第58話 黒瑛、探る
「おやおや、ずいぶんと勢いよく飛び出していきましたね」
呂賢宇がお腹を押さえて走り去っていくと、入れ替わるようにして片眼鏡の男がやってきた。青国の太子である陸翔だ。
「ずいぶんと遅い登場だな、陸翔」
「この年でこの暑さの中を長時間いるのは堪えますから」
「そこまで言うほど、年寄じゃないだろ」
陸翔の軽口に、黒瑛は呆れて返す。
陸翔はまだ三十過ぎぐらいで、宮中でも若い方だ。
「冗談ですよ。さすがに皇后の茶会に私までそろっていたら、警戒されると思いましてね」
そう言って、陸翔は手で顔を仰ぎながら黒瑛の斜め後ろに腰を下ろした。
それを横目で見守ると、今度は采夏を見る。
「それにしても、茶に毒でも入れたのか?」
呂賢宇が急に走り去っていった背中を思い出しながら、黒瑛は采夏にそう尋ねた。
「まあ、陛下ったら。私が茶に毒を入れるとお思いですか?」
「いや、思わない。思わないから少々びっくりしたというか……」
といって、黒瑛が、説明を求める視線を采夏に向けた。
「それは、先日も申しましたが、茶は草本学では『涼性』を持っています」
「ああ、確か体を冷やす性質があるという話か」
「そうです。性質として、茶は体を冷やす効果を持っています。それに氷を加えたものを一気に飲み干せば、どうなると思いますか?」
「……なるほど、体を冷やし過ぎて腹を下したということか。部屋の気温を熱くさせたのも、奴が一気に飲むのを誘導するためか? ……私も氷袋がなかったら冷茶を煽って腹を下していたかもしれないな」
黒瑛と采夏は事前に氷を入れた布袋を衣に仕込んでいた。何とかそのおかげで涼が獲れたが、何もなかった呂賢宇と同じ末路になっていただろう。
「それに冷たい水でゆっくりと淹れた茶は、本当に甘いですからね。以前も話したことがありますよね? 茶は低い温度で淹れると苦みや渋みが出にくくなる。つまり茶の甘みが良く感じられるようになるんです。それに茶の甘さにしつこさはありません。どこまでも爽やか。故に、何杯でも飲めてしまうのです」
「ああ、確かに何杯でも飲めそうだ……」
黒瑛はそう相槌を打って、小さな碗に淹れられた冷茶を改めて口にした。
まず感じるのは夏の暑さを吹き飛ばすほどの冷たさ。加えてその冷たさと一緒に香ってくる茶の香りの清涼さ。
采夏の言う通り、茶の渋みと苦味が少なく、より一層爽やかな甘さを感じる。
「どんな良薬も、量や用法を間違えれば、毒となります。まさしく、茶とは、口あたり爽やかな甘美に過ぎる薬であり、毒なのです」
冷茶を飲んでうっとりとそう呟く采夏にはどこか艶がある。
「一体、なんなんだ? 何故あいつを出て行かせた」
鋭い声が割って入った。
呂賢宇とともにこの部屋に入り、部屋の隅で様子を見守っていたウルジャだった。
采夏も黒瑛も、彼のために一芝居打ったことを思い出す。
「おい! 皇后に対してならまだしも、皇帝陛下にまでそのような口を利くとは何事だ!!」
今までずっと黒瑛の後ろで黙って立っていた坦がそう吠え付いた。
相変わらず皇帝への忠誠心が厚すぎて、少しでも無礼があれば吠える癖がある。
「担、皇后に無礼を働く奴にも、同じぐらいの熱意でやってくれ」
黒瑛が思わずそう坦を諫めるが、どうやら聞く気がないようで先ほどから鼻息をふんふん鳴らしてウルジャを威嚇している。
「俺は、お前たちの国の住人じゃない。陛下だか皇帝だか知らないが、俺にとってどうでもいい存在だ」
「何を!!!!」
ウルジャの言葉に坦がさらに吠え付く。
今にもとびかからんばかりの坦を手で制して、黒瑛は改めてウルジャを見た。
「この国の者じゃないとはっきり応えてくれたことに感謝しよう。俺はまさしくそのことを聞くために、呂賢宇を追い払った。話を聞かせてもらおうか」
黒瑛がそう問いかけると、ウルジャはむっつりと険しい顔で黒瑛を見返した。
お互いがお互いを見つめ、そしてウルジャの方が先に視線を外した。
「……分かった。話すかどうかは別として、何が聞きたいのかだけは聞く。俺も聞きたいことがある」
ぶっきらぼうにそう答えると、黒瑛もまずまずだなと言った表情で頷いた。
「だから、その代わりにと言うとあれだが……」
とどこか言いにくそうにウルジャは言うと、顔に巻いていた布を解いた。
「俺にもさっきの冷たいお茶をくれないか」
そう言って解かれた布の下には、水浴びをしたかのように濡れたウルジャの黒髪。
布の下で密かにびっしょりと汗をかいていたらしい。この暑さなら当然と言えた。
そして先ほどまで、吠え付きそうなほどにウルジャを睨んでいた坦もハッとして黒瑛をみた。
「申し訳ありません。私にもいただけますか?」
暑さか、照れ故か、坦は顔を赤くさせながら小さく懇願し、陸翔もついでとばかりに「あ、では私も」と冷茶を要求した。
そうして締めきっていた窓を解き放ち、室内に涼やかな風を通す。
呂賢宇が気持ちよく冷たい茶を飲んでもらえるように蒸し風呂のようになっていた小さな宮に、やっと涼を感じられた。
この場にいた五人はそれぞれ冷茶で一服し、黒瑛は改めてウルジャに問いかけた。
「呂賢宇の目的はなんだ」
「そんなの本人に聞け。俺は知らない」
「陛下に対してその口の利き方はふが!」
黒瑛が行かれる坦の口に茶ウケに用意していた饅頭を突っ込んだ。
「黙れ、坦。お前が吠えるたびに先に進まなくなる」
呂賢宇も用をすませばまたこちらに戻ってくるだろう。
時間制限がある。彼が戻ってくる前までには、ウルジャから有益な話を聞きださねばならない。
「そういえば先ほど聞きたいことがあると言っていたな? まずはそっちの話を聞こうか」
黒瑛がそう問いかけると、視線を逸らしていたウルジャが黒瑛を見た。
「……青国が、テト族との茶馬交易を再開させたいと思っているというのは、本当か?」
「本当だ。一年ほど前、呂賢宇に交易の再開の交渉をするように命じた。呂賢宇はお前たちになんと言ったのだ? こちらは、テト族の方が交易の再開を断ったと聞かされたぞ」
「なんだと……?」
黒瑛が即答すると、ウルジャは微かに目を見開いた。
そして、顔を険しくて再度口を開く。
「以前と同じような内容での、交易か?」
「? ああ、そのつもりだが。……陸翔、今の相場で考えると、どういった取引になりそうだ?」
「馬一頭に対して、茶葉百斤といったところでしょうか」
「と言うことらしい」
黒瑛がそう言うと、ウルジャは戸惑うように瞳を揺らす。
「本当に、それだけか? テト族の若者を……」
ウルジャは何かを言おうと勢いよくそこまで言って、口を閉じた。
何か話してくれそうだった様子だったが、途中で考え直してしまったらしい。
黒瑛が内心で舌打ちしていると、迷うように目を彷徨わせていたウルジャが黒瑛を睨みつけた。
「信用ならない」
「信用ならないと言われてもな……」
黒瑛は疲れたようにそう呟く。
「口だけなら、なんとでも言える。俺達は、その言葉をどうやって信用すればいい。一度は裏切ったお前たちを俺はまだ信用できない」
ウルジャがはっきりとそう口にすると、宮の中が一瞬、静まり返る。
その中で、カチャリと茶器の軽やかな音が響いた。
「部屋も幾分涼しくなりましたし、温かいお茶でも飲みませんか?」
場違いなほどに明るい声。采夏だった。
「ねえ、陛下、テト族の方は大事な客人には三道茶でもってもてなすのです。陛下もテト族の流儀にならってみてはいかがでしょうか?」
何も言えずにいた黒瑛に、采夏は改めて言葉を足すと笑顔を浮かべてみせた。
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