……」

 そう言われるとロニも答えに窮した。

「なあ、俺は地上の穴を塞ぎに来ただけなんだ。場所がわからねえならもう行くぞ」

 翠蘭の安全も保護できたようだし、ここにいても仕方ない。そう思った悟空はベッドから降りようとしたが、そこで眩暈がした。彼はまだ回復していなかった。

「孫さん!駄目です!」

「今度こそ本当に死んじゃうわよ!」

 翠蘭と美朱が慌てて彼をベッドに戻した。

 美朱の怪我もかなり良くなったらしい。

「うぅぅ……頭がくらくらする……なんでだ……」

「あなたは人間と違う体だが、似た部分も多い。その上で医者が言うには出血多量と極端な栄養不良の可能性があるらしい」

「なんだそりゃ……血が足りねえってことか?」

「まさにそうだ」

「お前、ほとんど何も食べてなかっただろ?」

 ロニが言った。

「元々、お前は飢え死にしかけてたってことだ」

「は……?」

 悟空はそう言われて今までを振り返った。

 確かに翠蘭たちが食べる食料に手を付けまいと水以外はほとんど口にしてこなかった。それで死ぬとは思わなかったからだ。

「そっか……こっちだと俺も食わないと死ぬのか……」

「知らなかったのか?」

「悟空先生、お腹が空いたって感じなかったの?」

 美朱の質問に悟空は答えを言わず、顔を反らした。

「減ってたのね?」

「どうして我慢してたんですか!」

「そりゃ……」

「あなたの血液にも人間と同じくブドウ糖や無機塩類があった」

 悟空にとって幸いなことに、美朱と翠蘭の追及を浩然が止めてくれた。

「医者が死ぬほど悩んでいたが、ブドウ糖液ならおそらく死なないだろうと言っていたので勝手に打たせてもらったよ」

「何を言ってるか全然わかんねえけど……治ったのか?」

「治ってません!」

「治ってないわ!」

 2人が追及を再開しそうになり、悟空はまた防波堤になることを期待して翠蘭の父親を見た。

「これも信じられないが、人間の数十倍の速さで傷が塞がってるそうだ。だが、これもおそらくだが栄養が足りていない。他の栄養剤を打つと万が一の可能性があるので今まで避けて……」

「難しい事はいい!どうすりゃ治るんだ!?」

 悟空は説明よりも単純明快な答えを催促した。

「たぶん食事を摂る事だ」

「なんだ。飯食や治るのか。そう言ってくれよ」

 そう思った悟空だが、この世界に食料は十分ない事はわかっている。

 飢えた人々から食料を奪ったら天界のお師匠様に顔向けできない。そう思ってどうしようかと悩んでいると翠蘭が訊いた。

「孫さんはもう仏様じゃないんですよね?」

「ん?ああ、そうだ」

「じゃあ、宗教上の決まりとかないはずです。体に害がないなら食べてください」

 そう言うと彼女は小さなテーブルに置かれた容器を空けた。数分前、悟空が目を覚ました時に彼女がそこに水を入れていたのは悟空も見ていた。

「くぅ、ジャンケンが……」

 美朱が悔しそうな顔をして何か呟いた。

 それは発熱機能を備えた災害時用のアルファ化米だった。翠蘭が持つ容器の中から湯気と米の香りが放たれ、嫌でも悟空の食欲を刺激した。

「さあ、食べてください」

「いや、お前らだって腹空いてるんだろ?そっちが食えよ」

 悟空は天界のお師匠様に叱られたくないので固辞した。

 しかし22世紀の食べ物から目が離せていない。

「孫さんには食事が必要なんです」

「よせよ。俺はこれでも一度は仏になったんだぜ?腹が空いたくらいで人のモン取ったら仏罰食らっちまう」

「お腹が空いたら物を食べるのは普通の事じゃないですか?」

「いや、そういうことじゃ……」

 悟空はどうせ食べないつもりなので早く魅惑の食べ物を下げてほしいと思った。

「斉天大聖なんて嘯いてた頃じゃねえんだ。俺は三蔵法師様の弟子だぜ?空腹上等だ!」

 美徳とも子供じみた虚勢ともいえる姿勢のままそう言った彼に翠蘭は今まで浮かべていた優しさがすっと消えた。

「じゃあ、本音をはっきり言わせてもらいますけど……」

 彼女は息を大きく吸い込んだ。

「そうやって意地を張ってたから倒れたんでしょう!」

「えっ!?」

 一瞬、彼は目の前にいるのが翠蘭に変化した別人かと思った。

「誰だってお腹は空きますよ!我慢して倒れたら皆が迷惑するんですよ!?それじゃ意味ないでしょう!違いますか!?」

「いや、それは……」

 悟空はなぜか懐かしいものを彼女から感じた。

 それが何かを思い出そうとしてすぐにわかった。三蔵法師に緊箍児できりきりと頭をやられて説教を受けた時だった。

「ここまで孫さんを運ぶのがどれだけ大変だったと思ってるんですか!あっちでご飯に余裕がある時にちゃんと食べてたらよかったのに!なんでですか!?」

「それは……まあ……」

 しどろもどろになる悟空は救いの手を周囲に求めたが、全員が驚きつつも同意の表情をしていた。

「一人だけあんなに戦って怪我してどうするんですか!私たちは赤ん坊じゃないです!食料も戦いもしっかり話し合って……ああ!もう!とにかく早く食べてください!」

 今度は目に涙を滲ませた翠蘭に彼はまた驚かされ、この時代の粥を口に入れるしかなくなる。塩分と米の甘みに化学調味料がふんだんに盛り込まれたそれは疲労した彼の全細胞を喜ばせた。

「美味ぇ……」

「美味しいですか?よかった。全部食べてください」

 明王になりかけていた彼女の顔が元の慈悲深い少女に戻った。

 この世界に来て悟空は初めて恐怖に近いものと感じたが、身体はもっと食料を運べと命令するので1人分の粥をすぐに平らげてしまった。

「あぁ……本当に美味かった……」

 文字通り至福の顔をした悟空は疲労感と頭の中のもやもやが消えていくのを感じた。

「アレルギーみたいなものはないのか?」

 翠蘭の父が少し不安そうに訊いた。

「なんだ、そりゃ?」 

「ええと、つまりな……」

「その話は後にしてくれ」

 ロニが話を中断させた。

「今は時間があまりないだろ?そろそろあの件を話そう」

「お?何かあるのか?」

 悟空の前にロニは情報端末の画面を見せた。

「これは紅龍から飛ばしてる無人観測機からの映像だ。ここから50キロくらい距離がある」

 画面には上空から撮影した映像が映っていた。 

 廃墟と化した街路を蟻の群れのように死人たちが歩いている。それは従来の目的もなく彷徨う動きではなく、明確な目的を持って移動しているように見えた。

「なんだこりゃ?」

「もうすぐ群れの先頭が映る。ほら、ここだ」

 ロニがそう言うと画面の中に巨大重機が現れた。邪魔な瓦礫を大型破砕機で処理し、地獄の軍団さながらに死人達を率いる巨大金属の内部には青ざめた顔の老人が乗っていた。

「こいつ、何やってんだ?」

「お前がわからないなら誰にもわからないな。見る限り、死人を率いてて重機を動かす知性もある。おまけに近くの群れを吸収してどんどん数が増えてると来た。そんなことがありうるのか?」

 彼は先ほども似た質問をしていた。

 理由はこれかと悟空は合点がいった。

「ありえねえ……って言いたいが、これ、本物なんだろ?」

「ああ」

「じゃあ、この死人が特別なんだろ。なんでこうなったかはさっぱりわからねえな!」

「そうか……」

 あっけらかんとした回答にならない回答。

 それにロニは露骨な失望を見せたが、すぐに話を続けた。

「大事な事は1つ。8時間もすりゃあここに死人の群れがやってくるってことだ」

 死の宣告。彼の声にはそんな雰囲気があった。

「そりゃまずいな。どうすんだ?ぶっ飛ばすのか?」

「ぶっ飛ばせると思うか?死人の数は今の時点で2千を超えてるんだぞ」

「不可能だ」

 翠蘭の父も這い寄る恐怖に耐えながら言った。

「戦える者と無人機を総動員してもとても足りない。全員の避難準備を進めてるが、はっきり言って確実に安全といえる土地は近くにない。運ぶ手段も少ない。ここの医療設備を無くすのも痛すぎる」

「……というわけだ。英雄先生」

 ロニがどこか神仏に挑戦するような目になり言った。

「お前ならどうにかできるか?」

「んー、そうだなあ……」

 悟空は少し考えた。

 最初に戦かった時も死人の津波に飲み込まれそうになった。今回はその2倍どころでない。

「なあ、先頭に座ってる奴をぶっ潰せば群れは止まるんじゃねえか?」

「それはもう試したらしいが……」

 ロニの言葉に浩然も頷いて言葉を続けた。

「無人機に銃を取り付けて特攻させてみたんだ。だが、金剛重工の”力王”はとんでもなく頑丈でね。軍用の爆弾でもない限り、あの老人は倒せない」

「そっかぁ……じゃ、俺が行ってくる。運がよきゃ爺さんをぶっ潰して群れは止まるだろ」

 当たり前の層に悟空がそう言うと全員が悲痛な顔をした。

「孫さん、それってお爺さん以外はどうにもならないってことですよね?」

「どうにかなるだろ」

 明確に答えなかった悟空に翠蘭はさらに詰め寄った。

「正直に言ってください。あのお爺さんを倒そうとしたら群れが絶対に襲ってきます。それはどうにもできないんですね?」

 彼女は口に出さなかったが、たとえ老人を倒して群れの進行が止まってもその場にいる悟空は高確率で襲われるとわかっていた。

「いや……」

 悟空が目を一瞬反らして否定しようとすると彼女はとてつもない札を切った。

「三蔵法師様に誓って本当ですか?」

「な……」

 なんてことを言いやがる。

 彼はそう思い、翠蘭の知略ぶりに本気で畏れをなした。

「卑怯な言い方をしてごめんなさい。でも、嘘は悪い事ですよ?」

「お前、そりゃあ……」

 追い詰められた悟空に今度は美朱も加勢した。

「一緒に逃げましょうよ!ていうか、悟空先生は地獄の穴っていうのを塞ぐんでしょ?そっちをどうにかしなきゃ!」

 間違いない正論だった。

 だが、ここで逃げたら彼は顔向けできないと思った。

 天界にいるお師匠様だけではない。自分が自分に顔向けできない。

「悟空お兄ちゃん、逃げようよ」

 小さな、泣きそうな瞳に見つめられた悟空は一瞬言い逃れる言葉を探したが、すぐにそれをやめてニヤリと笑った。

「俺が負けると本気で思ってんのか?」

「え?」

 彼はベッドから跳び起きると体に付けられていた医療装置を引きはがした。

「俺は孫悟空!一度は仏になった!号は斉天大聖!美猴王!たかが死人に怖気づくわけねえだろう!だから……」

 彼はそこで少し止まった。

「もう少し飯くれるか?」

「……え?」

 翠蘭が全員を代表して聞き返した

「暴れるには力が足りねえんだ……」

 そう言って彼はへなへなと座り込んだ。

 30分後、彼の部屋には浩然が自分の権限を使って可能な限りの食事が運び込まれ、それが湯水のごとく悟空の口の中へ消えていった。

「ほとんどの物語で食いしん坊って描かれてましたけど……」

「ええ、聞きしに勝るってこの事ね……」

 翠蘭と美朱は悟空の食いっぷりに開いた口がふさがらなかった。

 20人近い食品の空箱が彼の隣に積まれており、本来は貴重な食糧だが紅龍科技公司という施設を失えば病死や餓死が百人単位で増えるとわかっているので悟空も周囲も割り切っていた。

 それはそれとして、食べた分の体積が悟空に反映されておらず、どんな作用が働いているのかという疑問を二人は持ったがすぐに放棄した。

「ングググッ!」

「お兄ちゃん!お水!お水!」

 食べ物が喉につっかえた悟空に連が水を渡した。

 それを加算すれば10キロ近い水もどこへ行ったのかは定かではない。

「ぷはあああっ!あぁぁぁ……食ったぁ……」

 彼は海吃海喝を体現し終えると少しも大きくなっていない腹を叩いた。

「よし!これでいくらでも戦えるぜ!もう勝ったも同然だ!」

「食べ過ぎで調子悪くなったりしませんか?」

「ははは!心配いらねえ」

 翠蘭のもっともな心配を悟空は笑って済ませた。

 ベッドから起き上がると体の関節を曲げて調子を確かめ、その様子は確かに重傷を負ったものには思えなかった。

「これでも控えてる方だぞ」

「そうなんですか?じゃあ……」

 翠蘭は少し迷ってから「これも」と小さな包みを差し出した。

「お?食い物か?」

「最初に頂いたお菓子です。これだけ残ってたので」

 それは翠蘭が悟空から最初に貰い、泣きながら食べた品でもあった。

 その時を思い出した悟空は手を伸ばし、すぐにひっこめた。

「お前が持っといてくれ」

「でも……」

 返し切れない恩を少しでも返そうとする彼女に悟空は晴れやかな顔で言った。

「ああ、一仕事終えたら食うって意味だ。それ、最初に見た時も思ったけど美味そうだもんな」

「はい。私も好きなお菓子です。悟空さんは甘いもの好きですか?」

「俺はなんでも食うぞ!」

「そう言うと思いました。ふふ……」

 予想通りの言葉を聞いて翠蘭は笑った。

「じゃあ、それまで待ってますね」

 悟空が一仕事といっているのは命がけの戦いで、これが最後の別れになるかもしれない。その可能性がわかった上で彼女は小事のように言った。

「じゃあ、私は悟空先生が好きなお菓子を作るわ!」

 負けてられないと美朱も会話に乱入した。

「なんでも言って。私に作れないものはないから」

「おお!美朱は料理人なのか?」

 悟空は驚きと喜びをあらわにした。

「ええ!任せて!調理用無人機でちょちょいよ」

 言葉の後半はとてつもない早口だった。

 そんな彼女をジト目で見る翠蘭は何か言いかけたが、運は美朱の味方をしたらしい。

「おーい、英雄先生」

「ん?」

 どこかへ出かけていたロニが彼の部屋に姿を現した。

「連中とやり合うなら一つだけ頼みがある。聞いてくれるか?」

「なんだ?」

「連中と戦う場所についてだ。紅龍の正面ぎりぎりでやってくれないか?」

「なんでだ?あぶねえだろ」

「普通はそうなんだが……」

 ロニは理由を説明し始めた。

 彼曰く、死人が行動不能になった場合は無秩序に動き始め、周囲一帯はまず使用不可能になる。それは群れの直撃よりはマシという程度で紅龍科技公司にとって損害が大きいらしく、それを回避するために付近の高層建築物を爆破し、群れを生き埋めにする。それが紅龍科技公司の立てた計画だった。

「だったら悟空先生が行く必要ないじゃない」

 美朱が当然の指摘すると彼は悔いるように首を振った。

「今の建物がどれだけテロに強いか知らないのか?ここで用意できるあり合わせの材料でそんな都合のいい解体爆破はまず無理だ。奇跡を信じる最後の手段ってことだ」

「ふぅん。それってあんたの見立てだとどのくらいの確率?」

「何もかも上手くいって1割ってところだ」

 少しも喜べない確率だった。

「それは残念ね。ところでさ、あんたもそろそろ普通の旅行者の振りをするのやめたら?隠す気もないんでしょ?」

 建設物の爆破成功率など一般人はわからない。

 その意味をくみ取ったロニは少し思案した。

「この状況でそれは重要な事か?」

「この状況だから大事なのよ。長く生きられるか怪しいし、誰に背中を預けてきたか知っておきたいじゃない?死ぬ間際にも」

「なるほど……」

 ロニは他の面々、短い付き合いだが命を預け合った男女の顔を見た。

 そして諦観の混ざった息を吐いた。

「北大西洋連合の職員。俺が言えるのはここまでだ」

「なんでぼかすの?もう国があるかどうかも怪しいわよ」

「仕事中毒でな。なあ、英雄先生、今の話だが構わないか?」

「いいぜ。でも、俺もそっちも失敗したらすぐ逃げろよ?」

「そこは安心しろ。翠蘭たちは何があっても守る」

 それを聞いた悟空はニッと笑った。

 それから彼はこの施設でもらった灰色の服に着替え、ロニが調達してくれたタングステン製警棒3本を腰に差すと首をコキリと鳴らした。

 準備万端。あとは死人の親玉を狩り、それでも止まらなければ2千を超える死人を全て狩る。どこまでも単純な作戦なので悩む必要がない。

 悟空の心は天界の空のように晴れやかだった。 

「悟空さーん!」

「ん?」

 玄関まで出てきた彼の後ろから翠蘭が走ってきた。

「あの、最後に謝らせてください」

 息を切らせながら彼女は頭を下げた。

「何の事だ?」

「なんかうやむやになってましたけど、私、お父さんなら地獄と通じてる穴の事がわかるかもって嘘をつきました。お母さんが避難所に行ったっていうのも……嘘です」

「そんな事か。はは、気にすんな」

 悟空は今までと同じように笑って流した。

 海や空のように大らかに。 

「俺だって腹減ってないって嘘ついたろ?お互い様だ」

「じゃあ、これを」

 翠蘭は後で渡すと約束したお菓子を悟空のポケットに無理やり入れた。

「おいおい、そりゃ……」

「さっき、ロニさんに聞いたんです。戦場でこういう約束をした男女は二度と会えないって」

「はあ?」

 あの野郎、と悟空は心の中で毒づいた。

「だから違う約束をします」

 彼女は真剣な瞳を向けて言った。

「こんなお菓子をあげるくらいじゃ私が納得できません。美朱さんはどんなお菓子でも作るって言いましたよね?だから私はご飯を作ります。世界中の料理を作って悟空さんに食べてもらいます」

「お、おおお……」

 悟空の中で落ち着いた食欲がぶり返すほど魅惑的な約束だった。

 世界中のお菓子と料理が食べられる。これでは神仏を敵に回してでも地上を守らねばならないと悟空は確信した。

「わかった!じゃあ、頼むぜ!」

「はい!」

 翠蘭は花咲くような笑顔になり、建物の中へ戻っていった。

 彼女からの呼称が孫さんから悟空さんに変わっていたが、悟空は食べ物の事で頭がいっぱいだった。

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