第82話 良いものは良い

「采夏岩茶です」

 突然お茶を飲みたいと言った采夏は早速冬梅にお茶を淹れてくれた。

 采夏岩茶というお茶。

 茶壺から茶杯に並々と注がれた水色は濃い茶色だった。

 普段、薄い黄色や緑といったお茶を口にする冬梅にとって、この色は見慣れない。

 それに色が濃ければ濃いほど、お茶というのは渋みと苦味で出ている印象がある。

「こちらは、私が作った発酵茶です。まだ、自信を持って完成とは言い切れないのですが、改良に改良を重ね、確実に良いお茶へと育っております」

「こちらがあの……采夏岩茶」

 話には聞いたことがあった。茶道楽の皇后が一番気にかけているという幻の茶葉だ。

 まだ、皇后の納得いくところまでできていないとのことで、ほとんど世には出ていないのだとか。

(このお茶の色から察するに、苦味の強いすっきりとしたお茶だろうか)

 冬梅は特にお茶に対して好みというものはない。すっきりとした苦味の強いお茶も好むし、龍井茶のように苦味の中にも甘みの強いお茶も好きだ。

「まさか幻の采夏岩茶を飲めるとは。では頂きます」

 そういって、口につけた瞬間。ブワリと口の中に、花束が広がったような心地がした。

 期待いていた緑茶独特の青々しい苦みは全く感じない。あるのは、花のような芳しさに、芳醇な風味。

 見た目からは想像がつかなかった新しいお茶の味に、思わず目を見開いた。

「これは……」

「采夏岩茶は、発酵させて作ったお茶です。今も青国の中心であるすぐに茶葉を殺青して発酵を止めて作るお茶を「緑茶」、微かに自然発酵させたものを「白茶」と分類しています。そしてもう少し深く発酵させたものを「青茶」と。采夏岩茶は「青茶」。今まで飲んでこられた「緑茶」とは全く違う味わいだったかと思います」

「はい……。初めての体験、でした。それに、この色。あまりにも色が濃くて、煮出しすぎたお茶のようなものかと思って、てっきり苦みが強いお茶かと思っていました」

「……采夏岩茶のお味はいかがでしたか? 期待した苦みがなくてがっかりしましたか?」

「いや、まさか。これはこれでとても美味しいお茶です! 驚きこそあれど、がっかりなど……」

 そこまで冬梅は言って、気づいた。采夏が言わんとしていることが。

 冬梅は思わずまじまじと采夏を見ると、彼女は笑った。

「期待したものと違ったからと言って、必ずしもがっかりされるとは限りません。いえ、たとえがっかりした方がいたのだとしても、だからと言ってそれそのものに価値がないということではないのです。この采夏岩茶もそう。お茶を飲んで、期待した渋みがないからまずいお茶ということにはならない。このお茶はお茶で間違いなく美味しいお茶です」

 采夏の言葉に、一瞬冬梅は固まった。

 そんな風に、言ってくれる人に出会ったことが今までなかった。

 思わず、冬梅は顔を伏せて、口を開いた。もっと采夏の話を聞いてみたいと思っていた。

「皇后様は周りの期待を裏切ることが、怖くはないのですか? 私は……怖い」

 冬梅は、少しためらうようにながら『怖い』という言葉を吐き出した。

 そう、怖いのだ。

 冬梅は昔の頃を思い出していた。いつも大人の期待を背負っているような気がしていた。

「私は両親の間から生まれた初めて子供。当然、世継ぎとして男であることを望まれていた。だが、生まれたのは女である私だ」

 冬梅は遠い過去の記憶を遡りながら口にする。

 お茶が喉を潤したからだろうか、言うつもりなどなかったのに、止まらない。

「父と母は、幼い私が男勝りな振る舞いをすると喜んだ。男装をするようになったのも、親の期待に応えたかったからだ。……本当は、可愛らしいものが好きだった。槍の玩具よりも、華やかに着飾った人形で遊びたかった。だが、周りはそれを望んでいない」

「冬梅花妃様……」

 冬梅の告白に、采夏は驚きで目を見開く。

「私は何をするにも、選ぶにも、自分の好きなものではなく……周りが期待する男らしいものを選んでしまう。もう癖のようなものなのです」

「では、冬梅花妃様が、この黒い蓋碗を欲しいというのは、そう周りが期待しているからということですか?」

「そういうことになりますね」

 冬梅の諦めの響きのある肯定に、采夏が悲しそうに瞳を伏せた。

「期待に応えたくなる気持ちは、私も分かります。……私は青国の民に静謐で、質素で慈愛深い皇后を期待されています。茶道楽の皇后など、民は求めていないのです」

「皇后様、それは……」

 否定しようとしたが、うまく言葉が出なかった。なにせそれは事実だからだ。民は、茶道楽の皇后ではなく賢く慈悲深く徳の高い皇后を欲している。

 ふと冬梅は自身が抱えていたものが、小さく感じた。

 冬梅は確かに、親類や身近なもの達に『男性らしい』ことを期待されている。だが、采夏は、国民全員に『皇后らしい』ことを期待されている。

 それは一体どれほどの重みだろうか。想像すらできない。

 驚き戸惑う冬梅の前で、そんな冬梅をしっかりと見据えた采夏は口を開く。

「……己を偽ってまで期待に応えた先に何があるのでしょうか。それに先ほどのお茶のお味はどうでしたか? 期待したものと違った。でも、美味しかったのではないですか?」

「それは確かに……美味しかったです」

「期待したものでなくとも、味わってみれば良かったと思えるものはたくさんあります。期待に応え続けられるということは、それだけ努力をしているということ。それはそれで素晴らしいことです。ですが、期待に応えられなくとも、冬梅花妃様はすでに素晴らしいのです」

 皇后の言葉には重みがあった。

 自身と同じように、周りの期待を背負っている人だからだろうか。妙な説得力がある。

 冬梅は、目の前の卓に置かれた薄桃色の小花が描かれた蓋碗を見た。

「私は、この桃色の蓋碗を選んでも良いのでしょうか……」

「もちろんですよ。これはただのお見本なので、もっと冬梅花妃様のお好みのものを誂えましょう」

 采夏の言葉に、冬梅は体の中心がじんわりと温かくなっていくのを感じる。

「皇后陛下……感謝いたします」

 噛み締めるようにその言葉を発した。

「いいえ。蓋碗を贈るのは、私がただ皆さんに贈りたいからなのですから」

 そう言って、笑う采夏の顔つきは優しかった。

 先ほど冬梅が感謝を伝えたのは、蓋碗を贈ってくれることだけではないのだが、なんでもないことのように笑う皇后の素直さに、冬梅はどこか救われていくような思いだった。

 そして気づいた。冬梅が、今まで采夏を認められなかった理由は……。

(そうか、私はただ苛立っていたのか。周りの期待に無頓着のように見える皇后に。だが、皇后はちゃんと分かっておられる。自身にかけられた期待も、その重さも。現に皇后は、安吉村の者達のことについて心を痛め、打開策までも考えてくれていたではないか。何も分かっていなかったのは、私だ……)

 自分があまりにも小さく感じた。

 安吉村のことも、皇后であるならばどうにかできるだろうと押し付けて、自分は何もしていないではないか。

 相手に勝手に期待して、出来なかったら恨む。

 そんな器の小さい自分だからこそ、他人の期待を裏切るのが怖く感じるのかもしれない。

 期待通りでなくても、良いものはたくさんある。そう思える皇后があまりにも眩しく感じた。

「ああ、そういえば、可愛らしいものがお好きなのでしたら、装いもお好みのものを誂えましょうか?」

 采夏にそう提案されて、ハッと我に返る。そして、自身お装いを見直した。

 深緑色の袍に、男物の飾り気のない羽織かけている。どこからどうみても、貴公子の出立ち。

 冬梅は可愛いものが好きだ。だからもちろん淡い色の、女性らしい柔らかな服も大好きである。花柄や、金魚の絵柄、キラキラした宝石などが散りばめられているものには、心が躍る。

 だが、最も冬梅が可愛らしいと思うものは……。

「皇后様、お髪に何かついておられますよ」

 冬梅はそういうと、采夏の後頭部に手を回す。そしてそのままぐいと頭ごと采夏を引き寄せた。そして左手で采夏の顎に触れて顔を冬梅の方に向かせる。

「えっと、冬梅花妃……?」

 戸惑う采夏の顔はほんのりと赤い。

 何せ、今にも唇が触れてしまいそうなほど、冬梅と采夏の顔が近かった。

 冬梅は女性ではあるが、一見すれば麗しい貴公子。そんな彼女の端正な顔が近くにきて、戸惑わずにいられぬ女性はそうそういない。

「確かに、私は可愛いものが好きです。そしてこの世で一番可愛らしいものは、なんだかわかりますか?」

「か、可愛らしいもの……?」

「そう、それは……」

 冬梅はそう言って、クッと口角を上げて笑みを浮かべた。

「私を見て頬を染める女性達です」

 そう言われて、采夏の頬の熱は一段と熱くなった。

「まあ、え、えっと、それは……」

 と言いながら采夏は目が泳いだ。冬梅が言うように、頬に熱を感じていたからだ。

 そんな采夏を見て、冬梅はようやく采夏から離れた。

「ふふ、皇后様はその中でも一段と可愛らしい。しかしこんなことをしていたら、陛下に怒られてしまいますね」

「揶揄うのはおやめください……」

 どこか恨みがましくいう采夏が、冬梅にはまた一層可愛らしく感じた。

「ということで、男装はこのままお許しいただければと思います。何せ、この格好が一番、女性の可愛らしい表情を見るのに適しておりますので」

 冬梅の言葉に、采夏は微かに目を見開いたが、すぐに納得したようで柔らかい笑みを浮かべた。

「冬梅花妃が、そう仰るのなら」

 くすくすと笑う采夏を温かい目で見ていた冬梅だったが、ふと思い立って椅子から降りた。そして采夏の前で床に膝をつく。

 突然のことに采夏は目を丸くした。

「冬梅花妃? 一体……」

「皇后様に一つ申し上げたいことがございます。」

 自信の左手の拳を右手で包みこみ、そこに額を乗せて臣下の礼をしながら冬梅はそう言った。

「先日の花見会にて、秋麗風妃が最後に点てていたお茶に毒が仕込まれていました。お茶の飛沫で秋麗風妃のつけていた銀の腕輪が変色していたのです」

「お茶に、毒……」

「状況から考えると、一番に疑うべきは秋麗風妃でしょう」

 あまりにことに目を見開き驚く采夏を、冬梅は痛ましげに見つめた。

(皇后様を失うわけにはいかない。この方は青国に必要なお方だ)

 采夏を悲しませたくはないが、これは采夏の命にも関わることだ。伝えなくてはいけない。

「毒を盛られたなどと言われ、戸惑うお気持ちは分かります。ですが……」

「いえ、私に毒を盛ったというのは、どうでもいいのです」

 と、采夏から思っても見ないことを言われた冬梅は、「え?」と言って言葉を無くした。

「私に毒を盛ったということよりも! お茶に毒を入れるという恐ろしく非道な行いを行う者がいたということが、信じられません! だ、だって、お茶ですよ? お茶に毒を入れるなんて!! そんなことをしたら、もうそのお茶が飲めなくなるではありませんか! 歴史上毒殺を企てる者は数多くいたかもしれませんが、わざわざお茶に毒を盛るなんて、そんな極悪非道な所業を致した者がおりましたか!?」

「うーん、歴史的な観点で見ればお茶に毒を盛るのは、そこそこにあったのでは……」

 しかも毎日のようにお茶を毒味もなしに飲む采夏を毒殺するなら、だいたいの者がお茶に毒を入れるという思考になるのではなかろうか。

「信じられない! お茶に毒を入れるなんて! お茶に!」

 妙なところで憤慨する采夏に、「そ、そうですね……」と答えつつ冬梅は少々腰が引けた。

 全く予想だにしない反応だった。

 自身に毒が盛られたことよりも、お茶に毒を入れられたということにここまで憤慨する人を目の当たりにするのは、冬梅も初めてである。

「どうしてそんな悲しいことを行えるものがいるのでしょう……」

 この世の悪の全てに憤怒するかの如くだった采夏が、今度はこの世の全ての不幸を嘆くように項垂れたのを見て、冬梅はハッと我にかえる。

(いや、皇后様の勢いにのまれている場合ではない。今後はきちんと毒味をさせるように申し上げないと……。少なくとも、毒を入れた犯人が明らかになるまでは)

 硬い決意で、冬梅はキッと嘆く采夏を見た。

「皇后様、僭越ながら申し上げます。何者かが皇后様のお命を狙っている今、無防備に毒味もなくお茶を飲むのは危険です。どうか、しばらくはお茶を控えていただきたい」

 冬梅の必死の懇願に、采夏は顔を顰めた。

「お茶を控える……?」

 そう繰り返した采夏の目は据わっていた。声も冷たく恐ろしい響きがあった。

 冬梅は思わずごくりと唾を飲み込む。恐ろしい迫力だった。

 だが、冬梅としても引けない。采夏は青国にとって、必要な人だと気づいたのだ。そして何より、采夏を失いたくないと思っている自分がいる。

「……では、せめて、毒見役をおつけください」

 冬梅の懇願に、采夏はさらに眉間の皺を深めた。

「毒見役などをつけたら、淹れたてのお茶が飲めないではありませんか」

「ですが、命に関わるのです!』

「命……?」

 采夏は不思議そうにそう言うと、首を傾げる。

 冬梅は何故不思議そうな顔をしているのか分からず、途方に暮れて見つめ返す。

 しばらく二人して戸惑いの視線を向け合っていたが、采夏がくっと片側の口角を上げてどこか悪女じみた笑顔を浮かべた。

「なるほど、命。冬梅花妃は私の命の心配をしてくれているのですね。ですが、それは不要です」

「ふ、不要?」

「それよりも、お茶に毒を淹れるという悪虐非道の行いをするものを懲らしめなければなりませんね。そのためにも……私はお茶を飲まねばなりません」

 そう言って笑う采夏の迫力に、冬梅はもう何も言えなくなってしまった。それほどの圧があった。

 そして冬梅は、可愛らしいだけだと思っていた采夏が、それだけではない存在なのだと、改めて思い知ったのだった。

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