第6話 束の間の平穏
未だに空は濁り、夜とも朝ともつかない。
それでも東の空が情けをかけるように小さな光を発した。
金剛重工は本来なら休まず稼働するはずの作業用無人機が停止し、代わりに早朝から人間が機械を組み立てていた。
「残念ながら電力にはそう余裕がありません」
敷地を案内する警備員、袁と名乗った男は言った。
「生活維持と農場、そして警備にほとんどの電力をとられますので」
「まるで産業革命の頃に戻った感じだな」
ロニは額に汗を流して働く人々を眺めながら率直に言った。
「正直、我々も四苦八苦しています。機械に頼りすぎた弊害ですね」
「ねえ、彼らは何を造っているの?」
個人輸送機に座って質問した美酒。
そちらを向いて彼は答えた。
「警備用無人機とその武装です。死人なら重機で十分ですが、略奪者はそうはいきませんから」
「そんなに頻繁に襲ってくるの?」
「ええ、負けはしませんが、色々とちょっかいを出してきます」
警備兵はうんざりした顔になり、その面倒さを伺わせた。
「あの鞭みたいなの知ってるぞ!びりびり痺れるんだろ?」
「すみません。装備については何も答えられません」
「えー、絶対あれだって。俺も」
「あー!なんでもありません!」
「なんでもない!」
翠蘭とロニがあわてて悟空を止めた。
軍用無人機と素手で戦ったなどといえば正気を疑われるだろうと。
「それで、農場っていうのは?」
「すぐ隣の建物です」
警備員が彼らを導いたのは人工照明に照らされた百段近い棚。そこでは複数種の野菜が生い茂っており、プラスチックで隔離されていた。まるで無菌室の病人のように。
「まあ、普通の畑だな」
ロニはそう言い、誰も大きな反応を示さない。
この時代では当たり前だからだ。ただ一人を除いて。
「なあ、これって妖術か?」
「孫さん、後で教えますから!」
翠蘭が必死に悟空を止めていた。
「重機企業にこんな規模の栽培施設か。まるでこんな事態が来るとわかってたみたいだな?」
「第3次大戦の際に食料と武器を持たない人間は悲惨な目に遭いましたからね。上層部はその経験者ばかりだそうです」
「だそうです?お前は個々の社員じゃないのか?」
「ええ、まあ……」
彼はそれ以上言わず、話題を変えたかったのか施設の説明をさらに続け、彼らを次の目的地に連れて行った。
「こちらは警備員の鍛錬場です」
野外で装甲をつけた兵たちが稽古している前に立ち、彼は言った。
電流槍と盾を持った男たちが怒声を浴びせながら戦っている。
「あれは強化服だよな?」
「答えられないと本来は言うべきですが、さすがにわかりますね」
ロニの質問に対して彼は肯定した。
「一体どうやって……いや、やめておく」
「はは、感謝します」
ロニは新たな質問を取り消し、警備兵は微笑みを返した。
その時、一人の隊員が悲鳴を上げた。
「うわぁっ!」
別の隊員に投げ飛ばされたのだ。
強化服が誇る剛力は彼を4メートル近く飛ばし、その先には翠蘭が立っていた。
「きゃっ!」
「おい!」
袁が駆けよったが遅すぎる。
誰もが悲惨な事故になると確信したが、100キロを超える強化服つきの男はいつの間にか移動していた悟空に捕まえられ、空中でくるんと回転すると両足が地面に着地した。
「大丈夫か?」
「え?……あっ、ありがとうございます!」
「何をやってる!」
彼は投げ飛ばした方の隊員と共に上司から厳しく叱責され、袁は平謝りだった。
「申し訳ありません!ですが、あなたもよく無事でしたね?強化服自体50キロを超えるんですが……」
「何が難しいんだ?それより戦う時は臍から下にも力を入れさせろ。だから投げられるんだ」
「おい!」
ロニが止めようとしたが遅かった。
「ほう!武術の経験があるんですか?」
「ああ!腐るほどやったぜ!」
ああ、もう、あらら、と数人が頭を抱えた。
「先程の動きといい、かなりの腕前ですね。よければ指南をお願いしてよろしいですか?」
「お?いいぞ」
それは袁という男の単なる職務熱心さから来た依頼だった。
他が言い訳を考える間もなく悟空は了承してしまい、あっという間に警備隊員の最高実力者と孫悟空の稽古が組まれてしまった。
「い、いいんですか?」
翠蘭が訊くとロニは何かをあきらめたような顔だった。
「むこうも強化服は着てない……だから大丈夫だろ……何かあっても知らん」
「知らんって……」
「きゃー!孫悟空先生!そんな奴、さくっとやっちゃってー!」
「がんばれー!孫悟空ー!」
美朱と連だけが熱心に応援していた。
「孫悟空というのか?勇ましい名前だ」
対戦相手はそう言ったが、敬意や好意はこもっていなかった。
それだけ強さに自負があるのだろう。
「そうか。嬉しいぜ。へへへ」
「では、いくぞ!」
どこかの流派に所属しているらしい男は右手を引き、左手を構えると戦士の目になった。
仲間の前で不覚をとれないと一切の油断なく悟空ににじり寄る。
対する彼は両手をだらりと下げ、どう見ても自然体であった。
周りの目は2種類に別れた。困惑。そして衝撃だ。ごく一部の実力者だけが悟空から山のような武威を感じ取る事が出来た。どこから攻めても一切隙がないと。
当の対戦相手も攻めあぐねていた。
どこを殴っても、どこを蹴っても有効に思えない。まるで金剛重工の「力王」と戦うような無謀さを感じてじわりと汗が出たが、何もせず負けるほどの屈辱はなく、まさに重機へ殴りかかる気持ちで拳を振った。
「はああッ!!」
鍛えた拳は悟空の腹を狙い、空気を殴った。
消えた。そうとしか思えない瞬足で彼はそれを避け、大地を踏みしめて同じ部位へ拳を振るった。
パァンッと何かが割れる音が響いた。
死んだと男が思った数秒後、彼の腹に拳が乗っているのに気付いた。
寸止め。だが、彼も周囲も何かが破壊される音を聞いた。
「よっ」
奇妙な掛け声とともに悟空は寸止めした拳をそこからさらに打ち出すと80キロを超える男の体が吹き飛んだ。
「ぐおおおっ!」
「し、勝負あり!」
「何をやった?」
「す、寸勁か!?」
「いや、それにしても……」
「全然わかんなかったけど、素敵だったわ!悟空先生ー!」
「すごい!すごーい!」
大勢が困惑し、その戦いの意味が分かった者は少数だった。
「大丈夫か?」
悟空は吹き飛ばした男の元へ行って手を伸ばした。
「はい……勝負になりませんでしたね……」
男は腹部を押さえ、完全な敬語で言った。
悔しさと清々しさの混ざった顔をしていた。
「変ですね。悔しいのですが、そう思う自分が馬鹿に思えるんです……」
「はあ?負けたら悔しいのが普通だろ?」
「え……では、悔しいと思う事にします!ははは!」
男は笑い出した。
悟りの1つでも開いたように。
「おい!もういいだろ!次の所へ行くぞ!」
これ以上試合をさせるものかとロニが急かし、5人は鍛錬場を後にした。
「正直、ここで見るものは特にありませんが……」
彼が躊躇いがちに言ったのは避難民たちが暮らす空き地だった。
キャンプ用品を広げた者、古代のように棒と布を使った天幕が張られているところもあるが、その他大勢は毛布で体を包んで風に吹かれるままだった。
「念のために言いますが、我々も良い待遇で迎えようと努力したんです。ですが、死人対策に病人や怪我人を隔離する部屋を空けておく必要が……」
「ああ、もちろん事情はわかってるさ」
「でも、なんだか申し訳ないですね……」
「さすがにこれを見ちゃうとねぇ……」
自分たちが社宅を借りて厚遇を受けている事実に3名が厳しい顔をする。
その横では連が何かを探していた。
「連、名簿を確認してもらっただろ?お前の両親は少なくともここには……」
「うん……」
ロニにそう言われた彼だが、微かな希望を捨てきれずに避難民たちの顔を確認していた。
では、悟空は何をしているのかといえば答えは隣接する黄浦江にあった。
「おりゃあっ!」
悟空が堤防から小石を投げると水面に大きな波しぶきが上がった。
その下からぷかりと黒い魚が浮かんでくると周囲にいた避難民の子供たちは歓声を上げた。
「お兄ちゃん、すごい!」
「もっとやって!」
「こら、次は僕の番だぞ!」
「へへへ!何匹でも当ててやるよ!」
網を持った子供達が悟空の狙撃した黒魚を掬っていく。それは彼らの昼食になるだろう。この行動はロニたちにとって許容範囲とはいえないのだが、飢えた避難民への罪悪感から彼らは黙認するしかなかった。
「すごいですね。水はかなり濁ってるのに魚の位置をどうやって……」
「適当に投げてるだけだろ。魚はそこらじゅうにいるさ」
ロニはそう言って案内役を誤魔化し、悟空が魚の気を感知しているという神秘的な事実を隠した。
「こちらが最後の施設ですが、残念ながら中は一切お見せできません」
案内役がそう言ったのは治療施設だった。
正面の入り口には2人の警備員が銃を所持して直立している
「ご存じのように怪我や病気にかかった人が死亡するとすぐに凶暴化します。ゆえに入院時は誰であろうと必ず拘束します」
「当然だな」
ロニは納得し、他の面々も何も言わなかった。
「率直に言いますが、我々も一般の治療薬や医療器具はかなり不足しています。仙丹よりもそちらの方が求められるくらいなんです」
「ずいぶん正直に言うんだな?」
「考えれば誰でもわかる事ですから」
彼はそう言って苦笑した。
高価な薬1本より2流の薬が100本。量は質を凌駕するということだ。
「どうしてそれを俺達に話す?」
「皆さんが、いえ、ロニさんと孫さんがこちらに腰を据えるつもりなら遅かれ早かれ物資の回収部隊に参加してもらいます。その時の優先順位を知っておいてほしいんです。強化兵の持つ仙丹はそこまで優先度が高くありません。むしろ強化兵は避けて病院の薬を狙ってほしいんです」
「ほう。つまり病院から物資を奪い取るわけだな?」
「奪い取るわけではありません!」
彼は声を荒げた。
「病院にいるのは全て死人ですよ。生存者がいるはずがありませんし、いれば救出します」
「ああ、悪かった。西洋人のつまらん冗談と思ってくれ。すまんな」
「そういう冗談はやめたほうがいいですよ」
少し機嫌を直した彼は忠告した。
「あの、病院の薬を回収するといっても中に死人があふれているのでは?」
翠蘭が不安そうに訊いた。
彼女の言う通り、病院は最も死人が生まれるため、どの地域でも最初に崩壊した施設である。
「もちろんそれと戦います。危険はあると思ってください」
「それならここの重機でどーんって……ああ、音を出しちゃまずいのね」
美朱が自分の言った過ちに気づいて撤回した。
「ええ。中にある医療機器を破壊するわけにもいきませんし、周囲にいる死人が集まってきますからね。病院内でも銃器は極力避けて1体ずつおびき寄せて撲殺する。言い方は悪いですが、暗殺方式で少しずつ減らしていくんです」
死人はその数こそ脅威だが、逆に言えば1体ずつなら武装した複数の人間でも対応できる。それゆえに編み出された戦術だった。
「もちろん強化兵は例外ですが」
「無人機を病院に入れて薬を取ってもらうわけにいかないんですか?」
翠蘭がふと思いついたことを質問すると彼は苦笑を返した。
「それが出来たら楽なんだけどね。病院内にそんなものを入れたら病院の無人機に排除されちゃうんだ」
「じゃあ、向こうの無人機を壊せばいいじゃない?」
美朱がまたも名案だとばかりに言った。
「あちらの無人機を破壊すると病院の人工知能が上位のテロ攻撃とみなす可能性があるそうです。その時は警報が鳴ったり、他にも面倒が起きる恐れがあるのだと病院関係者が教えてくれました」
「へえ……」
「あんた、警備員というより警官か軍人みたいにテキパキ答えてくれるな?」
ロニにそう指摘されると袁はバツが悪そうな顔をした。
「ははは、隠しきれませんか。実を言うと私は警察官なんです。警察署が壊滅して散り散りに逃げた先で金剛重工に保護してもらいました」
「そうだったのか。だが、制服は?」
「死人の血で酷い状態だったのでこちらの服をもらいました。情けない話でしょう?」
そう言った円の顔には悲しさと悔しさが浮かんでいた。
「そうは思わないさ。数の暴力には誰も勝てない」
「そう言ってくれるとありがたいです……」
袁はそれでも職務を全うできず、人々を守れなかった事が辛そうだった。
「死人とは国民を撃つことに躊躇はありました。でも、そんなものはあの群れを相手にしている最中に吹き飛びましたよ。人の津波みたいに襲ってきたんです。しかも強化服を着た仲間がやられた時はそいつも起き上がって……」
「大変でしたね……あの、病院はまだ電気が通ってるんですね?」
袁の顔が青ざめていたので翠蘭が無理やり話を戻した。
「ええ。自家発電で稼働し続けてます。停電している例外もありますが、そういう所はもう略奪されています」
「手ごわい施設ほど旨味が大きいって事か」
「ええ。人生は楽じゃないってことですね」
彼は苦笑し、諦観のこもった息を吐いた。
ちなみに、悟空は会話が意味不明なのですでに聞いておらず、連にジャンケンという遊びを教えてもらっていた。
「見学はどうだったかね?」
金剛重工の会議室に悟空たちを招いた周は向かい側に彼らを座らせたまま訊いた。
本来なら警備部長が座るはずのないトップの席に彼は座り、ロニが話した下剋上の話は真実味を増している。
その目には彼らが自分の提案を拒むはずがないという自信が輝いていた。
「ああ、満足行くものだったよ。俺達も結論を出した」
「ほう。というと?」
「俺はここに残り、残りは去ろうってことになった。この翠蘭って子の親はもっと東へ行ったところに田舎があってな。そこを頼るつもりなんだ」
ロニは翠蘭の父親について喋る気はなかった。
何と言うわけではないが、嫌な予感がしたからだ。
「そこへ着くまで非常に危険だと思うがね」
「肉親の無事を確かめたいというのは普通だろう?なあ、翠嵐?」
「は、はい……」
彼女は事前に伝えられていたので話を合わせ、それを聞いた周は軽く頷いた。
「ふむ……ところで、君の父は紅龍科技公司の陽浩然氏だろう?」
周の指摘は爆弾のように破裂し、直後に沈黙を生んだ。
「ど、どうして……知ってるんですか?」
狼狽した翠蘭は嘘をつくこともできず、あっさり認めてしまった。
「こちらで保護した者には警察官もいるんだ。彼らが持つ端末は特殊でね。かなり情報が得られるんだ」
「またそれか……」
ロニは額を手で覆って項垂れた。
仙丹を探知された時の二の舞であるという意味だった。
「無礼に思われるのは承知だが、受け入れた者に逃走中の犯罪者がいては一大事だ。我々の立場は理解してくれるだろう?」
「まあな……」
「君達が我が社を通過してどこへ向かう気だったのか。多少興味が湧いてね。だが、実家の前に君の父上の企業に保護を求めるべきだと思うがね」
ロニの嘘を嘲笑うように周は言った。
「あちらの企業がまだ機能してるなら人類にとって吉報だ。我が社を含めてどこも医療機器と医薬品が不足している。生産施設が機能しているなら是非とも協力体制を敷きたいものだ」
「なるほど。確かにそうだな。じゃあ、翠蘭たちはそちらに向かわせよう。目的地が多少変わるが、そちらには特に関係ないだろう?」
ロニが焦りを押さえながら言うと周は微かな笑みを浮かべた。
「それはやめた方がいい」
「は?」
ロニと他の面子が困惑した。
「道中が危険すぎる。あちらの企業が無事という確証もないのだろう?彼女はここに待機し、我が社から紅龍科技公司に社員を派遣しよう。それなら何の問題もあるまい?」
「いや、それは……」
ロニが相手の目的を考えてながら言葉を濁していると翠蘭が手をすっと上げた。
「よろしいでしょうか?」
「なんだね?」
「ご心配してもらえるのは大変ありがたいのですが、私は……やっぱり父に会いたいです」
「生存を知らせるなら動画を送ればいい。交互にそうすれば安全だろう?」
「確かにそうですけど……」
「もしも君に何かあれば父上は悲しむどころではない。なぜ保護しておかなかったのかと激怒して私たちが糾弾されるのは目に見えている。君が父上を思いやるならば父上の心情も慮ってあげるべきではないかね?」
彼の言う事も間違ってはいない。
彼女は答えに窮し、周はそれを同意とみなした。
「安心してくれ。こちらでの最低限の生活は保障する。では、君達はどうする?」
悟空、美朱、連に向けた質問だった。
「え?えーと、私たちは……どうしましょ?あははは……」
元々、翠蘭について行くつもりだった美朱は苦笑いした。
「君達の行動には口を挟む気はない。だが、諸君もここに残るなら最初に言った通り、我が社は相互扶助を大切にしていることを思い出してほしい。何もしなければ今の好待遇を維持するのは難しいと言わざるを得ない」
「え、えーと、じゃあ……お皿洗いとか?私、頑張るわ!」
美朱は媚びた笑顔を向けたが周に効果はなかった。
「今の社宅にいたまま生活を維持するには戦闘員や物資回収部隊に参加するのが必須なのだよ」
「おいおい、それはあんまりだろう?連は子供だぞ」
「私は怪我人よ!」
ロニと美朱が不満を露わにすると周は冷酷な目でそれを跳ね返した。
「避難民の暮らしを見ただろう?組織への貢献度が高ければ報酬が上がり、低ければ下がる。当然のことだ。ああ、ロニ氏と孫氏が仙丹や自分の貢献で得た報酬を譲るなら構わんよ?君達2人が良い結果を出して養ってあげてくれ。他の回収班もそうしている。それができない時は……」
そこで周は少し間を置いた。
「君達の待遇が今より下がると言うほかない」
「最初に良い暮らしをさせたのはそれが狙いだったわけか?」
ロニはもはや負の感情を隠さずに言った。
「否定はしない。相互扶助の重要さがわかってもらえただろう?」
宗はその言葉を最後に話し合いを打ち切った。
社宅に戻ると美朱がテーブルを叩いて怒りをあらわにした。
「あの男、怪我人の私もこき使う気なの!?」
「あ、あの……やっぱり皆で父の所へ向かいませんか?」
「そうね!ここよりずっとマシなはずよ!」
翠蘭の意見に美朱は即同意するがロニが首を振った。
「お前ら……いや、翠蘭、お前をここから出してもらえると思ってるのか?」
「え?」
「紅龍科技と父親が無事ならお前は交渉材料に使われる。ここから出ていこうとしてみろ。たぶん理由を付けて拘束されるぞ。というか、すでに軟禁されてるようなものだ」
彼が窓の外を見ると銃を持つ警備員の立つ姿があった。
貧しい避難民から社員を守るためと言われていたが、自分たちを監視する役目もあると今になって翠蘭は理解した。
「そんな事したら犯罪じゃないんですか?監禁とか……」
「まあ、そこは微妙……いや、なんで俺が擁護してるんだ?ああ。はっきり言ってそうだ」
ロニは金剛重工の弁護をしかけてすぐに撤回した。
「だが、警察も法律ももう機能しないんだ。力ある者が場を動かす」
「なあ、お前ら、何の話してるんだ?」
悟空は話の内容がわかっていなかった。
「早く翠蘭の父ちゃんのところへ行かないのか?」
そう問われた翠蘭は視線を一瞬彷徨わせた。
「でも……あの人が言うように道中が危ないのは本当ですし……」
「心配すんな!俺が守ってやる!翠蘭は父ちゃんに会いたいんだろ?」
黒い瞳がじっと見つめるとそこに映った彼女の顔がはっとした。
「そうよ!孫悟空先生がいれば平気よ!ていうか、警備員をボコボコにしてもらって逃げちゃいましょうよ!あっ、ご飯を食べた後でね!」
美朱はそれが名案だと信じたが、ロニは一蹴した。
「相手は銃で武装してるんだ。無茶言うな。英雄先生もやめろよ?」
「えー、だったらどうするのよ?私、あの広場で野宿させられるの?」
「すぐにはそうならないが……時間をくれ。どうするか考える」
不満と怒りで顔を赤くし始めた美朱に対してロニはじっと思案を始めた。
その頃、周は警備された治療棟の中へ入り、ある部屋の扉を部下に開けさせた。
扉の中にはベッドに横たわる一人の老人がおり、金属の枷で拘束されている。その血走った目が周を睨みつけた。
「貴様か……」
「社長、気分は如何ですか?」
周は丁寧な敬語で訊いた。相手の名は玉宇辰。本来なら金剛重工を背負う長である。社員に過ぎなかった男とその頂点にいた男。裏切りによって逆転した上下関係は片方に余裕と優越感を生み、片方に強い憎悪を生んだ。
「こんな真似をしてただですむと思うな……」
玉という男の目には憎悪だけでなく侮蔑もあった。
避難民を積極的に保護していた自分の元へ警備隊長の周がやってくると彼を拘束するように命令した時から2つの炎は燃え続けている。
だが、周には部下といくらかの社員を納得させるだけの言い分があった。避難民を限界まで受け入れ続ければその中で死人が暴れ出して内側から崩壊する可能性も高いためだ。
だが、拘束した玉社長を老齢と病歴から危険視し、重体患者と同じように拘束する事にはいくらかの反対意見もあった。もちろん周はそれを黙殺した。
「とうとう痴呆にかかりましたか、社長?あなたが考えなしに引き入れた避難民の一部が暴徒となり、警備員の1人が死にました。我々は死人になった仲間をさらに殺さねばならなかった。それをもう忘れましたか?」
そう喋った時の周の目には明らかな怨みの灯があった。
「この街の住人を見捨てるわけにはいかん」
「客観的に物事の行く末を見られない。あなたのような老人は今の世界には有害でしかないのですよ。この国に救う病巣だ。かつての時代では癌と呼ぶのでしょうな。今ではもう風疹みたいなものですが」
周は怒りと蔑みをこめて彼を見下ろし、気分を変えて不気味な笑みを浮かべた。
「昨日、あなたが受け入れた乞食よりもマシな人材を保護しましたよ。おかげで仙丹がかなり手に入りそうです」
「脅し取ったのか?」
「まさか。正当な取引ですよ」
周は本気でそう思っていた。
西洋人をリーダーとした避難民たちをこの場に縛るのは彼らの生命を保護するため。中でも紅龍科技公司の令嬢を死なせてしまってはあちらの企業にいる父親が悲しみ、逆に丁重に保護してやれば喜んで我が社と取引するだろう。それは人類の復興を加速させることにもなる。周は最大多数が幸福になることを疑っていない。
「全てを都合良く解釈する才能だけはあるようだな」
「呆けた老人の戯言として大目に見ましょう。最後の言葉ですし」
「……何?」
その言葉を聞いて玉は不吉なものを感じた。
「玉社長、ご存じでしょうが、死人が動き出すという前代未聞の事態は一刻も早く解決せねばなりません。人類を救うためにはあらゆる手段を尽くさねば。もちろん、何を犠牲にしてでも」
不吉な言葉はどこまでも暗く冷たかった。
「たとえば死人の研究。どうすれば彼らを効率よく無力化できるのか。あるいは殺せるのか。一刻も早く究明して死人の謎を解き明かさなくてはなりません」
「き、君がそれを解き明かせるとは思えんが?」
「ええ。私は医者や学者ではない。ですが、いくつも実験すれば思わぬ発見があるかもしれないでしょう?」
周の言い回しに彼は足元から這い上がる悪寒を感じた。
「これは私の部下がふと言い出したことですが……動く死人に仙丹を投与したらどうなるんでしょう?」
それを聞いた玉の目が大きく開いた。
「馬鹿な……死人が生き返るとでも思っているのか……?」
「さて。答えは誰にもわかりません。ですが、私は実験する価値があると思います。希少な仙丹をただの思い付きに使うのは気が引けますが、これで画期的な発見が得られるなら一本くらい安いものです」
そう言って周は小さな小瓶をポケットから取り出した。
透明な液体が中で揺れている。
「なんだ、それは!」
「これはただの塩化カリウム溶液ですよ。この治療棟ではよく死人が生まれますが、実験未使用の個体がちょうどいません。協力していただけますか?」
「やめろ!誰か!誰か、いないのか!」
「無駄ですよ、玉社長。1人の老人の犠牲で子供達の食事が少し増える。部下たちもそう納得してくれました」
周は拘束された老人の細腕に薬剤を注入した。
それは老人の体内をすぐに巡り、致死的な効果を発揮した。弱った心臓が暴れ出し、彼に激痛を与えたのだ。
「ぐ、お、お、や、やめ、ああああああああっ!」
「お辛いでしょうが、安楽死用の薬は易々と手に入りません。ですが、人類に多大な貢献ができるのですよ?」
彼の体がガクガクと震え出し、断末魔の悲鳴が部屋を満たす。
手足に付けた大きな拘束具がベッドと何度もぶつかり、やがてその音も悲鳴も小さくなって消えた。
「社長、気分は如何ですか?」
周は部屋に入ってきた時の質問をもう一度した。
白目を向き、物言わぬ躯となった玉の体は何の反応も示さない。だが、数秒後にその目がカッと見開き、皴まみれの口も大きく空いた。
「ぐっ、るる、じゅる、ぐるるうううぅっ!」
「ふむ。典型的な症例だな」
周は興味深そうに死人の挙動を眺めた。
厳重に拘束された手足は全く解けそうにないが、死人はそれまで以上の憎悪をこめて周の顔を睨み、噛みつこうと首を伸ばした。
彼は拘束具の性能に満足し、ポケットからもう1本の注射器を取り出した。仙丹である。
「人類を救うするために貢献できるのです。やっと役に立てますね、玉社長」
周はそう言うと死人となった上司の腹に仙丹の入った注射器を打ち込む。
全てを注射し終えると彼は何一つ見逃さないという目つきで死人の状態を観察した。
「じゅるるるっ!ぐ、ぐ、ぐげ……ぐぎぃっ!」
「おお?」
死人となった玉が苦しみ始めていた。
おそらく世界で初めて。死人への仙丹の投与実験を観察する周の目は狂気に取りつかれた科学者のそれに酷似していた。
「ぎが、が……ぁ……」
動き出した死人の体が弛緩した。
周は1分待ってみたが動き出す様子はなかった。
「まだ断言はできない……が、どんな毒薬を注入しても効かなかったのにこれは……」
周は目に涙を浮かべていた。
死人はすでに死んでいる。そのためこの治療棟で亡くなった者たちにはどんな毒物を与えても効果はなかった。
専門家でない周には医学的な理由はわからないが、それを殺す毒物を発見したことで世界の救世主として称えられる自分が頭に浮かんでいた。
「素晴らしい……ただの思い付きだったが……私は神に選ばれたのかもしれん……」
自尊心はもはや信仰に達しようとしていた。
だが、彼はいくらか気を引き締め直した。
価値のある情報は独占してこそ意味がある。彼は無能者たちに世界を任せないためにも死人の殲滅は自分が指揮をとり続け、金剛重工を国家として繁栄させなければならないと。
「まずは仙丹の回収……そして可能な限り領土を広げねばな……」
周はその部屋から出ると部下たちに指示を出し始めた。
彼が部屋を去った直後、遺体の指先がぴくりと動いたことには気づかなかった。
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