第2話 西洋人と少年

「生き物が死ぬと魂が極楽か地獄に行くのは知ってるか?」

 悟空は傍にあった椅子に座って言った。

「一応は知ってます……」

 誰も信じていないけど、と彼女は言えなかった。

「死んだら魂が離れて肉体はただの器に戻る。だが、死にたての体に地獄に漂ってる気が触れると暴れ出すんだよ」

「気、ですか?」

「ああ。地獄は悪党どもの怨念の気が詰まってるからな。昔は穴がちょっと開いてて面倒が起きたんだが、それはとっくに塞がってる。でも、人間が地上から穴を開けやがったんだよ」

「どうやってそんなことを?いえ、そもそも穴が開くんですか?」

「さあ?さっぱりわからん」

 悟空は堂々と言い放った。

「とにかく穴を見つけて塞がなきゃならないんだが、心当たりはないか?」

「え……そう言われても……」

 地獄や気など空想の産物だと思ってきた翠蘭にわかるはずもない。

 そう伝えようと思ったが、彼女にある不安が浮かんだ。自分が知らないと言えばこの孫悟空という男は他のどこかへ行ってしまうのではないか。たった一人の人間を保護するよりも世界を救う方が重要な事はどんな馬鹿でもわかる。

 それでも翠蘭はこう思ってしまった。父も母もいない今、彼に守ってほしいと。

「私には……わかりません」

「そうか。それじゃあ」

 悟空が何かを言おうとした時、彼女は恐怖を感じた。

 その先を言わせたらいけないと。

「あの!わ、私の父に聞いてみませんか?」

「お?翠蘭の父ちゃんは偉いのか?」

「は、はい。一応……いいえ!けっこう偉いですから!」

 彼女は罪悪感を覚えながら嘘の理屈を組み立てた。なにも自分のせいで無数の人間が死ぬわけではない。そんな事はないと自分に言い聞かせながら。

「父の会社は安全らしいです。人もたくさんいるはずだから何かわかるかもしれません。だから……一緒に行きませんか?」

「おお!案内してくれるのか?」

「は、はい」

「ありがとよ!」

 屈託のない笑顔を見せて悟空は喜んだ。

 逆に翠蘭は顔が引きつりそうになるのを堪えねばならなかった。

「どの道、お前を安全な所に連れていかなきゃな。そこまで遠いのか?」

「そんなに遠くはないんですけど……」

 それは高速の無人車ならばの話だった。

 こんな街の状況では徒歩でどれだけかかるか予想も出来ない。もちろん生きて辿り着けるかどうかも含めて。

「そうか。じゃあ、今は少し眠った方がいいな」

「え?」

「目に酷い隈ができてるぞ。寝てないんじゃないか?」

「そうですけど……少しくらい平気ですよ」

「その顔で言われてもな」

「え?」

 彼女はそう言われて鏡を確認し、今までと別の理由で眩暈がした。

 こんな顔になっているとは思わなかったからだ。自分がどれだけ寝てないかと自覚すると急な疲労感がやってきた。

「じゃあ、少しだけ休ませてもらいます。少しだけ。孫さんは……ここにいてくれますか?」

 恐る恐る返事を待つ彼女に悟空は少し考えた。

「いや、お前が寝てる間に外の連中を片付けてくる。でなきゃお前を連れて出られないだろ?」

「そ、外に出るのはやめてください!」

 彼女は一人にされる恐怖に耐えられず、頭を下げて言った。

「ここにいてください……お願いします……」

「……わかった」

 彼女は申し訳なさそうにし、ソファで横になった。

「そこが寝所なのか?」

「違います。でも、今はここで眠りたいんです」

 翠蘭は悟空から離れることさえ怖くなっていた。

 誰でもいいから傍にいてほしいと思った。

 彼は頭をぽりぽりとかいて言った。

「そういやお前の母さんはどこにいるんだ?」

 その質問に彼女の心臓はどくんと高鳴る。

「母は……先に避難所に行きました」

 彼女はまた嘘をついた。

 唇がかすかに震え、表情をじっと見た悟空は何も言わず、そうかと短く返事をした。

 罪悪感が膨らんだ彼女は視線から逃れるように目を閉じる。こんな状態で眠れるだろうかと思っていたが、食事と小さな安全が手に入ったおかげか一気に睡魔が襲ってきた。

 これで何も考えずにすむ。そう思うと翠蘭は自分が生きたいと望んでいるのかわからくなり、その疑問もすぐに消えていった。夢は見なかった。

 いくらか時間が過ぎて彼女が目を開けた時、悟空はカーテンの隙間から外を見ていた。すでに日は沈んでおり、月と星の光がそこから差している。

「起きたか」

 彼は翠蘭に一度も視線を送らずに言った。

 それに彼女は驚く。身じろぎ一つしていなかったからだ。

「はい……どうしてわかったんですか?」

「起きてる時は気の流れが変わるからな」

 気。御伽噺の産物だと彼女は想っていたが、発言者が御伽噺の人物なのだから信じるしかない。彼女が個人端末を見るとちょうど午後9時になっていた。

「すみません。こんなに寝ちゃうなんて……」

「いいさ。寝るのは気持ちいいからな。でも、夜に外に出て大丈夫か?俺は夜目が利くけど、お前は?」

「え……だ、大丈夫です!確か、カメラに暗視機能がついてて……」

 彼女は個人端末を操作してそれを悟空に見せた。

 暗闇でも光を増幅する機能があればかなり遠くまで見通せる。それを知った悟空は目を瞬かせた。

「妖術か」

「妖術じゃないんですけど……」

 彼女は説明しようかと思ったが、上手く語れる自信がないので話を切り上げて外に出る準備をした。といっても、悟空が持って来てくれた食料を元々あった避難用袋に入れただけだ。

「孫さんは何か欲しいものはありませんか?うちのある物なら好きに使ってください」

「お?それじゃあ、武器はあるか?槍とか剣とか棒とか」

 真面目に聞いた悟空に彼女は固まった。

 そんなものを家族は1人も持っていない。

「そ、それはないです……すみません」

「そっかぁ。この棒、そろそろ折れそうなんだよな」

 あちこちがひん曲がった金属棒を見て彼は困った顔をする。

「じゃあ、衣をどれか貸してくれないか?匂いが酷いんだ」

「衣?あっ、服ですね!」

 悟空は死人の血や腐肉で汚れており、それに気づいた彼女は父親の部屋から全ての衣服を引っ張り出した。

「好きなのを着てください」

「いいのか?」

「はい!」

 父親と生きて出会えたらいくらでも謝ろうと彼女は思った。

 悟空は見慣れない脚絆と上着の中から適当なものを選び、それを身に着けると姿が一気にこの時代の人間らしくなった。いくらか体術の型を行って動きやすさを確かめると満足そうに頷いた。

「よし。助かったぜ」

「じゃあ、行きましょうか?」

 扉をゆっくり開き、悟空が先に立って周囲を確認する。

 空には不気味なほど黒い雲が月と星々を覆っていた。近くに死人はいないが、唸り声が狼の遠吠えのように響いてくる。翠蘭は隣の部屋を通り過ぎる時に一瞬立ち止まりそうになったが、頭の中に浮かんだことを無理やり消し去って悟空の後を追った。

 彼女のIDカードを使ってエレベーターを使った時、悟空はこの乗り物について楽しげに質問して雰囲気が少し和らいだが、1階から外に出ると冷たい夜風がそれを奪った。

「行くぞ」

「はい」

 二人は気を引き締めて廃墟となった上海の街を歩きだした。

 自家発電する設備や施設には電気が通っており、悟空は街灯や建物の照明に驚いたが、店舗の多くは破壊され、血が付着した無人車がいくつも放置されている。

 翠蘭は個人端末に地図を出してみた。GPSなどほとんどの機能が失われているが地図そのものは使用可能だったので目的地の方向を彼に教えるが、ほとんどの大通りは死人の数が多すぎるため進めず、狭い裏通りを死人に警戒しながら移動するしかなかった。そのため二人の歩みはなかなか進まなかった。

「すみません。私のせいで……」

 翠蘭は照明の少ない小道を歩きながら謝罪を口にした。

 本当なら悟空が彼女を抱え上げて建物の屋根を疾走すればいいのだが、どれだけ体に負担がかかるかわからず、最悪、骨が折れるだけではすまない。そのせいで悟空は緊急時だけその手段を使うと告げていた。

「車が使えないとこんなに不便なんですね」

「あの転がってる箱の事か?」

 悟空は不思議そうに無人車を眺めた。

 馬も御者もいないのに走る馬車。そんな認識をしてる彼は多くの疑問を棚上げしていた。

「いざとなったら自分の足がものを言うってことだな。お師匠様と西に旅した時もそうだったんだよ。筋斗雲で飛んでいくのは駄目だったからなあ」

 悟空は懐かしむように言った。

 その話は本当だったのかと翠蘭は驚いたが、西遊記の真実よりも自分の体力の無さの方が気になった。仮想現実に入り浸ってる人間というわけではないが、まだ体は回復しきっておらず、足取りは決して軽くない。これ以上の迷惑をかけまいと足を必死に動かした。

「そういえば……動く死人って誰の遺体でも変わらず動くんですか?」

 彼女はふと浮かんだ疑問を口にした。

 自分のように体力のない人、老人や子供の死人だとどうなるのだろうか。幸運にもまだお目にかかってはいない。

「変な話だが、死人は誰でも元気一杯だ。赤ん坊でも獣みたいに飛び掛かってくるぞ。理屈はわからねえが、甘く考え……あれ?そういや……」

 今度は悟空が疑問を口にする番だった。

「黒い甲冑みたいなのを付けてる奴は獣どころじゃなかったな。あれはなんだったんだ……?」

「甲冑……?それって強化服じゃないですか?」

「強化服?」

「警察や軍に支給されてる装備です」

 彼女もそう詳しくないが、人体の力を何倍にも増幅するもので50年以上前から複数の分野で使われていると知っている事を話した。

「悪用される危険があるので基本的に民間人は持てません。昔は介護現場みたいなところで……」

「待て」

 悟空は彼女の会話を中断させた。

 呑気に話してる場合ではないと思い出した彼女は詫びようとしたが、それは別の理由だった。 

「誰か戦ってる」

「え?」

 彼女が耳を澄ませると死人の不快な叫びがかすかに聞こえてきた。

 続いて発砲音も。

「あっ、警察か軍の人かも!」

 彼女は保護してもらう期待を持ったが、それは次の言葉で終わる。

「よく知らんが、孤立して追われてる感じだなぁ。1人か2人……おっ、連中を引き連れてこっちに来るぞ」

 片耳に手を当て、音を聞き取りながら悟空は眉を寄せた。

「え!?ええと……」

 彼女は個人端末に表示された地図を見るが、どの道へ向かっても死人が多そうな通りに出てしまうと気付いた。

「どうしましょう……」

「さっそく緊急ってやつだな」

「え?どう……きゃあっ!」

 悟空は武器を手放して彼女の腰に手を回すと放置された無人車の上に飛び乗り、そこから建物の欄干を駆け上がって屋根に上った。本当は一度で跳べたが、彼女に負担をかけないためだ。

「そこで待ってろ」

「ええ!?」

 悟空はそれ以上言わずに再び飛び降りると鉄パイプを足ですくい上げて走り出した。

 



 あの避難所に入ったのは間違いだった。

 そう後悔ながらロニ・アードルは死人たちから逃げていた。

 上海で緊急速報が流れた時、彼は誰よりも早く国外脱出を始めたが、政府は放送前から空港と港を封鎖していた。さらにあらゆる無人車の操作を掌握し、その上で崩壊してしまったのだから逃げるには徒歩しかなかった。

 死人たちが溢れだし、秩序が崩壊した上海の中をひたすら逃げた彼をある文化会館の避難所は受け入れてくれた。といっても、彼がこの国の言語に堪能であり、医者であると嘘を言ったおかげが大きかっただろう。

 すぐに避難所は満員になり、新たにやってくる人々は暴力を用いて追い返さなければならなかった。それでも避難所の中は食料の分配を決め、ぎりぎりの秩序を保って20日間続いた。だが、避難者の誰かが死ねばその直後に暴れ出すと誰もが思った。その可能性が高い老人たちは少数が自ら、大部分は強制的に隔離された。だが、人が死ぬのは老衰だけではない。ロニにもはっきりした犯人はわからないが、誰かが家族の体調悪化を隠し、その死体は家族を襲った。

「おい!まだ走れるか、連!?」

 彼は自分が手を握る少年に問う。

「う、うん!」

 連と呼ばれた子は泣きながら必死に足を動かした。たった5歳だった。避難所が恐怖と悲鳴に満たされ、ロニは脱出しようとした際に一人で泣いている子供を担ぎ、共に逃げた。彼の両親が生きているかは全く分からない。

 ロニは後ろから追いかけてくる死人の一体に発砲した。

 あと4発、と頭の中で数える。追いかけてくる死人の数はそれ以上。どうやっても死人の方が多いし、撒けるとも思えない。

 死んでも子供を守るか。それとも子供を餌にして自分だけ逃げるか。あるいは弾丸を別の目的に使って自分たちを恐怖から解放するか。彼はただの死よりも苦しい決断をせまられていた。

「神のクソったれ……」

 彼は呪いの言葉を吐いた。

 自分は聖人ではないが、こんな決断をさせられるほど屑ではないと言いたかった。

 夜の道をひた走る彼の目に前方から向かってくる人影が映った。

 挟み撃ち。また1発撃たされる。いや、2発か。絶望の濃度がさらに上がるが、一体だけなら良しと思うことにした。

「死んどけ!Son of a bitch!」

 母国語で100年以上前から続く罵倒を叫び、彼は銃弾を発射した。

 狙いは完璧だったらしく人影の頭が小さく跳ねた。

「痛えっ!」

「はあ!?」

 言葉が耳に届き、彼は愕然とした。死人は言葉を叫ばない。ロニは生存者を撃ってしまったと後悔し、直後にありえないと感じた。

「おい!俺は味方だぞ!」

「す、すまん!」

 彼は混乱しながら謝ったが、その対象は謝罪を言い終える前に彼の横を通り過ぎていた。瞬足で走り抜け、後方の死人達に飛び掛かる。

「せいやあぁぁぁっ!」

 ロニは見た。ただの鉄パイプをまず一体の頭に打ち下ろした男の姿を。それを残像を残しながら振り回し、死人たちの頭を粉砕していく男の姿を。

(撲殺すれば音を立ち難く、残弾も気にせず済む。だが、それを実行できる人間がいるのか?そ、そうか。強化服だ……)

 彼の元に常識が救助に駆け付ける。

 人間に重機の力に与えるそれなら今起きている戦いも説明がつく。平素な服にしか見えないが、きっと内側に仕込んでいるのだろう。あるいは手足をわざと義手にするサイボーグマニア。そう思って彼は自分を納得させるしかなかった。

「ああっ!!」

 突然、その男は焦った声を出す。手持ちのパイプが折れたためだ。

 死人はあと2体残っている。

「おい、これを……」

 ロニは自分が拾ったある武器を男の方に投げようとした。

 だが、それよりも早く彼は拳と足、徒手空拳を以て死人達を攻撃し始めた。

「ちいっ!服、借り物なんだぞ!」

 不思議な文句を言いながら拳と足は凄まじい威力で死人を攻撃、いや、破壊していく。2体は足をへし折られて転倒し、その頭を踏みつけて粉砕されるまで3秒もかからなかった。

「すごい……」

 小さな子供の感嘆とした声が夜風に乗った。それが届いたのか、死人を全て処分した素手の戦士は彼らの方を見た。

「また集まってくるかもしれない。すぐに離れろ」

「あ、ああ……」

 そう言った時、ロニは男の額が小さく出血しているのに気づいた。

 自分が撃った銃弾だと気付き、彼は軽傷で済んでる謎を棚上げして焦る。言ってしまえば殺人未遂なのだ。

「その傷は大丈夫か……?」

「ん?」

 男は自分の額を押さえた。

「気にすんな」

「そ、そうか……」

「俺は待たせてる子がいる。用がないならもういっていいか?」

「ま、待ってくれ!」

 このままだと今の二の舞になるとわかっており、ロニはこの男に同行しようと決めた。正確に言えばそうするしかなく、嫌な決断を迫られないだけ気分が軽いと彼は思った。


「あ、孫さーん」

 囁きほどの小さな声を出して翠蘭は屋根から手を振った。

 一刻も早くこの状況から解放されたかった彼女の元へ悟空は一跳びで上がると彼女を地面に下ろす。その跳躍力を見ると彼が連れてきた連という子供は再び目を丸くした。

「悪い。けっこう数が多くてな。借り物、少し汚しちまった」

「いいんです。それより額の怪我……」

「舐めときゃ治るさ」

「駄目ですよ。応急処置しますからどこかで……でも、その二人は?」

「ああ、そうだった。なあ、お前らは誰だ?なんでついてきたんだ?」

「はあ……はあ……ちょっと待ってくれ……」

 碌に話をせず、ぎりぎりついて来れる速度で走らされた西洋人の男は息を切らしていた。子供は悟空が背負ってきたので平気である。

「僕たち、避難所にいたの。でも、そこで死んだ人が暴れて……」

 連が代わりに答え、そこで家族の事を考えたのか言葉が詰まった。

 事情を察した彼女は悲痛を浮かべた。

「大変だったね……」

「俺はロニだ。20日くらい前に観光旅行してたらこのザマさ。事情を細かく話したいが、ここは安全なのか?」 

「いいや」

 悟空は些事のように言った。

「なら、身を隠そう」

 ロニの提案により4人は地図を見ながら死人の視界に入らない場所を探した。

 一軒家のガレージを見つけ、今では珍しい手動式のシャッターを閉めて翠蘭は持ってきた照明を付けた。4人は床に座り、彼女は荷物から飲料を出すと連にそれを渡し、飲んでいいよと言った。

「いいの?」

「うん。喉、乾いてるでしょ?」

 連は少し迷っていたが、生存本能に負けてクックッと飲んでいく。

 彼女がお菓子を渡すと泣きながら食べ始めた。

「ぅ……ぁぁぁ……」

「うん、辛かったよね……わかるよ……」

 彼女は優しく連の頭を撫でてあげ、自身も頬を濡らした。

「……話した通り、今じゃどの避難所も満杯だろう」

 ロニは手短に事情を説明した後、そう結論を出した。

「しかも入った所で外より安全とは限らない。お前たちも避難所を目指してるんだろ?正直、どこを目指せばいいかわからんってのが現状だ」 

「そうか。弱ったなぁ」

 額に絆創膏を貼った悟空は言った。

 翠蘭が持ってきた救急箱に入っていたものだ。

「俺はいいけど、翠蘭は保護してもらわないと困る」

「すみません……」

 彼女は今日何度目かの謝罪を口にした。

「なあ、言いたくないなら全然構わないんだが……」

 ロニは強く前置きした。

「お前らはどういう事情があるんだ?強化服を持てるなら政府関係か、そういう身内がいるんだろ?保護してもらえないのか?」

「強化服?」

 悟空が聞き返すとロニと彼はお互いに変な顔を向け合うことになった。

「あれだけ見せたなら隠す気はないんだろ?もちろん都合が悪いなら俺は見なかったことにする。神に誓うよ」

「あの……それはちょっと複雑な事情が……」

 泣き止んだ翠蘭は質問の意図に気づき、こちらも困った顔になった。

「孫さんは……その……強化服はつけてないんです」

「は?冗談はやめてくれ」

 ロニは苦笑し、悟空の腕に触れた。

 服の中に金属装甲があると信じたが、手の感触は全く違っていた。

「馬鹿な……義手か?だが、この感触は……」

「妖術か?そんなもの使わねえぞ」

「そんなわけがないだろ……」

 彼はついに悟空の服をまくり、やや毛深い生身の腕を見て混乱が限界に達した。

「お前、どうなってるんだ?そういえば俺が頭を撃った時にも平気だったが、さすがにそこは人工ってわけに……」

「え!?」

 今度は翠蘭が驚く番だった。

「撃ったって……なんでそんな事したんですか?」

「事故だったんだ!それより、お前の体はどうなってる?擬態ロボ……いや、それでもここまで人間そっくりには……」

「俺は人間じゃない。妖猿だ」

 悟空が脚絆の隙間から尻尾を出すとロニは稲妻に撃たれたような顔になった。

 それから翠蘭が補足しつつ、悟空が事情を掻い摘んで話すのに5分もかからなかったが、ロニは預言者を見る無神論者という顔つきになった。

「お前が孫悟空と名乗った時は冗談か奇抜な親がいたと思ったが……悪いが、信じるのは難しい……なにか……もっとわかりやすい証明はないのか?その……天界とやらが存在するという……」

「でも、世界中で死んだ人が動き回ってますよ。これはどう説明するんですか?」

「それはナノマシンや生物兵器で説明できる。実際、大規模なテロだと思う」

 翠蘭の指摘に彼は眉間を押さえながら答えた。

 彼にとって天国や地獄は宗教学の話であって、その上で実在性が議論できるものではなかった。

「概念さえはっきりしないんだ。そんなものが原因などと……」

「この尻尾はどうなんですか?」

 彼女は悟空の尻尾を掌で指しながら迫った。

「手術で作れる。耳を尖らせて異星人になる連中だっているからな」

「もう!」

「お兄ちゃん、本物の孫悟空なの?」

 今まで話に参加しなかった連が希望と期待に満ちた目で彼を見た。

「おうっ。本物だぞ」

「如意棒は?」

「持ってこれなかった」

「筋斗雲は?」

「それも駄目だった」

「じゃあ……変化の術は?」

「おっ、それなら……」

 悟空は立ち上がると両手の指を奇妙に曲げた。

「変化!!」

 翠蘭が、そしてロニも固唾を飲んで見守った。

 だが、何も起きなかった。

「ありゃ。これも使えなくなってるのか?無理やりこっちに来た時の影響だな」

「できないの……?」

 連の失望した顔が待っていた。

「悪い。今は無理みたいだ」

 悟空は片手で連の頭をぽんぽんと軽く叩いて詫びた。

「孫悟空はすごく強い英雄じゃないの?」

 彼はポケットから小さな装飾品を取り出した。

 如意棒を持った孫悟空をやや可愛くデフォルメしたアクセサリーだった。

「なんだ、それ!?まさか……俺?」

 悟空は怪しみながらそれを凝視した。

「うん……」

「それ、最近流行ってるテレビの……あっ、劇みたいなものです」

「俺の劇があるのか?」

「はい。昔からたくさん作られてますよ」

「孫悟空は皆を助けてくれないの?僕のお父さんとお母さん……」

 連が目に涙を浮かべ、どうしようもない雰囲気が出来上がった。

「一瞬、変身できたらどうしようかと思ったが……」

 ロニは気を取り直して言った。

「とにかく信じることはできん」

「そんな……」

「だが、全部嘘とも思わんさ。今、お前達がそんな嘘をつく理由がない」

 二人とも頭が変になっただけかもしれんが、と彼は付け加えた。

「お前が中華連邦に語られる本物の英雄って可能性も零じゃない。地獄と通じた穴とやらが実在して、それを塞げば死人が元に戻るっていうなら少し協力しておくかって感じだな」

「お?手を貸してくれるのか?」

「少しだけな。俺に沙悟浄や猪八戒の役を振らないでくれ」

「あれ?詳しいんですね」

 翠蘭はこの西洋人が意外と詳しいことに驚いた。

 しかも超常的な現象を信じない男が。

「文学は全然別の話だ。で、確認したいんだが、21日前に死人が動き出したよな?その地獄と通じる穴を誰かが開けたのも21日前ってことか?」

「一応な」

「一応?」

「穴は20年くらい前から地獄の低いところに開けてたらしいんだが、どんどん増えて17つ目が無間地獄……って言ってもわからねえか?一番深い地獄に繋がったらしい。それが原因だって言ってたな」

「え?穴って1つじゃないんですか?」

「おいおい。お嬢ちゃんも聞いてなかったのか?」

 ロニは呆れた。

「は、はい。一つだとばっかり……」

 それは悟空が説明を省きすぎたのが原因だった。

 本人は悪びれもしない。

「他の穴も地上に怨念やら邪気が流れ込んでるが、そっちの影響は何千年も先らしいんだ。でも無間地獄はまずい。あそこは強い怨念の塊だから地上も一瞬で汚染される……ってお師匠様が言ってた」

「20年前……最近になって17つ目が稼働……空想にしては妙に……」

 ロニは口元を手で覆い、その顔からは血の気が引いていた。

「心当たりがあるんですか?」

「お嬢ちゃん、本気か?20年前に起きた世紀の大発見。科学か社会の授業で習っただろ?」

 彼女はそう言われて数秒後、はっと気づいた。

「あっ!永久機関の発見!」

「なんだそりゃ?」

 悟空には意味がさっぱりわからなかった。

「無限にエネルギーが引き出せる仕組みが見つかったんです。そうですよね?」

「ごく小規模だがな」

 ロニは手短に説明した。

 それは欧州の量子科学研究所の実験中に偶然起きた事故だった。エネルギーの総量が増え続けるという熱力学の基本法則を無視した現象は当初は装置か計算のミスだと思われた。しかし各国の研究所で再現性がいくつも得られたことでエネルギー保存の法則は間違っていた、あるいは例外があった事が半年後に発表された。それが事実上の永久機関であると認めたのだ。

 国家の電力を賄う規模のエネルギーは未だに取り出せないが、各国はその実現に向けて20年前から熾烈な研究競争を続けている。

「莫大な金がかかる研究だから今のところ15か国の研究所しかやってない」

 ロニは言った。

「だが、密かに研究してる国がもう2つあっても全然驚かない。宇宙の法則を無視するような現象を扱うのは危険って声もあったが……」

「私が学校で習った時にも聞きました」

「開発競争に出遅れたらその国は終わりだ。無限のエネルギー。誰も責められん。だが、地獄が存在しててそこと繋がってるって?いくらなんでも無茶な……」

「要は17番目の穴を塞げばいいんだ。場所を知ってたら教えてくれ。壊しに行く」

 悟空はこともなげに言うが、ロニは首を振った。

「21日前にどこかの国が研究を始めたって話はない。極秘だろうな。あるいは企業がやってるのかもしれんが」

「ロニさんは今の話を信じてくれるんですね?」

「は?いや、そういうわけじゃないが……」

 彼は迷っている様子だった。

「普通なら子供の妄想だ。でも物理の法則が間違っていたのなら地獄の存在を否定しきれない……かも……いや、待て。天国が本当にあるとして、なんで天国の連中は放置したんだ?地獄と地上を繋げるなんて大罪じゃないか?」

 ロニからそう問われた悟空はきょとんとした。

「仏神はもう呆れて人間を救わないってことなんじゃねえか?反対してるのはお師匠様と俺くらいだぞ」

「いや、そうじゃなくて……こうなる前に警告はしなかったのか?危ないぞって」

「したんじゃないか?」

「どうやって……おい、まさか……ああ……そんなわけが……」

 呻きにも似たロニの言葉を拾えなかった翠蘭は困惑し、ほとんど理解できてない連はきょろきょろと3人を見回した。

「つまり、あれか?西洋や東洋で宗教家がやってた反対運動は本物だったのか?」

「たぶんな」

「勘弁してくれ……」 

 ロニはそう言って項垂れた。

 永久機関が発表された際にはその研究に反対する組織や宗教集団が少なくなかった。宇宙の基本法則に関わる事なので他の研究よりも抗議は大きかったが、それは物事の変化を恐れる臆病さか自分たちの権威が減るからだと人々は思った。

 それに本物の神々の警告が混ざっているなど信じなかったのだ。

「もっとわかりやすい形で警告してくれないのか?こう、地上の世界に降臨するみたいな……」

 これに悟空は呆れたように言った。

「なんでそこまで懇切丁寧にやらなきゃいけねえんだ?美味しい話には裏があって当たり前だろ。なんでお前らはその……なんとか機関か?それを危なくないって思ったんだよ」

「なんでって……ははは……」

 ロニは静かに笑い出した。

「そうだな。人間ってのはどうしようもない……」

「ねえ、お姉ちゃん」

 連は不安そうに彼女に聞いた。

「僕たち、どうなるの?皆、死んじゃうの?」

「え?そんなことないよ。だって……」

 途方に暮れた翠蘭は救いを求めるように悟空を見た。

 視線を受けた彼はすっと立ち上がり、背伸びをした。

「まあ、滅びないように頑張るしかないだろ。で、ロニだっけ?17番目の穴はどこかわからないのか?そろそろ移動したいんだが」

「この話が全部妄想じゃないって前提だが、候補くらいはある。でも、それを探して潰すよりも手っ取り早い解決法がある」

「なんだ?」

「永久機関の危険性をお前が世界に訴えるんだ」

 ロニは急に真面目な顔になった。

「この世の終わりみたいな状況だが、まだ通信機器は使えるはずだ」

「あの……でも、孫さんの言う事を皆信じてくれるんですか?その、孫悟空だって……」

 当然の疑問を翠蘭が口にした。

 孫悟空が天界から来て地獄と地上の通路を塞ぎに来た。そんな話をまともに信じる人は残念ながらごく少数だろう。この悟空が本物の孫悟空だと証明する方法はないからだ。

「この尻尾を見りゃいいだろ?」

 彼は尻尾を揺らして言った。

「やめとけ。この時代じゃ子供でも騙せない。今のお前はせいぜい強化骨格を体に埋め込んだ怪力男だ。でも遺伝子はどうなんだ?」

「あ、そうか!」

「はん?」

 悟空はまた意味がわからない言葉に出会った。

「体の中にある生き物の設計図だ。それを調べたらお前が人間じゃないって証明できるかもな。代わりに何の遺伝子が出てくるか知らないが」

「そうですね!そっか。遺伝子……なんで思いつかなかったんだろ」

「お嬢ちゃん、学校で生物の授業をさぼったな?」

「さぼってません……」

 翠蘭は少し恥ずかしそうに言った。

「へー。まあ、なんでもいいや。それを調べたら人間は地獄の穴を塞いでくれるんだよな?」

「ここまで言ってなんだが、それは微妙だ」

 ロニは複雑な顔をして言った。

「検査が出鱈目だと言われたらそれまでさ。仮に信じたとしても、ありったけの情報を吐かされて終わりかもな。永久機関をやめたら今の状況が終わるかわからない。だったら研究を続けようって思う奴もいるはずだ」

「そんな!人が大勢死んでるんですよ!」

 彼女は狂人を見る様な目を向けたが、ロニは苦笑で応じた。

「こんな状況でも人類が滅ぶと決まったわけじゃないんだ。対策をとって、これが当たり前の世界で生きていこうって人間は必ず出てくる。永久機関の可能性を手放したくないって奴。権力の空白地帯を利用して成り上がろうって奴。人間が本当に賢かったら戦争は一度も起きなかったはずだ。違うか、お嬢ちゃん?」

「それは……」

 翠蘭は言葉に詰まった。

 それは残酷な事実だと彼女も知っている。

「だが、俺も死人が動き回る世界は嫌だ。そういう常識を持ってる連中がいる機関で人間じゃない証明が出来れば17番目の永久機関を壊そうって動きは必ず出てくる。少なくともお前一人で世界中を走り回って探すより早い。これは断言できる」

「えーと、つまり俺にどうしてほしいんだ?」

「まずは機能してる組織を見つける事だ。国が理想だが、中華連邦の中枢はもう無理だろうな」

「そうと決まったわけじゃ……」

 翠蘭は国が滅んだと言われて反論しかけたが、国営放送も一切なくなった現状を見る限り望みは薄かった。

「地方政府か企業を探すんだ。こんな時でも大きな所は食料とエネルギーを確保して生き残ってるはずだ。この近くなら金剛重工や紅龍科技公司がある。そこに行ってみないか?」

 ロニが挙げたのは従業員2万人を超える重機の製造企業。

 そして翠蘭の父が勤めている企業だった。

「どうした?」

「え?」

 彼女の変化はわかりやすく、ロニは不安そうな顔を見せた。

 彼はそこに行きたくないと言い出されることを危惧していた。

「そこは……父の勤めてる会社なんです」

「本当か!?そりゃ最高じゃないか!」

 ロニは地獄で天の救いを得たように喜んだ。

「それなら話が早い。お嬢ちゃんから親父にこいつを紹介するんだ。あの手の企業なら遺伝子検査は必ずできる。まあ、そこでただの人間と証明されたら笑うしかないけどな」

 彼はそう言って笑った。

 言っていることはそれなりに筋が通っており、翠蘭が反対する理由は見つからなかった。

「それから、孫……と呼んでいいよな?お前はこれからやたらと天界や何やらの話をしない方がいい」

「なんでだ?」

「頭がおかしいと思われる」

 ロニが投げた直球に彼は不満そうな顔をした。

「俺はおかしくねえ!」

「お嬢ちゃん、他の奴はどう思うと思う?」

「え……」

「ほら、否定できないだろ。尻尾も見せるな。怪力を誰かに見られたら強化服のおかげだって言うんだ」

「なんでそこまでしなきゃいけないんだ?」

「企業に着くまで誰とも会わないわけじゃないんだ。お前が怪物だって思われたらお嬢ちゃんも同じ目で見られるんだぞ?最悪、攻撃される」 

 悟空は腕組みをして少し考えた。

「うーん、そいつは嫌だな」

「本当は名前も変えてほしい。無理か?」

「駄目だ!名前は大事なもんなんだぞ!」

「まあ、ぎりぎり許容範囲か。今どきはありえる名前だよな、お嬢ちゃん?」

「あの、お嬢ちゃんという呼び方はやめてもらえますか?」

 翠蘭が抗議した。どうにもからかわれている気がしてしまう。

「すまんな。でも俺達は親友の振りをするんだ。あだ名がないと不自然だろう。蘭蘭は駄目か?」

「それはやめてください」

 彼女は一瞬暗い顔になった。

 母がよく使っていた愛称だった。

「翠蘭でいいです」

表情の変化で何かまずい事を言ったと気づいたロニは短く「わかった」と言った。

「じゃあ、ここからは取引だ。孫、これを使ってみないか?」

 ロニが背嚢から取り出したのは折り畳み式の黒い警棒だった。

「お?棍棒か?」

 悟空はその警棒に強い興味を持った。

「道で拾った。たぶん警官の装備だ。材質はタングステン。世界一硬い金属だ」

 そう言ってロニは警棒のスイッチを押すとガシャッと音を立てて長さが3倍以上になった。

「伸縮機能付きだ。あんな鉄パイプよりずっと使えるはずだ」

「おおっ!くれるのか?」

「条件によっては渡してもいい」

「ほんとか!?なんでも言えよ!」

「孫さん、そんな事言うと後が怖いですよ……」

 無邪気に喜ぶ悟空を翠蘭が注意した。

「大した事じゃない。見ての通り、俺は外国人だろ?こういう状況じゃ誰だって排他的になる。どこの避難所に入るにしてもこいつを一緒に保護してやってくれ」

 彼は連の頭を撫でて言った。

「おじさん……」

「お前はいいのか?」

「保護してほしいに決まってるだろ。優先順位はこの小僧が先。できれば俺も。そんな感じだ」

「ああ、わかった!」

「孫さん、安請け合いしたら……ああ、もう!」

 ロニは取引成立だとタングステン製の警棒を渡し、悟空は伸縮させて子供のようにはしゃいでいた。

「おおっ!こりゃいい!軽い!」

「そうやってると本当に孫悟空だな」

 棒術を披露する彼にロニは称賛を贈り、連は信じていいのか迷うような視線を向けていた。

 結局、翠蘭は仕方ないと思うことにした。悪人なら子供を先に保護しろと言うはずがないだろうから。

 短時間の間に二人はこの男に良い印象を覚え、それは連を保護した事も含めてロニが生き残るための打算である事には気付かなかった。

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