第71話 突沸

 そうして東州の民への炊き出しは順調に進み、問題なく終えた。

 慣れないことをして疲れたであろう妃達を労うために、采夏はお茶に誘う。

 いつもは采夏のお茶の誘いを断ってくる秋麗も、その時ばかりは応じてくれた。

 今日のお茶は、やはり龍井茶だ。

 今年も、龍井茶が皇帝献上茶に選ばれた。

(陛下は、よほど龍井茶がお好きなのね)

 采夏は香高いお茶を前に、愛しいを思い浮かべて思わず笑みを作った。

 「まったく、皇后様には驚かされることばかりだ」

 采夏が龍井茶の甘みに体の疲れを癒していると、そう声をかけられた。

 困ったような笑顔を浮かべる冬梅だ。

「私もヒヤヒヤしました……。皇后様ったら、あんな風に鍋の中身が飛び散った後に、普通に他の鍋も見てまわってしまうのだもの」

 燕春はいまだ顔色が悪い。それほどに采夏のことを心配したのだろう。

「でも、おかしいですわ」

 鋭い声が飛んできた。秋麗だ。秋麗は茶会に参加したというのに、采夏のお茶には一口も口をつけていなかった。

 その秋麗は不満そうに口を開く。

「随分と皇后さまにとって都合が良すぎるのではないかしら? 東州の水害は皇后の不徳のせいだと言われていて、実際皇后様に対する彼らの視線は厳しかったわ。でも、先程の出来事のおかげで、もう誰もそんなこと思ってないみたい。いいえ、むしろ危険を予見して守ってくれた皇后様に尊敬のような気持ちを持ち始めていたように見えましたわ」

 ねっとりとまとわりつくような言い方だった。

 それに苛立ったのか、冬梅が不快そうに片眉をあげた。

「何が言いたいのだ、秋麗風妃」

「気を悪くしないで欲しいのですけれど、はっきりと申し上げたら、全て皇后様が仕込んだことなのではないかしらって、そう少し思っただけなの」

 にっこりと綺麗な笑みを浮かべる秋麗に、燕春がめくじらをたてる。

「皇后様がわざとそのようなことをするなんてあり得ません」

「まあ、あり得ないだなんて、どうしてそう思えるのかしら。だって、不自然でしょう? 私の目には、あの鍋に入っている芋粥に変なところがあるようには見えなかったわ。でも、皇后様は鍋の中身が飛び散ると事前に気づけた、どうして分かったのかしら。不思議ですわねぇ」

「それは……」

 と答えた燕春が口籠る。燕春も、確かに何故皇后が分かったのか気になっていた。

 伺うように燕春が采夏を見ると、采夏はなんでもないように笑みを浮かべていた。

「気づけたのは、音のおかげです」

「……音?」

「おいしいお茶を淹ためには、湯温が大事な要素の一つなのは皆様ご存知かと思いますが、あ、もちろん大事なのは湯温だけでなく様々な要素が必要です。茶葉の品質はもちろん水の質や……」

 ウキウキとした様子で突然お茶の話が始まった。

 突然始まったお茶談義。

 妃達があっけに取られた表情で采夏を見る中、采夏の奇行に慣れている玉芳が後ろからそっと耳打ちする。

「皇后様、止まって、止まって。今その話はしていませんので」

「あ、ごめんなさい。つい……。こう、お茶の話になると……」

 と頬を赤く染めた采夏照れたような素振りを見せる。

「すみません。えーっと、そうでした。音の話でしたね。湯温を測るのに、私はお湯の沸く音を頼りにしているのです。湯が沸いてくると、ふつふつと気泡が抜ける音がしますよね? その音の鳴り方で、お茶に最適な湯温がわかります。それは、他の飲み物や羹にしても同じこと。粥も火にかければ熱を帯びてぶくぶくと気泡が抜ける音がします。……ですが、あの時の粥には、それがありませんでした。つまり、粥の底に、熱や気泡が閉じ込められていた状態です。そこに少しの衝撃を加えると……」

「あの時、粥が爆散したように、あたりに勢いよく飛び散るのか」

 采夏の言葉を冬梅が継いだ。采夏は軽くうなずく。

「その通りです。押さえ込まれていたものが一気に飛び散ってしまうのです」

「他の鍋が問題ないと断じたのは、粥が泡立っていたからですか?」

 燕春の質問に采夏はまた軽く頷いて肯定を示した。

「いや、皇后様には驚かされてばかりだ。これほど聡明な方だったとは。感服いたしました。皇后様が気づいてくださったおかげで、東州の民も傷を追わずに済んだ。東州を代表して感謝申し上げます」

 と冬梅は感心したように言って笑みを深めた。

 どこぞの貴公子もかくやな微笑みに、近くで待機していた宮女から、うっとりしたようなため息が聞こえる。

「そんな、それほどのことではありませんよ。冬梅様も、お茶の湯を沸かす際はお気をつけてくださいませ。お湯を沸かすだけでは滅多に突沸は起こりませんが、バター茶など、お茶の中に何かを入れて鍋で温める際は注意しなくてはなりません」

 にこにこと応じる采夏の隣で、「普通のお妃様は、自分でお茶を淹れることはないので無駄な心配です……」と玉芳が疲れた顔で小さく嘆いた。 

 そして女官達を一瞬にして虜にした冬梅はその瞳を鋭くして、秋麗を見やった。

「突沸に気づけたのには理由があった。秋麗風妃、これでお前の浅はかな疑問は晴れたかな? であれば、あろうことか皇后様に疑いを向けた不敬について謝罪するべきでは?」

 冬梅の視線を受けて、秋麗は悔しそうに目を細めた。

「……どうかしら。確かに粥が爆散することを事前に察知する方法があるのは分かったわ。でもそれが、皇后様が仕組んだということを否定できるものではないでしょう?」

 二人の間に、火花が散るのが見えた気がして、思わず玉芳は「お、おお」と声を漏らした。

 采夏と一緒にいると忘れがちだが、ここは後宮。妃同士がバッチバッチに争い合う女の戦場だ。

「そう、そうだった。後宮とはこういうところよ!」

 何故か感動して思わず拳を握る玉芳である。

 少し興奮している玉方の元に、女官が一人やってきて耳打ちをした。

 玉方はハッと目を見開き、それからおずおずと椅子に座る采夏の前に跪く。

 口論をしていた冬梅花妃も秋麗風妃も玉芳に視線を移した。

「皇后様、先程の中の粥が爆散した鍋についてご報告です。どうやら事前の準備において伝達がうまくいかず、あの鍋だけ粥をかき混ぜるものが不在だったようなのです」

「まあ、そうだったの」

「もっと詳しく調べさせますか?」

「もういいわ。ありがとう。結果としては、特に何も問題なかったのだもの。これで終わりにしましょう」

 采夏は呑気にそう言うと、また一口お茶を飲んだ。

「でも、皇后様……」

 燕春が何事かと言おうとした時、秋麗の大きなため息に遮られた。

「本当に皇后様ったらおめでたい方。もっと徹底的に調べるべきでは? ああ、でもあまり調べられると困ることがあるのかもしれませんわね?」

 美しい顔に浮かぶ意地悪な笑み。

「秋麗風妃、良い加減にしないか」

 冬梅の少し低い鋭い声が飛ぶ。明らかに怒気が含まれた声色だ。美形の睨みは凄みがある。玉芳などは自分が睨まれたわけでもないのに思わず震え上がったが、秋麗は怯まない。

「まったく冬梅花妃ったら、皇后様のご機嫌取りにお忙しいこと」

 と馬鹿にしたように笑って、また二人の口論が再開した。

 采夏は二人が元気よく言い合う様子を眺めながらのほほんとお茶を飲んでいた。

「お二人とも、とても元気ね。たくさん喋ると喉が渇いてお茶がより美味しく感じられます。お二人ともよく分かっていらっしゃるわ」

 などといつも通りのお茶中心の嗜好回路で言葉を紡ぐ。

 そんな采夏を玉芳がいつも通り呆れたように眺めた。

 そしていつもなら燕春がお茶に夢中な采夏の尊さにニマニマと微笑むところ、なのだが、今は暗い表情を浮かべている。

 先程采夏に言いかけて、秋麗に遮られた言葉が燕春の胸をざらつかせていた。

 皇后は、結果として怪我人もいなかったので問題ないと思っているが、とても恐ろしいことのように燕春は感じていた。

 もし、皇后が気づかなかったら、采夏はあのまま熱い粥を頭からかぶることになって大怪我を負っていただろう。

 それに、鍋の近くの被災民達も同様だ。

 東州の水害は皇后のせいだという根も歯もない噂が広まったこの時期に、もし皇后の名を冠した慈善活動で怪我人でも出たとなれば、どんなことになっていたか。

 燕春は、これは誰かが皇后を貶めるために企んだ事のように思えて仕方がなかった。

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