第81話 毒
冬梅は自分の宮で、ひとり静かに物思いに耽っていた。
外は、雨がしとしとと降っており、今日は宮の中に籠る予定だった。
だが、こうやって暇を持て余していると、先日の紫陽花の花見会を思い出す。
楽しい茶会の終盤で見つけてしまった、秋麗の銀の腕輪の変色。
冬梅は、あの場で、銀の腕輪が変色していたことを言い出せなかった。
何も言えず、あのまま花見会を終えて、今に至る。
幸いなことに花見会から三日ほど経過しているが、妃の誰かが倒れたと言うような話は聞かない。あの腕輪についた毒は、誰の口にも入らなかったのだ。
(おそらく毒は、秋麗が落とした闘茶に入っていたのだろう)
毒物が床に落ちたために、誰も飲まずに済んだ。
それに腕輪が変色したのも、闘茶を撃払しているうちに飛沫が腕輪に付着したということで説明できる。
一体あの毒は、誰が、何のために、誰を狙って。
いや、少し考えれば答えは分かりきっている。
(おそらく秋麗風妃が、皇后の命を狙って闘茶に毒を入れた)
そう考えるのが自然だった。
皇帝の寵愛を欲する秋麗ならば、毒を入れる動機も十分にある。
(毒を入れた闘茶を落としたのは、わざとだろうか? 流石にあの場で、皇后陛下が倒れでもしたら、真っ先に疑われるのはお茶を用意した秋麗風妃だ。感情のまま毒を入れたが途中で我に帰り踏みとどまったのかもしれない)
冬梅はあの時、一心不乱に闘茶を点てる秋麗を思い出して、顔を曇らせた。
あの時の秋麗は、生き生きと溌剌としていて、確かにいつもと様子が違った。
毒という姑息な手段を用いて皇后を追い落とそうとしていたからだろうか。
(まったく。未遂で終わったとは言え、一瞬でも皇后陛下に毒を盛ろうとするとは……)
内心でそう嘆いた冬梅だったが、ふと我に帰り、自嘲するような笑みを浮かべた。
「いや、私も秋麗風妃のことは言えないな。毒を盛った者があの場にいると分かっていたのに、すぐに指摘しなかったのだから」
小さく呟かれた言葉は雨の音に消えていく。
だが冬梅の中の暗い気持ちは晴れていかない。
冬梅の立場なら、毒が盛られたかもしれないとあの場ですばやく指摘するべきだった。でもしなかった。
(狙いが皇后であることは、すぐに分かった。だから試そうとしたのだ。こんなことですぐに毒殺されてしまう者であるならば、皇后に相応しくないと)
自身が仕える者として、今の皇后は物足りない。
結局のところ、冬梅の本心はそこに行き着く。
どれほど敬うような素振りを見せようと、どこか冷めてしまっている。
変わり者の皇后、ただ優しいだけの女、つまらない凡夫。
可愛らしい方だとは思うが、それと仕えたいと思える者であるかどうかは、また別だ。
(東州の水害の件に対する対応にしてもそうだ。被災民に一時的な施しを行い、それで終わり。今なお土砂で潰れた安吉村のことなど、気にもかけていない。……お茶のことばかりだ)
小鈴から水害は皇后の不徳のせいではないかと問われた時、はっきりとは否定しなかった。無闇に疑うのはよくないと、そう諭しただけ。
はっきりと否定しなかったのは、きっと冬梅もまた采夏のせいかもしれないと思ってしまう心があるからだろう。
東州の民達のことなど忘れて、お茶に耽るその様が、たまに憎たらしく思う時がある。
いっそのこと、今の皇后にはご退場頂いて、別の者が皇后に立ってくれたら少しはすっきりするのだろうか。
「ふ……。なんて私は傲慢なのだろうか。秋麗風妃のことは責められないな」
額に手をやり、自暴自棄な笑い声を吐き出して酒を煽った。
冬梅は、お茶よりもお酒が好きだ。
特に皇后の淹れるお茶は、美味だとは思うがあまりにも……清らかすぎる。
「冬梅花妃様、失礼いたします。皇后陛下がおこしです」
侍女の小鈴がやくると、そう言った。
「皇后陛下が……?」
ふと窓の外を見るとまだ雨が降っている。雨が降る中、わざわざ何のためにきたのだろうか。
疑問に思うが、ゆっくりはしていられない。
采夏が見えているのなら、歓待しなくてはならない。
例え冬梅が心の底から采夏に忠誠を誓っていないのだとしても。
雨の中、わざわざ冬梅の宮まで足を伸ばした采夏の目的は、何のこともない。
茶器のためだった。
「えっと、どのような茶器が欲しいか、ですか?」
冬梅は戸惑いながら、そう尋ね返すと采夏は頷いた。
そう言えば、先日の花見会で、妃全員に蓋碗を贈りたいというような話があったことを思い出す。
あの後、毒のことで頭がいっぱいになってすっかり忘れていた。
「しかし、わざわざ雨の日に来られなくともよろしかったのに。いえ、おっしゃって頂ければ私が伺いましたものを」
「居ても立ってもいられなかったものですから」
またお茶のことか、と乾いた笑いが溢れそうになるのを冬梅はどうにか押し留めた。
雨の日は、気分を陰鬱とさせる。
「……それに、安吉村のことでもご相談があったのです」
「え……」
まさかの単語が皇后の口から溢れてきて、冬梅は目を見開いた。
「水害地の復興が上手く進んでいないと、陛下からもお話がありました。原因としては少し言いにくいのですが、土砂を取り除く労力に見合う見返りが、あの地にはないという話なのです」
「見返り……。しかしあの地には村人の先祖達が眠っていて、彼らにとっては故郷で……」
「ええ、分かっています。ですから、少し冬梅花妃に伺いたいのですが、安吉村では竹細工作りを生業にされている方が多いとか。つまり近くに竹林があるのですよね?」
「え、ああ、そうです。あたりは竹林に囲まれている地でして……」
「良かった。でしたら、もしかしたら、野生の茶木があるかもしれません。いえ、なかったとしても、茶作りにはもってこいの土壌です。竹林あるところによい茶畑があるもの。特に竹林からの竹の清廉な香りが茶葉にも移って、出来上がったお茶も清々しい青さを感じられます。あ、冬梅様は陽羨茶をご存知ですか? こちらの茶畑にも、周辺に竹林が広がっていて微かに竹が香る誠に見事なお茶で……」
「こ、皇后様、そのつまり何の話なのですか?」
「あ、いけない。私ったら、ついいつもの癖で! つまり私が言いたいのは、安吉村を茶の産地にするのはいかがかなと思ったのです。お茶は青国の経済を支えている大きな基盤です。様々な国への交易にも利用されています。いくらあってもいいのです。ですから、安吉村を茶の産地として復興するという話になれば、商人達も動いてくれるのではないかと思うのです。そうなれば、人も金も集まり、早々に安吉村の土砂は取り除かれるのではないかなと」
采夏の話を聞きながら、冬梅は目を何度か瞬かせた。
あの茶道楽の皇后の口から出た話なのだとは到底思えなかった。
「……それは、皇后様のお考えですか?」
「はい。冬梅様によろしくと言われておりましたので、何かお手伝いできることはないかとずっと考えていました。とはいえ、私が誇れるのはお茶についての知識しかありませんので、このような形となりましたが」
采夏の言葉に、冬梅は胸の奥が苦しく感じた。
無能だと、能天気な茶道楽だと思っていた采夏が、そこまで考えてくれていたことに動揺している。
「……皇后様。その……感謝申し上げます」
うまく言葉にできず、吃りながらなんとかそう口にした。
まだ気持ちが追いつかない。
先ほどまで、何もしない愚かな皇后だと思っていたのだ。それなのに……。
「でも、この話はまだ陛下には申し上げていないので、うまくいくかはわからないのですが」
「いえ、そのその御心使いが痛み入ります」
冬梅がそう答えると、采夏はにっこりと笑顔を浮かべて手を打った。
「それでは、話を戻して茶器についてどうしますか?」
そうして茶器の話に移る。先ほどまでの真面目な表情をしていた采夏とは別人のような変わりようだ。それにもまた冬梅は戸惑った。
「あ……茶器は……何でも。私に似合う男っぽいもの……飾り気のないものであれば」
「飾り気のないもの、ですか? そうですね……突然ですから迷われますよね。良ければ参考に、私の使っている蓋碗なども」
と言うと、皇后の侍女が鞄からいくつか茶碗を取り出した。
「すでに妃様のために、碗自体は焼き上げているのです。後は絵柄をいれて再度焼くだけ。これらの見本の中から気になるものがあればおっしゃってくださいね」
そう言って示された蓋碗はどれも色鮮やかな物だった。
その中でも、白磁に薄桃色の小さな花が描かれた少し小ぶりな蓋碗に目がいく。
可愛らしい絵柄だった。まるまるとした柔らかい形も冬梅の好みだ。
その可愛らしい絵柄にふっと思わず微笑んで、そしてその隣に視線を移すと、真っ黒な茶器があった。飾り気がなく、男性が好んで使いそうなもののように思えた。
冬梅はこの黒い茶器を指した。
「これに似たものが欲しいですね」
「こちら、ですか?」
不思議そうに采夏が小首を傾げる。
「ええ。この黒釉の碗に似たようなものであつらえていただけますか。絵柄はそうですね、むしろなくても良いかもしれません」
冬梅はそう答えて、微笑んだ。
安吉村のことを言われて戸惑っていたが、少し落ち着いてきた。
正直なところを言えば、采夏のことを見直した。
何も考えていないのかと思っていたが、そうではないのだと思えたことはよかった。
だが、だからといって、采夏が皇后に相応しいとするには足りない。
こんなことで今まで溜まった鬱屈を払拭することはできない。
しかも、ここにきても打開策はお茶だ。茶畑として復興させるという話は正直悪くないとは思うが、茶道楽の采夏が、軽い気持ちで思いついた話のようにも思えてきた。
「黒釉の茶器は人気なのですね。実は、秋麗風妃もこちらの茶碗がよいとおっしゃられて「秋麗風妃が、こんな黒い、無骨な茶器を?」
にわかには信じられない。あの妃のことなので、金や朱色を使って煌びやかな茶器をねだりそうだと冬梅は思った。
「ええ、闘茶の白い泡を映えさせるために、黒がよいのだとか」
「ああ、なるほど。確かに言われてみると、白い泡を目立たせるためには黒が良いかもしれませんね」
「……冬梅花妃、もしよろしければ、こちらの茶器のようなものが欲しいとおっしゃった理由を伺っても?」
采夏から躊躇いがちにそう尋ねられて、少し不思議に思った。
(理由? そんなもの、私の姿をみればすぐに分かると思うが……)
冬梅は今日も男装だ。新緑色の袍を着て、頭につけた髪飾りも引っ詰めた髪をまとめるためにつけただけの、飾り気のないもの。
「これが私に一番似合っているからですよ。他の茶碗は、少々私には可愛らしすぎる」
冬梅がそういうと、その答えが意外だったのか、采夏は目を丸くした。
冬梅としては、そこで驚かれたことに驚いてしまう。
(私がこの中から選ぶとしたら、これ以外にないと思うが……)
戸惑う冬梅の前に、采夏は一つの蓋碗を手に取った。白磁の薄の花が描かれた、小ぶりな蓋碗だ。
「先ほど、冬梅様は、こちらの蓋碗を目で追っていたようでしたので、こちらのような蓋碗がお好きなのかと思ったのですが」
冬梅は思わず目を瞬いた。
よく見ている。確かに冬梅は、この碗が気になっていた。可愛いと思って、目で追っていた。
だが、この蓋碗はあまりにも、可愛すぎる。
「これは……私には似合わない」
冬梅は軽く微笑んで、首を横に振る。しかしその答えが満足のいかないものだったのか、采夏の顔が曇った。
「似合う似合わないではなくて、好きか嫌いかの話をしているのです」
「好きか、嫌いか?」
そう問われれば、白磁の可憐な蓋碗が好みだ。
「……ですが、私がこんな可愛らしい蓋碗など持っていては……変に思われる」
そう言って冬梅は黒い蓋碗を手に取った。
「周り人間達は私にこれを持っていて欲しいと思っているのではないかな。……みんなの期待を裏切りたくない」
「みんなの期待……?」
そう言って采夏は眉根を寄せた。
その反応に、また冬梅は戸惑ってしまう。采夏が何を不満に思っているのかが、よく分からない。
しばらくして采夏が改めて口を開いた。
「よろしければ、冬梅花妃、私と一緒にお茶を飲んでいただけませんか」
にっこりと有無を言わさぬ笑みがそこにはあった。
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