孫悟空2122

M.M.M

第1話 孫悟空・ミーツ・ガール

 天界の空には桃色の雲が広がっていた。

 それを映す水鏡には蓮の葉が無数に浮かんでいる。

 海と見紛う巨大な湖の隅には小さな渦が巻き、それを二尊の御仏が岸から眺めていた。

「ここに飛び込めばいいんだな、お師匠様?」

 闘戦勝仏。かつて天界を悩ませた問題児だった男は明るい顔で隣にいる仏に聞いた。

「そうです。ここが天上界から地上に降りる唯一の道。ですが……」

 旃檀功徳仏。天女たちが日々噂をする美貌は顔に苦悶を浮かべた。

「本当によろしいのですか?ここから地上に降りるのは外法。あなたは仏の身分を失います」

「仕方ねえさ!」

 彼は飄々とした顔で、さも些事であるかのように言った。

「如来様が地上に降りちゃ駄目って言ったんだろ?」

 その言葉を聞いて旃檀功徳仏はますます苦悶を深めた。

 彼らが崇める釈迦如来は地上における人類が危機に瀕しているというのに救いの手を差し伸べない。釈迦だけではない。他の如来も、上位下位の仏たちも人類をどうこうしようという欲がない。無欲無我を極めたからこそ仏なのだ。

 旃檀功徳仏は何度も嘆願したが、釈迦たちの回答は変わらない。

 天界から人類が滅びゆく様子を見ていた彼は苦しみ続け、それを見た闘戦勝仏は決めた。俺が地上に行ってくると。

 天界の決め事に逆らう罪深さは二尊共に良く理解している。それでも彼らは自らが旅をした人の世を見限る事が出来なかった。上位の仏からすれば未熟の一言であったが、これが彼らなのだ。

「やはり私も共に……」

 そう言った旃檀功徳仏に彼は首を振った。

「お師匠様、地上は暴れる死人がたくさんいるんだろ?お師匠様が噛まれちゃ大変だ。こっちで皆を説得してくれよ」

 彼はそれだけ言うとニカッと笑い、走り出した。

 岸から二十歩ほどの距離を一跳びする。

「言ってくるぜ、お師匠様ぁぁぁぁっ!」

 陽気な声と姿は渦に飲み込まれ、旃檀功徳仏は手を合わせた。

 これより闘戦勝仏は御仏としての身分を捨て去り、かつての名で地上に舞い降りることになる。傲岸不遜にして行雲流水な妖猴英雄。孫悟空として。

  


 上海はかつて魔都と呼ばれていた。

 その名は今こそ相応しい。腐臭が漂い、焼け焦げた無人車や建築物があるのみ。生きた人間は一人もおらず、まさに魔の都であった。

 気味の悪い鼠色の雲が空を覆い、沈黙する廃墟はますます陰惨な気を醸している。

 その路上に時速200キロで何かが落下し、轟音が静寂を破った。

「痛ててててっ!」

 頓狂な声を上げたのは無論、天界から落ちてきた孫悟空である。

 陥没したアスファルトに滑稽な人型を形成し、彼は頭を押さえて立ち上がった。

「こんなに乱暴な降り方だったのか……禁じられるわけだな……ん……?」

 彼は周囲を見渡し、次に頭を上げて建ち並ぶ建造物を見た。

 上海の摩天楼である。空まで届くと錯覚させる異常な高層建築に悟空は目を丸くする。木々も動物もいない人工物のみで形成された街。人間たちが楽園を目指して造り上げた都市の成れ果てだった。

「これが地上か……」

 しばらくの間、彼は人類の暮らしの変化に圧倒された。

 彼が生きた時代では木材や石だったものがコンクリートや金属、プラスチックという素材に置き換わり、そこに貼られた本物そっくりの人や動物、謎の物体の絵は彼にいくつもの疑問と興味を引き起こす。だが、悠長にしている時間はなかった。

「しゅるるぅぅ……」

「ん?」

 まるで蛇のような声が聞こえたので悟空は振り向く。

 人らしきものが道路の真ん中に立っていた。背を丸め、黒く汚れた服と二本の腕をゆらゆらと揺らしながら悟空の方を見ている。その濁った眼を見て彼は確信する。

「お前は死人だな?」

 外見からそう判断したのではない。

 彼は生物の気を感じることができる。それが生きた人間なら視界に入らなくても気付いていたはずだ。

「ぐ……じゅ……じゅるるああああああああっ!」

 奇妙な雄たけびを上げ、死人は駆けだした。

 まっすぐ彼の方へ向かい、顎が外れるほど開けた口には何かの肉片が付着していた。

 悟空の耳に周囲から同様の声がいくつも聞こえてきた。同族の声に反応しているのだ。彼の鼓膜は硬い地面を叩く足音をいくつも捉えた。

「さっそくか。素手はちょっと嫌だな……」

 悟空は近くにあった鉄の棒を地面から引き千切ると上部に付いた看板を手刀で切り落とす。くるくると回して脇に挟むと中腰で構えた。

「さあ!来やがれ!」

「しゃああああああっ!」

 最初の一体は野生動物のように跳躍し、口と両手で彼を捉えようとした。

 その目的は数センチ直前で破綻する。直上から振り下ろされる金属の棒が頭を打ち、地面にめり込んだのだ。逆に下半身は上空を向き、逆立ちのような状態を一瞬取ると地面に落ちた。二度と動かなくなり、正真正銘の死人になる。

「じゅるるるるるっ!」

「おおっと!たくさん来やがったな!」

 死者たちは四方八方から悟空に殺到し、次々と鉄棒で打ち倒される。

 どれだけの剛力でそれを振っているのか。打った体は鈍い音を立てて砕け、頭部を失うものばかりか、胴体を二つにされるものまでいる。箸で饅頭を割るように力業で無理やり死人の体を引き裂いているのだ。

 万夫不当。一騎当千。そんな賛辞が霞む程の豪傑ぶりであるが、死人はみるみる数を増やし、時には上空からもやってきた。

「おおっと!そっちもか!?」

 高層ビルの上階からも降ってきた死者たちに悟空は舌を巻いた。

 地面に激突して死ぬ者もいたが、いくつかは悟空に直撃する軌道を描き、その途中で叩き落としてゆく。乾いてぶよぶよになった血と肉片、それをまとった臓物と脳みそが飛び散り、死体とその一部が路上に積み重なる。

「せい!せい!せい!せええええいっ!」

 悟空が鉄棒を動かす速度は徐々に上がってゆき、人間が肉眼で捕らえることもできない速さで偽りの死者を本物のそれに変えてゆく。天界でまとっていた服が腐臭と血でまみれた頃には倒した数は100体を超えていたが、それでも形勢は有利とならない。敵の援軍が際限なくやってくるためだ。

「ま、まだ来るのか!?」

 悟空は悪罵を飛ばし、足元に積まれてゆく死体やその一部で動く事も難しくなる。

 それがクッションになって上から振る死体には起き上がって襲い掛かる者も増えてきた。

「駄目だ!こりゃ多すぎる!」

 悟空はついに根を上げた。その場で戦うことをあきらめて膝を曲げると4メートル近く跳躍し、ビルの2階に飛び移った。だが、そこも安全ではなかった。

「おいおい、嘘だろ……」

 彼は目の前の光景に我が目を疑った。

 無数の濁った眼が獲物を捕らえ、死人の一部は壁を跳び上がって彼の元へ迫ったのだ。大部分は建物に群がるのみだが、身体能力の突出した死人がいる。それは警官や兵士の死人であり、強化服が原因である事を悟空は知らない。

「じゅるるるるうううっ!」

「お前ら、妖仙か!?」

 彼らを蹴り落とすと周囲から千を越える死人たちが集結しつつあった。

「切りがないな……」

 敵が多すぎる。それが骨身に染みた孫悟空は建物の間を跳躍し、死人から逃げることにした。人間には不可能な十メートル近い跳躍。その機敏な動きについてゆくことは強化服でもさすがに不可能だったらしく、3分もすると悟空は彼らを撒く事が出来た。

 狂ったような雄叫びは今も後方で上がっている。

 彼はそれを聞きながら己の無策を後悔した。

「ちぇっ。お師匠様の教えを忘れちゃいけねえな……」

 考えなしに行動するなという言葉を彼は思い出した。

 緊箍児を頭に付けていた時代なら間違いなくキリキリやられていただろう。

 その時代を懐かしみ、彼は建物の間を跳躍していく。

「あーあ。筋斗雲があればなぁ……」

 悟空の口から出たのはないものねだり。天界の渦から地上に降りる時は如意棒や筋斗雲のような神仙の道具を持っていけない。事前に言われたことだったが、あちこちがひん曲がった金属の棒を見てため息をつくしかなかった。

(ええと、無理やりこの世界に来ると”上書き”ってのが起きるんだったか?確かに文字がすらすら読めるぜ)

 彼の生きた時代とは人間の言語がかなり異なる。だが、あちこちに貼られた広告や看板。そこに書かれたこの世界の文字を彼は苦も無く読めた。おそらく会話も問題ないだろう。ただし、読めるのに意味のわからない言葉も多くある。

(誰かに教えてもらうしかねえよなー。で、生きてる奴はどこにいるんだ?)

 摩天楼の1つを頂上まで上がると彼は目を凝らして生存者を探す。ともかく人を探さねばならないのだが、気配を感じるのはせいぜい数百歩の距離まで。遠くのものは肉眼で探した方が早い。そう思って見慣れない建造物の群れに視線を上下させる。

(んー?明かりがついてる所もあるな)

 悟空は灰色に曇った街中に蝋燭よりも明るい光を放つ建物が数件あるのに気づいた。屋根には共通して黒い板が敷き詰められている。建物を跳び越えてその一件に辿り着くと氷のような壁の中に衣服が陳列されているのを彼は見た。

(透明な壁!天井はぴかぴか光ってるぞ!ここは衣を売ってる店なのか?商人ってのは肝が据わってるなあ……)

 こんな世の中でも商売ができる店主に感心し、彼は入り口を探したがどこにも扉らしいものがない。ある場所に珍妙な装置が置いてあるのみだ。その目的もわからず、透明な壁を軽く叩いてみたが応答はない。大きな音を出すと死人が集まってしまうので押し入るわけにもいかず、他の建物にも行ってみたが店の種類が変わるだけで生きた人間は一人もいなかった。では、店の明かりは誰が点けているのか。わからないことだらけの悟空は途方に暮れた。

(この街は一体どうなってんだ……誰か教えてくれよ……)

 再び屋根の上で頭を抱えるが、その時、遠くから死人の不快な雄叫びが聞こえた。

(まだ俺を探してやがるのか……いや、違うな……)

 彼は雄叫びのする方向が自分の来た方とは違う事に気づき、好奇心から様子を見に行くことにした。






 陽翠蘭。

 それが彼女の名前だ。上海の高層マンションに住む両親の一人娘といえばそれなりに恵まれていると言えるだろう。父は医療器械を扱う大企業の重役。母は主婦。翠蘭は高校生だった。

 世界のあちこちでは紛争と戦争が起きていたが、それでも彼女が住む上海は戦火からあまりに遠く、危険な事はニュースの中でしかなかった。それが全て崩壊したのは21日前。緊急速報で全世界で同時多発した奇病が始まりだった。

 奇病とは一言でいえば臨終を迎えた人々が苦しみ、暴れだすこと。

 だが、その表現はすぐに改められた。

 死者が動き出し、生きる人間を襲うと。

「うわ、怖いね」

 最初にネット配信された動画を見て翠蘭は母親に言った。

 海外で撮影されたそれには病院で看護師に飛び掛かる老人が映っていた。似た動画も多く配信されていたが、すぐに国家検閲が始まり、一般市民は情報が遮断された。

 それでも彼女と母親は慌てなかった。伝染病などが起きた時はそういう措置が珍しくない国だからだ。

 だが、父親からの電話で事態は一変する。

「2人とも私がいる社へ来なさい!そこは安全じゃない!」

 父親は碌に説明もせず2人に場所を移るように急かした。

 それは緊急速報が出てから20分も経っておらず決して遅い指示ではなかったが、2人が荷物をまとめて無人車に乗った時には警察車両と救急車のサイレンが鳴り響き、外出禁止令が出されたことが拡声器から何度も告げられていた。やむなく部屋に戻った2人は父親に電話したが繋がらなかった。戒厳令が敷かれ、通信が規制されたためだ。

 それでも翠蘭と母親は慌てなかった。災害に備えて1週間分の食料と水は用意してある。

「備えをしておいてよかったね」

 母と娘はお互いに言い合った。

 だが、翌日には軍隊の発砲音と奇妙な唸り声が屋外から聞こえ始めた。2人は昼間でもカーテンを閉め、時折、同じマンションからと思われるガラスの割れる音と悲鳴に震えた。

「誰かがベランダを登ってるのかな?」

 翠蘭がそう言うと彼女の母は二度とそんな事を言わないでと叱った。しかし、2人ともベランダの外を絶対に見なかった。

 その次の日。軍用車両は姿を見せなくなり、1週間が過ぎても事態は収拾がつかず、頼みの通信機器は政府の報道を見る以外の操作が不可能になり、その報道もなくなった。やがて電気が通らなくなり、自家発電を備えた建物だけが明るくなった。

 2人が細々と消費していた食糧と水も次の一週間で尽きた。薄暗い部屋で翠蘭の母は隣に住む知り合いの女性に助けを求めると決め、彼女も一緒に行くと言ったが母は許さなかった。

 5分経っても母は帰ってこなかった。

 不安に耐えかねた彼女は扉を開けて外に出た。廊下には誰もおらず、そこから見える建物はあちこちから煙が上がっていた。

 隣の呼び鈴を鳴らすが応答はなく、恐る恐るドアノブに手をかけると抵抗なく開いた。扉をかすかに開けて声をかけようとするがまず異臭に気付いた。食べ物の腐ったような不快な匂い。それに血の匂いが混ざっていた。戸の隙間からは自分の部屋と同じ通路があり、その先に誰かが背中を向けて立っている。彼女は母だとわかった。同じ白いセーターを着ているからだ。声を出そうとしたが、翠蘭の中の何かが警告を発した。

 真っ白な上着の首元が赤い。床もそうだ。真っ赤な絵の具を撒いたようではないか。母はふらふらと上体を揺らしたりしない。

「う……じゅる……」

 それの発したうめき声が翠蘭の鼓膜をくすぐり、全身に怖気が走る。

 彼女は扉から手を離し、自分の部屋に戻った。あれは絶対に母ではない。母は別の部屋を尋ねたに違いない。まだ帰ってこないのは話が長引いてるからだ。そう思いながら彼女は母の帰宅を一晩中玄関の前で祈り続けた。

 翌日の朝、彼女はもう1度勇気を出して同じ階の呼び鈴を鳴らして回った。どこからも応答はなく、1か所のドアに近くの体育館に避難すると家族宛てのメモが張りつけてあった。

 きっと母もそこに行ったんだと彼女は思った。自分を置いて行くわけがないという考えも隣の部屋で見たことも無視し、自分も避難しようと決めて荷物を背負うと住民専用のIDをかざしてエレベーターに乗ろうとした。その時、翠蘭は異常に気付いた。エレベーターの階を示すモニターは防犯の一環として内部の様子も映し出す。画面には数人が乗っており、全員がふらふらと上半身を揺らしているのはなぜか。服のあちこちが赤く汚れているのはなぜか。

 2階、3階、4階。エレベーターの階を示す数字はすぐに自分の所へ着く。

 彼女は部屋に引き返そうとしたが、長期間の空腹のせいで眩暈に襲われた。一度転び、立ち上がると背後で電子音が鳴った。到着の合図。扉が開き、振り返った彼女はその中に立っていた者たちと目が合った。濁った目の数々と。

「ひっ」

「しゅるうううううっ!」

 複数の雄叫びが彼女の悲鳴を塗りつぶす。

 自分の部屋まで十数メートル。命がけのマラソンを彼女は走り始めた。


(わからねえがちょっと行ってみるか!)

 摩天楼の欄干や露台を飛び越え、当たりを付けた方向へ移動する。

 目を四方に向けて音の発生源を探すと1棟の高層建築物の廊下に死人の群れが見つかった。それらが追う先には髪の長い少女がおり、生きている人間だと悟空は確信する。

「うおおおおおおおっ!」

 建造物の屋根を次々と跳躍し、まさしく神仙の空中歩行のように彼は救助に向かう。

 だが、距離があまりに遠く、このままでは間に合わないと焦った彼は足を止めた。あきらめたか。まさかまさか。悟空は建物の端から足を1歩踏み出し、体は自由落下を始める。その瞬間、両足に渾身の力を込めて背後の壁を蹴ると自身を砲弾のように撃ち出した。

 衝撃で建物の壁が吹き飛び、その威力をもって彼の体はかすかな放物線を描きながら狙った的に突撃する。少女まであと数歩と迫った死人に。

 まさに砲弾の直撃と同じ結果が生まれた。1体の死人を吹き飛ばし、彼の体半分が壁にめり込むと悟空は軽く舌打ちした。

「ちぃっ!今日はよくぶつかる日だ!」

 悪態をつきながら壁から半身を引き抜くと彼は片手を振った。

 あちこちがひん曲がった金属パイプが彼に飛び掛かろうとする死人の頭に直撃する。

「ぎゃうっ!」

「これ以上集まると困る。さっさと死んでもらうか」

 彼はそう言うと少女と残った死人の間に立ちはだかり、如意棒に見立てたものを振り回した。

「下がってな!」

 後ろにいる少女をちらりと見て悟空は言った。

 見慣れぬ服装。目の下に隈ができている少女だったがその顔を見て一瞬彼は綺麗だと思った。

 そこから孫悟空の大立ち回りが始まった。演武のように死人の頭を吹き飛ばし、殴り飛ばし、そして突き飛ばす。時には蹴り飛ばして6体近い死人の群れを一掃した。その間、およそ6秒弱。

「よしっ。ひとまず片付いたか」

 首無し死体が散乱する場を作り出した彼は言った。

「怪我はないか?」

 彼が声をかけると少女は足を震わせていた。

「ぁ……ぁ……」

 か細く、透き通るような綺麗な声。だが、それも震えていた。

「ひとまず隠れる場所はないか?ここにいるとあいつらがまた来るかもしれねえだろ?」

「え……は……はい……それなら……私の部屋に……」

 適当な場所がないなら悟空は彼女を担いで屋根まで避難するつもりだった。

 しかし、彼女はひとまず味方であると思ったらしく、同じ階にある1つの部屋へ悟空を連れて行った。




「あの、助けてもらってありがとうございます……」

 彼女は未だ混乱していたが奇妙な男を部屋に入れてお礼を言った。

 初対面の男性。街がこんな状態でなければ絶対に部屋に招かなかっただろう。

「私は陽翠蘭です。あなたは……誰ですか?」

「おっと!先に名乗らず悪かった」

 礼を欠いたことを詫び、彼は胸を張って名乗った。

「俺は闘戦勝仏!あっ、もう仏じゃないか。今は孫悟空だ」

「…………は?」

「孫悟空だ」

「孫……悟空……?」

 最初、彼女は冗談かと思った。

 だが、男は言い直す様子がない。子供の命名も多様化しており、そういうこともあるかと考えたが、闘戦勝仏という名前は彼女も昔話で聞いたことがあった。孫悟空は三蔵法師と旅をして最後にお釈迦様に罪を許され、闘戦勝仏という仏になることができた。

 その孫悟空を演じているつもりという事なのか。そこで彼女はふと気付く。死人に追われている間は心が麻痺していたが、この男は大砲のように飛んでこなかったか。いや、見間違いに違いない。でも、他にどうやってあの場に駆け付けることができるのか。

 翠蘭は頭が混乱し始め、次に再び眩暈がやってきた。

「うぅ……」

「具合が悪いのか?」

 悟空は心配そうに聞いた。

「いえ、お腹が……その……」

 簡潔に言えば翠蘭は栄養失調で死にかけていた。

 それをやっと理解した悟空は叫んだ、

「ああ!!腹が減ってるのか!」

「はい……」

 すでに恥じる気力もない彼女は首肯した。

「人は鉄。飯は鋼だ。調達してくるか」

 古くからある格言を思い出し、悟空は今入ってきた入り口から出ようとしたがその動きがぴたりと止まった。

「なあ、飯ってどこで手に入るんだ?」

 山に行って果物を採るか動物を狩るつもりの悟空だったが、この街には自然物が全くない事を思い出した。

「え?すぐ近くに百貨店……でも……開いてるのかな……」

「飯店か?」

「はい……あっ、1階に飲み物とお菓子の自販機もあります!もう売り切れてるかもしれませんけど……」

「ん?まあ、1階に何かあるんだな」

 彼女の状態からあまり悠長にしていられないと気づいた悟空は急ぐことにした。

「あ、あの……」

 部屋を出ていこうとする悟空を彼女は呼び止める。

「どうして私を助けてくれるんですか?」

「は?理由がないと駄目なのか?」

「え……」

 お互いに困惑し、大事な話ではないなと見切りをつけた彼は部屋を出ようとすると再び呼び止められた。

「待ってください!」

「今度は何だ?」

「お金……これを使ってください……」

 彼女が差し出したのは財布を兼ねた身分証のカードだった。

「そんなに入ってませんけど」

 翠蘭は彼が持ち逃げするとは思わなかった。

 そんな人間なら先ほどの質問をしない。

「これか?この薄っぺらい板で……よくわからんが、行ってくるぜ!」

 売り子に聞けばなんとかなるだろうとこの時の悟空は考えていた。

「さーて、1階だったな」

 扉を閉めた悟空はそのまま廊下の柵を跳び越えて地上へ落下する。

 10メートル近い自由落下を終え、近くにいた死人が声を出す前に頭部を粉砕すると玄関を探した。

「んー、ここから入れそうだが」

 玄関らしい場所は無人の店と同じく透明な板が遮っていた。

 割ってしまおうかと考えたが、奇妙な装置に書かれたカードの絵を見る。もしやと思って翠蘭から借りたカードをかざすと扉がスライドした。

「か、勝手に開いた……」

 これは妖術かと思いながら1階内部に入ると床に血が飛び散っており、同じく赤く染まった木の棒と鞄が落ちていた。

「こいつの持ち主は……」

「しゃああああっ!」

「お前らか?じゃあな」

 奥からやってきた死人の2体に一撃ずつを見舞うと悟空は自販機とやらを探した。

 しかし店はどこにもなく、代わりに棺桶のような箱が部屋の隅にあることに気付いた。その付近は最も血の量が多く、なんらかの戦いがあったことを伺わせる。

(これは一体どういう……おっ、ここにも板をかざす絵がついてるぞ!)

 よもやと思いながら翠蘭からの借り物をかざすと画面に光が点灯する。

(これはつまり……光ってる所を押すのか?)

 生まれて初めての体験に戸惑いながら悟空がボタンを押すと下方の開口部に飲み物が落下した。

「おおっ!な、中に売り子いるのか!?なあ、いるんだろ!?出てこい!」

 彼は箱の中に売り子がいるに違いないと思ったが、返事はなかった。

「内気な奴だな……」

 悟空は身分証を何度もかざし、適当な菓子や飲み物を購入していく。つい楽しくなってきたが、腹を空かせた少女が待っていることを思い出すと慌てた。如意棒もどきの鉄棒を口に加え、建物を片手で這い上がっていくと翠蘭の部屋まで戻り、扉を数度叩く。

「おーい、戻ったぜ」

 返事をするよりも先に彼女は扉を開けた。

 玄関の前でずっと待っていたのだろう。ちょっと不用心だなと彼は思ったが、そんな事は言わず居間のテーブルに購入したものをどっと置いた。

「さあ、食え」

「あの……私が食べていいんですか?」

「他に誰が食うんだ?」

「あ、あなたが……」

「腹を空かせてる奴が何言ってんだ。食え食え」

 そもそも翠蘭の金で買ったものなのだが、悟空には金銭を支払ったという認識がなかった。彼女は恐る恐るお菓子の袋を手に取り、小麦色の中身を咀嚼した。そして泣き始めた。

「う……あ、あぁぁぁぁ……」

「だ、大丈夫か?」

「美味しいです……すごく……ぅぅ……」

 一瞬は驚いた悟空だが、それ以上は何も聞かず、彼女に背中を向けて泣き顔を見ないようにした。

 5分ほど経つと彼女の嗚咽が止まり、もういいかと思った悟空は振り向いた。テーブルに置かれたお菓子の飲み物の3分の1ほどが消費されていた。

「もっと食わないのか?」

「えっと……孫……さん……でいいですよね?あなたが食べてください」

 目が真っ赤になった翠蘭はどこからか持ってきたティッシュで涙と鼻水を拭きながら言った。

「俺はいいよ」

「でもあなたが買ってきてくれたものですし……すごく危なかったでしょう?」

「いや、別に。これはやっぱり金なのか?」

 薄い板を見ながら彼は不思議そうに聞いた。

「電子決済ですよ。知らないんですか?」

「知らん。言葉はわかるんだがな」

「え?」

 翠蘭は出会った時と同じ混乱に包まれた。

 空腹が満たされたことで少しだけ余裕が出来たのだが、この男が孫悟空を名乗っていたことを思い出す。

「あの……そういえば孫悟空ってお名前でしたか?」

「ああ」

「その……変な事を伺いますけど、どちらの孫悟空さんでしょうか?」

「え?どういう意味だ?」

「えっと……つまり……斉天大聖の孫悟空さんだったりしませんよね?三蔵法師と西に旅をしたという……」

「えっ!その名乗りをお前も知ってるのか?」

 彼は驚いた。そして斉天大聖という生意気な称号を使っていた時を思い出して若干恥ずかしくなる。

「ゆ、有名ですし……」

「そうなのか?どんな話になってる?」

 悟空はそれから西遊記という物語がいくつも語り継がれていることを聞いた。翠蘭もそこまで詳しくないが、元をたどれば実在する法師を元にした創作だと思われていることを聞いて悟空は唖然とした。

「俺達の旅は全部作り話?そんなわけが……いや、待てよ」

 悟空は天界でそれを説明する話を聞いたことがあった気がした。

 しかし地上に行く気もなかったのでほとんど忘れてしまった。

「人間の信仰が変わると地上がうんたらかんたらってお師匠様が言ってたような……あー、真面目に聞いときゃ良かったなぁ……」

「あの……1ついいですか?」

 翠蘭は彼の顔色を伺いながら聞いた。

「なんだ?」

「孫……さんは人間じゃないんですか?」

 この時点で彼女はまだ半信半疑だった。

「その、西遊記のお話だと……」

「猿だぞ?ほれっ」

 そう言うと悟空はいつも腰に巻き付けている尻尾を裾からにゅっと出した。

「きゃあっ!」

 翠蘭は悲鳴を上げ、死人に出会った時よりも過激な反応をした。

「そんなに驚くのか?地上にも猿はいるだろ?」

「す、すみません……」

 地上の猿は喋ったりしない。

 彼女はそう言えず詫びるが、悟空の尻尾から目が離せなかった。

 科学技術が発達した今ならこういった体を作れなくもない。だが、自分を騙しても何の意味もなく、彼女の頭は混乱を増すばかりだ。

「ほ、本物なんですか?ご、ごめんなさい。疑ってるわけじゃなくて、その、頭がついていかなくて……」

「本物だって。触るか?」

「え?」

 悟空が近寄って尻尾を目の前に差し出すと彼女の目は顔と尻尾を何度も往復した。

「さ、触っていいんですか?」

「ああ」

 彼女は少しも触りたいと思わなかったが、拒絶すると怒られる気がしたのでゆっくりと手を近づけた。その指にすすっと悟空の尻尾が近づく。映画の一場面のように人差し指が尻尾の先に触れた。

「あ、温かい……」

「そりゃそうだろ」

「……ふふ」

 彼女は初めて笑った。

 現実とは思えない状況になぜか可笑しさを感じてしまう。全て夢なのではないか。その方がよほど納得できると思った。

「あ、笑ってすみません……」

「いや、笑った方がいい」

「え?」

「笑ってる方が綺麗だ」

 そう言われた翠蘭は一瞬動揺し、苦笑した。

「そういう言い方は今では良くないですよ」

「は?なんでだ?」

「容姿で優劣を決めることは悪い事です」

「はあああ?」

 この時代の礼儀作法に明るくない悟空は首を傾げた。

 その滑稽な表情に彼女は冷えた心の底が少し暖かくなる。街は地獄と呼べる状況だが、この男は凍った空気を温める太陽のような力があった。

「じゃあ……孫さんは天国から来たんですか?ひょっとして私達を助けに来てくれたとか……?」

「半分は当たりだ」

「半分?」

「仏様たちは地上を救う気がない。西の神様たちも同じらしい」

「え?」

 彼女の表情が固まった。

「仏様ってどれも悟り開きすぎちゃって無欲なんだよ。西の神々は揉めまくって最後は喧嘩したらしいけど、結局は放置だとさ」

「え?それはどういう……え?」

 徐々に青ざめ、引き攣ってゆく顔。

 特に信仰のない翠蘭だったが、まずい事になっているのはおぼろげに理解できた。

「人間は……もう見捨てられたんですか?どうして……戦争のせいですか?」

「戦争?」

「人間が戦争をやめないから……」

 彼女は過去に起きた第3次大戦が原因かと思った。

 1億人以上の死者を出し、核兵器も使用された。それでも人類は滅びるわけでなく、むしろ生存欲を刺激された人々は多く子供を生み、すぐに地球の人口は戻った。そして相変わらず戦争はいくつもある。

「いや、そういう理由じゃない。どんな戦もただの戦だ」

「違うんですか?じゃあ、なんで……」 

「どうも人間が地上と地獄を繋げちまったらしい。死体が暴れてるのはそれが原因なんだとさ」 

 そこから悟空はここに来た目的を語り始めた。

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