第70話 炊き出し

 黒瑛は他の三人の妃達をたまにではあるが褥に呼ぶようになった。

 自分からそう促したはずなのに、采夏は自分以外の誰かが黒瑛とともに過ごすのだと思うと、その度にちくりと胸が痛む。

 そんなある日、皇太后に呼ばれた。

「東州の水害のことはご存知よね? そのことで、貴女に関わる良くない噂が流布されているのよ」

 皇太后は、椅子にゆったりと座りながら疲れた顔でそう言った。

「良くない噂でございますか?」

「あの水害は皇后のせいだと言われているみたいで」

「私の、でございますか?」

 寝耳に水だった。

 驚きで目を見開くと皇太后が話を続ける。

「そうなのよ。皇后がお茶好きだというだけで、金遣いの荒い傲慢で我が儘な皇后だと思っている民がいてね。おそらく今回の噂もそこから出たのだと思うわ。傲慢な女が皇后についているがために、天がお怒りになって水害を起こしたという話が広まっているのよ」

「そんな……」

 同情的な眼差しを向けて皇太后が采夏の驚きに寄り添う。

 采夏は確かに後宮でお茶を嗜んでいるが、飲んでいる茶葉はもともと後宮用に配布された茶葉を使用しているのみ。

 しかも青国の茶葉は長持ちする。一人分の茶葉で何煎か淹れるのが普通だ。采夏も一回の茶葉で、二十煎近くは楽しむ。

 それに采夏は宝石や装飾品類にはそれほど執着がない。歴代の皇后に比べればむしろ質素に暮らしていた。

「……お茶というがいけないのですね。お茶は高級品です。昔から、茶の虜になったものは財産をなくすと言われていますから」

「その通りよ。だけど私は、貴女のことを民が思うような傲慢な者だとは思っていない。黒瑛には貴女が必要よ。だから、この噂を払拭させたいの」

「何かお考えがあるのですか?」

「ええ。ありきたりではあるけれど、被災民に対する寄付と炊き出しを行おうと思っているの。貴女の名のもとでね」

「寄付と炊き出し……炊き出しというのは、都に移ってきた東州の民に対する炊き出しですね」

「その通り。施しを行うことで、皇后の徳を高めましょう」

 皇太后の言葉に采夏は頷いた。


 早い方がいいということで、采夏は早速準備を進める。

 数日後には、都に移ってきた東州の被災民に対する炊き出しを行うに至った。

 当日、木で作った簡単な露台の上に、采夏達はいた。屋根もついている。

 被災民に配るための山高く積まれた麵麭がの皿が何皿も並び、そしておおきな寸胴鍋が五つ。

 鍋は火にかけた状態で、芋入りの粥がぐつぐつと煮られていた。その前に被災民達が列をなしている。

 たくさんの人々が集まっていた。

 おそらく被災民だけではなく、都の者達もいる。

 なにせ、今回の炊き出しは後宮に篭っているはずの皇后や妃達が自ら民の前に姿を表しての異例のもの。

 傲慢でわがまま、そういう噂が流れる皇后を見に、都の者達が集まってきていた。

「それにしてもすごい人の数だ。それほど民は皇后様を気にされているということかな」

 そう言ったのは冬梅だった。炊き出しのために集まった人々には見えぬように衝立が立てられているのだが、その衝立から外の様子をこっそりと伺い見ていた。

「そうですね。傲慢で我が儘な私を、というところでしょうけど」

 近くにいた采夏が、元気のない声でそう応じると、冬梅が同情するような優しい眼差しを向けた。

「皇后様が姿をみせれば、変な噂などすぐに吹き飛びますよ」

「まったく! どうして、私までこんなところに行かなくてはならないのかしら。はあもう暑いったら」

 奥の椅子にふんぞり返りながら座り、不満そうにいうのは秋麗風妃だ。

「しかし自ら姿を見せて炊き出しを施すというのは、危険ははらみますが妙案ですね。傲慢でわがままという皇后像も、実際に皇后様を見ていないから想像が膨らみ流れていくのです。民のために手ずから炊き出しを行う姿を見せれば印象はおおきくかわるでしょうし」

 そう励ますように言ったのは、燕春だ。燕春の励ましに答えるように采夏はどうにか笑みを浮かべた。

「そうであるといいのですが……」

 どこか元気のない笑みを浮かべる皇后に、冬梅は徐に頭を下げた。

「皇后様、この度は、東州の民のことでお手を煩わせ申し訳ありませんでした」

 采夏は慌てて首を振った。

「謝ることなんて……」

「いいえ、謝らせてください。でないと、気持ちが治らない。……皇后様の慈悲深さに感謝申し上げます」

「皇后様、私の同胞たちのためにありがとうございます」

 隣にいた冬梅の侍女、小鈴も頭を下げた。

「皇后様、もう準備は整ったようです。最初の一杯は皇后様自らの手でどうぞ」

 そういって、玉芳が粥を救うための柄杓を差し出した。

 采夏はそれを受け取ると、衝立から出て五つある鍋の中央の鍋に向かう。

 初めてみるであろう采夏の姿に、民達の声が上がるが具体的に何を言っているかは聞き取れない。

 そのような中で宦官の一人がこの炊き出しが皇后の慈悲によるものであることを高らかに宣言した。


 ◆


「お待たせしました。ささやかではありますが、暖かな恵を。みなさまが故郷に戻れますよう、尽力いたしますわ。天と皇帝陛下に感謝を」

 采夏は挨拶を終えると、早速とばかりに粥に柄杓を入れようとした。だが、寸前のところで手が止まった。

「音が、おかしいわ」

 そういって、眉根を寄せる。

 視線の先は、鍋に入っている粥。

「どうかいたしましたか」

 そばにいた宦官が不思議そうに尋ねる。

「鍋の周りにいる人達を遠ざけてくれますか? 怪我をするかもしれない」

「怪我……?」

 戸惑うようにそう聞き返す宦官に、采夏は鋭い視線を向ける。

「急いで!」

 強い口調で言われて、宦官は「は、はい!」と返事を返すと慌てて鍋の近くで並ぶ民達の前に降りる。

 他の宦官達も同じように前にでて、「少し離れてくくれ!」と声をかけながら、鍋から少し遠ざけた。

 粥をもらいにきた民たちは、なんだなんだと戸惑いながらも押し出される形で後ろに下がる。

「何故下がらないといけねえんだ! 俺たちは飯をもらいに朝からここに並んでいたんだぞ!」

 という中年の男の声を皮切りにして、不満の声が上がった。

「ケチ! 粥を渡さない気なのだ!」

 と幼い子供までもが、声を張り上げていた。

 しかし采夏はそれらの声を無視して、民を鍋から離した。

 そしてある程度、民が鍋から離れると采夏もそこから離れる。

「何か、長い棒のようなもので鍋の中をついて。必ず鍋から距離はとって、身を守るものもあった方がいい」

 采夏の指示に、訝しげな表情を浮かべるも、指示の通りに宦官の一人が盾と竹槍を持ってきた。

 宦官は鍋から離れたところで台に上り、竹槍を粥に差し込む。すると……。

――ドン。

 凄まじい音とともに、鍋の中の粥が跳ね上がった。

 飛び跳ねた粥は、先ほどまで民がいた場所にまで飛び散っていた。

 直前まで火にかけていた粥だ。人が火傷を負うには十分な熱がある。

 あのまま人がいたら、飛び散った粥でその場にいた者達は火傷を負うことになっただろう。

「これは……どういうことだ!? 砲弾でも飛んできたのか!?」

 冬梅が叫ぶ。

「砲弾!? そんなもの、飛んできているようには見えなかったわ……」

 恐怖で顔を引き攣りながら、秋麗がそう返す。

「だが……では一体何が起きたというんだ……」

 誰の目からみても何かが飛んできたようには見えなかった。お鍋の中の粥が、突然音を鳴らして飛散した、としか言いようがない。でも、そんなことあり得ない。

「皇后様、これは一体……」

 こうなることを予見していたかのような采夏に、燕春がそう尋ねる。

 皇后は、青い顔をしながら頷いた。

「これは、突沸です」

「突沸……?」

「粥のような粘度のあるものを混ぜずに火にかけ続けると、まれにこのようなことが起きるのす。うまく熱を逃しきれなかったものが鍋の中に留まり、何か衝撃を加えることで爆散する現象です」

「そんなものが……」

 燕春は、粥の飛び散った鍋を見て絶句した。

 もし采夏が気づかなければ、ここの場はまさしく地獄絵図になっていただろう。

 炊き出しを求めてやってきた民は火傷をおい、そしてもちろん采夏自身も無事ではなかった。

「この鍋を担当していた者は誰だ? いや、その前に他の鍋は大丈夫なのか?」

「他の鍋は大丈夫そう」

 そういって采夏はいつの間には別の鍋に柄杓を入れていた。

「こ、こ、皇后様……! 危険です、すぐに退いてください!」

 自ら無防備にも他の鍋に近づく皇后に目を見開く。

「大丈夫よ。他の鍋も問題ないわ。……きっとあの鍋だけかき混ぜるのが足りなかったのね。これなら炊き出しを続けられそうだわ」

 あっけらかんと答える采夏に、燕春はまたしても絶句した。

「そんな、皇后様! 危険です!」

 自らが率先して粥が爆散しないか確認しているように見える皇后に、燕春は悲鳴に近い声を上げた。隣にいた冬梅も青い顔で頷く。

「そうです。もしあのまま皇后様が気づかなかったら……」

 周りの者達も火傷をしただろうが、粥を掬おうとしていた皇后が一番危なかった。場合によっては命を落としている可能性もある。

「気づけたのだから、問題ないわ。溢れてしまった粥はもったいないけれど。それよりも、集まってくれた皆さんをお待たせするわけにはいかない」

 皇后は顔をあげた。そこにいるのは、怪我こそしなかったものの、突然の轟音に驚き戸惑っている民達だ。

 その視線を受け止めながら、采夏は何事もなかったかのようにお椀に粥を救って流し入れる。

「さあ、お待たせしました! 粥を一番に手に取ってくれるのはどなたかしら?」

 そういって粥の入ったお椀を掲げる。

 呆然としていた被災民達だったが、皇后の朗らかな物言いに落ち着いてきたようだ。

 顔つきが穏やかなものになっていき、その中から小さな子供が前に進み出た。

 だが前に出たものの、おずおずとした様子の子供に采夏は微笑みかける。

「怪我はなかった?」

「うん……。僕達を守ってくれたんだよね? さっきはケチとか、ひどいことを言ってごめんなさい。感謝します」

 どうやら先程の鍋から民を下がらせた時に、暴言を吐いた子供だったらしい。

 塩らしい様子に皇后は優しく微笑んだ。

「怪我がなくて良かったわ」

 そう言って采夏は子供に粥と麵麭を差し出す。

 それを皮切りにして、我も我もと被災民達が前にでてきた。

 一時はどうなることかと思ったが、何事もなく終わりそうである。

 采夏はほっと胸を撫で下ろした。

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