第80話 妃の茶会

 紫陽花の花が咲き始めた。

 後宮には季節の花々が育てられている。紫陽花もその一つで、至る所で紫陽花が見られた。

 今日は、その紫陽花がよく見える場所で、妃達の花見会が行われていた。

 まだ見頃とは言えないが、花の蕾やポツポツと咲く青紫の花々に艶々とした緑の葉が見ていて楽しい。

「どうして、陛下はこのような男女を呼ぶのかしら。そういえば、以前、陛下には男色家という噂があったとか。まさかねえ」

 皇后と四人の妃が集まった茶会の、開口一番嫌味を放ったのは、予想通り秋麗だった。嫌味の相手は冬梅である。

 長い指を自分の顎にやり、実に挑戦的な笑みで冬梅を見ていた。

 冬梅はうんざりして肘掛けに肘を置いて体重を傾け、軽く目を細めて睨む。

 が、秋麗は余裕の笑顔で冬梅の眼光を受け止める。

「え!? えー!? だ、だ、だ、だ、男色家ー!? ちょ、ちょ、ちょ、それはちょっと待ってください! でもでもそれは、それで、美味しいのでは!?」

 などと冬梅の隣から嬉しそうな歓声をあげているのは、例の如く燕春だ。

 燕春は、基本あまり他の妃と話そうとしてこないのだが、突然奇声をあげるのでなんとなく冬梅は苦手に感じている。

「陛下は男色家ではない。そもそもその発言は、不敬ではないか」

「あら、私、別に陛下が男色家だなんて言ってないわ。ただ、そういう噂があったと言っただけですもの」

 つーんと言ってのけて秋麗は、ふんと顎をそらした。

「屁理屈を……」

 と苦々しく呟く冬梅のことなど気にならないとばかりに、秋麗は采夏に顔を向ける。

「ねえ、皇后様」

 と少し甘えたような声で呼ぶと、真っ赤に塗った唇に笑みを作って口を開いた。

「皇后様は、どう思われます? 陛下が男色家かもしれないという噂について」

 突然尋ねられた采夏は一瞬目を丸くした。

 黒瑛に男色家の噂が立ったのは、秦漱石の時代に、妃に手を出さなかったことが原因だ。秦漱石が用意した後ろ盾のない妃を忌避してのこと。

 秦漱石を処分した今は、その男色家の噂も下火になっているはずだ。というか、黒瑛は男色家ではない。

 黒瑛が男色家ではないことを、何よりも采夏自身が身をもって知っている。

「え? えーっと、陛下は、男色家ではなないと、思いますよ」

 そう確信する理由を思い出してしまい、采夏は少し顔を赤らめた。

 その顔を見て、先ほどまで笑みを貼り付けていた秋麗がとたんに不機嫌そうな顔になった。

「……あら、そうですの。それってつまり、男色家ではないと断言できることを、陛下が皇后様になさっている、ということですか?」

 そう尋ねる秋麗の声には険しさがあった。

 冬梅は、秋麗の態度の変化に思わずため息を吐き出した。

「えっ! それは……その……」

 一方、秋麗に問い詰められた形の采夏は恥じらうように顔を赤らめて口籠っていた。

 その様が、言葉よりも雄弁に語っている。

「あ……何この会話……ちょっと、誰か! 誰か書き留めて! あとどなたか絵師の方いますか!? 皇后様の今の表情を誰か……紙に! 残して……!」

 また、燕春が喚いている。

 一方秋麗の瞳に宿る険しさが、ますます強くなるのを見て、さすがに冬梅は口を開いた。

「秋麗風妃いい加減にしろ、そう皇后様を困らすものではない」

 たまらず冬梅が口を挟むと、秋麗の鋭い眼差しは冬梅に向いた。

 悔しそうに軽く唇を噛む秋麗の瞳には、嫉妬の炎のようなものがある気がした。

(愚かにも、陛下に寵愛されている皇后様に嫉妬をしているわけか。まったく、相変わらずだ……)

 感情がそのまま顔に出ている秋麗に呆れてしまう。

「あなたも、いつもいつも皇后様皇后様って……皇后様の何のつもりなの?」

「え? 何って……それは、もちろん、この後宮という場における仕えるべきお方で、私はただの臣下、だが?」

 一体何が言いたいのだ、と質問の意図がよくわからない冬梅は戸惑いながら答える。

「ふーん、仕えるべきお方ねえ。果たして本心かしら。いつもいつもそうやって皇后様に媚びを売ってご機嫌伺いばかり……もっと他に巨大な感情があるのではなくて?」

「きょ、巨大な感情……?」

「例えば、私のよう……んん! 違うわよ! 私は別に巨大な感情なんて、皇后様に抱いているわけじゃないのだからね!」

 何故か少々顔を赤らめて焦って物申す秋麗に、冬梅はやはり言わんとしていることが伝わらず首を傾げる。

「つ、つまり! 私は言いたいのは……皇后様に媚を売って……卑しい方ねと言いたいの」

「どちらが卑しいか。自分の立場を弁えろ」

 冬梅は呆れたようにそういうと、二人の間で睨み合いが始まった。

 妃達で集まると必ずこうなる。後宮では日常茶飯事だった。

 先ほど、秋麗に黒瑛が男色家かどうかを尋ねられて戸惑っていた采夏だったが、今はすっかり気を取り直して湯を沸かす鍋の様子を見ていた。

 そして無邪気に微笑む。

「お湯もいい具合ですよ。秋麗風妃、またお茶を点ててくださいますか」

 明るい声でそう話しかけられた秋麗風妃は、視線を皇后に移した。

「ええ、もちろんでございますわ」

 先ほどまで冬梅と睨み合っていた険しい顔が嘘みたいに晴れやか笑顔になってそう答える。ほとんど別人のようだった。

 思わず冬梅は戸惑い目を見張る。

(なんだこれは……。嫉妬に狂いそうな目で、皇后陛下を見たと思ったら今は楽しげな笑顔を皇后に見せている。秋麗風妃の考えていることがいまいちよく分からない……。何か企んでいるのだろうか)

 訝しげな視線を向けてみるが、今の秋麗は采夏に夢中と言った具合で冬梅が疑いの眼差しを向けていることに気付きもしない。

「どうか燕春月妃や冬梅花妃にもお茶をお願いできますか?」

「皇后様がそう仰せになるのならいいですけど」

 采夏の願いに軽やかに秋麗が応じると、何故かふふんと勝ち誇ったような笑顔で冬梅を見る。

(本当に、一体なんなのだ……)

 冬梅が呆れ返っているうちに秋麗が茶碗に緑の粉のようなものとお湯を少し入れる。

 そして秋麗が小さな箒のようなもの――茶筅でかき混ぜ始めた。

「こ、これは……」

 袖をたくし上げ、一心不乱といった様子で茶碗の中身をかき混ぜる光景には覚えがあった。

 以前、ものすごい剣幕で皇后の宮を訪れていた秋麗が、逆にものすごい剣幕でお茶を混ぜるよう促す皇后の言われるままに混ぜさせられていたあの時のことだ。

 今思えば、あの時以来、秋麗と采夏の距離が近くなった気がする。

 しばらくすると秋麗が混ぜ終えたらしいお茶を冬梅に渡してきた。

碗の中に、こんもりとした白い泡が盛られている。闘茶だ。

 引き続き、秋麗は別の茶碗をかき混ぜている。燕春の分だろう。

「冬梅花妃、是非召し上がって」

 采夏に促されて冬梅は泡を口に含んだ。

 口当たりが、ふわふわとした変な感触だった。お茶を飲んでいるような気はしない。

 だが、泡を口に含むとお茶独特の草っぽい青々しい風味が口の中に広がる。そして舌の上にざらりとしたお茶の粉が残った。

「これが、西方の大使を唸らせた闘茶ですか。不思議な味わいですね」

 冬梅はそうこぼす。まずくはないが、いつもの飲み慣れている普通のお茶の方が好みではある。

「本当ですね。お茶の雲を食べているみたいです」

 と楽しそうに答えたのは、燕春だ。いつの間にかお茶が完成して渡されていたらしい。

「はい、こちらは皇后様の」

 という声が聞こえて顔を上げれば、秋麗が皇后に茶碗を渡していた。

 采夏は感謝を述べて受け取ると、じっくりと闘茶の見た目の美しさを堪能してから、茶碗に口をつけてゆっくりと傾けた。

 采夏のお茶を淹れる所作も美しいが、お茶を飲む様もどこか気品がある。

 思わず冬梅が見入っていると、シャカシャカとお茶をかき混ぜる音が聞こえてくる。

 音のする方を見れば、予想通り秋麗がまだお茶を点てていた。

 美しい顔にはきらりと光る汗が浮かんでいた。額には、前髪が汗で張り付いている。顔つきも真剣そのもので、いつもの蠱惑的な微笑もない。完璧に化粧を施して澄ました顔をした普段の秋麗とは、全くの別人だ。だというのに、生き生きとしていて美しい。

(本当にあいつはいったいどうしたのだ)

 訝しげに冬梅が秋麗を観察していると、また闘茶ができたようだ。

 てっきりその闘茶は、秋麗自身が飲むものだと思ったのだが。

「皇后様、どうぞ。二杯目です」

「ありがとう、秋麗風妃」

 出来上がった闘茶は皇后に渡された。しかもまたお茶を点てはじめた。

「秋麗風妃は飲まないのか?」

「ええ、私は結構よ。あまりこのお茶の味は好きじゃないの」

「じ、自分で淹れておいて……」

「ふん、何も知らないのね。冬梅花妃。闘茶の良し悪しは、見た目で決まるのよ。味なんてどうでも良いの」

「身も蓋もない……」

 冬梅は呆れてそういうが、秋麗は気にせず出来上がった闘茶を采夏の前に出した。

「はい、皇后様。次の闘茶です」

「ありがとう、秋麗風妃」

 采夏の酒豪ならぬ茶豪ぶりは、ここにいる誰もが知るところ。

 秋麗が出したお茶をするすると消費していく。

(不思議だ。飲む前には、しっかりと闘茶を眺め回した上で、丁寧な所作でお茶の飲んでいるというのに……早い)

 軽く一瞬碗に唇をつけたと思ったら、碗の中のお茶を全部飲み終わっているという不思議なことになっていた。

 秋麗も頑張ってはいるが采夏の飲みっぷりには追いつかない。

「小鈴、秋麗風妃を手伝ってやれ」

 冬梅は自身の侍女にそう声をかけた。

 秋麗のことだから余計なお世話などと言うかもしれないと思ったが、意外にもすんなりと受け入れた。

 小鈴に茶碗に茶の粉とお湯を注ぐ役割を命じて、自身はひたすら茶をかき混ぜることに集中しはじめる。

 秋麗自身も、このままでは采夏の飲みっぷりに追いつかないと思ったのだろう。

(あの秋麗風妃をここまで虜にさせる、闘茶とは一体……)

 冬梅が変なところで感心していると、皇后が口を開いた。

「そうだわ。皆さんに蓋碗を贈ろうと思っているのです」

「蓋碗、ですか?」

 燕春が興味深そうに尋ねると采夏は深く頷いた。

「一緒にお茶をすることも増えましたし、それぞれ専用の茶器があってもよいかなと。後ほどどのような茶器が良いか伺いますので、考えておいてくださいね」

 采夏がわくわくとした様子でそう言うと「きゃ」と小さな悲鳴と何か硬いものが落ちる音がした。

 見れば、秋麗の手が滑ったのか、茶碗が落ちていた。床には分厚い敷物が引かれていたため、碗は割れてはいなかったが中にあった白い泡がこぼれてしまっている。

(お茶を……こぼした!)

 その光景に、この場にいる妃と宮女達の顔色がさーっと青ざめた。

 そしてお恐る恐るという感じで、皇后の采夏へと視線を移す。

 采夏は、基本的にはとても温厚だ。後宮の宮女達からも、優しい方だと思われている。

 だが、ことお茶に関してだけ、大きく感情を乱すことがあるのも有名な話。

 そのお茶を溢しでもしたら、一体どうなるか。その場に冷たい沈黙が流れた。

「も、申し訳ありません。手が滑って……」

 と流石の秋麗も青い顔で謝罪を口にすると……。

「まあ! 秋麗風妃は、闘茶の楽しみ方をよく知っているのですね」

 予想に反して明るい声が采夏から漏れた。

「……え?」

「闘茶は、こうやって泡でお絵描きをして楽しむこともあったようです。細かく美しい泡であればあるほど、泡で描いた絵も長く残る。しかし泡は泡、いつかは消えてゆく美しさ……風流ですね」

「な、なるほど」

 秋麗から気の抜けた返事が溢れる。

 両手を打って、楽しそうに床に落ちた泡を楽しむ皇后の様子に、その場にいた誰もが胸を撫で下ろした。

(まったく、秋麗風妃め、ハラハラとさせてくれる……)

 冬梅はそう思って、秋麗を見る。

 どうやら闘茶を点てるのをやめたようだ。茶筅を持っていた手首が疲れたのか、ぷらぷらと手くびを揺らしている。

 そしてその手首で揺れる銀の飾りものに目を止めて、冬梅は目を見開いた。

(あれは……銀の腕輪が変色している?)

 銀の輪の一部が、くすんでいた。

 美意識の強い秋麗が、くすんだ色の腕輪をつけてくるとは考えられない。

 となれば、あの変色は、この場で起こったと言うことだろう。

 銀は、毒に触れると変色する。つまり……。

(この場に毒が持ち込まれていた……?)

 冬梅は思わず、ひたりと忍び寄るような悪意を感じて、息を飲んだ。

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