第57話 皇后の茶会
透かし彫りの衝立には、見事な蓮の紋様。細やかな刺繍が施された枕は高く、部屋中に並ぶ装飾品は、申し分ない。
宮中でも、最上位の客室だ。
その豪華な客室の中で、一人の男が苛立たし気に膝を揺すっていた。
(くそ! くそ! くそ!! なんなんだ、あの皇帝は!! いつまでここに滞在すればいいんだ! 若造のくせに私に命令するとは生意気な!)
男な内心で罵る。
顔を顰めて皇帝を内心罵るのは、皇帝の前では見事なまでのこびへつらい顔を張り付けていた呂賢宇だった。
(大体にして、あの莫迦燕春が悪い。何が、このまま碧螺春を持ってこなければ兵士を連れて茶を摘みに行く、だと!?)
そう言って、呂賢宇は文を握りしめた。
ぐしゃりと握りつぶされた文は、燕春からの呼び出しの文。
文の内容を要約すると、『碧螺春をもってこい。皇后に献上しろ。皇后に献上するのだから、呂賢宇お前が出向くのが礼儀だ。さもなければ、兵士を連れてお前のところの領地を侵略するぞ』といった具合だ。
この文を見るたびに、呂賢宇は怒りのあまり血管が切れそうになる。
大体、兄の末の娘である燕春は、気の小さい、何も言えないような小娘だったはず。
その顔さえおぼろげなほど存在感もなかった。なのに、まさかこんな脅迫まがいの文をだすとは今でも信じられない。
本当に自分で書いたのか、誰かに書かされたのか。誰かに書かされたのだとしたら、一体だれが。
答えの出ない問答に、忌々しそうに眉を寄せる。
(まさか、まさかとは思うが、勘付かれたか……!? 私が……)
と思って、呂賢宇は、先の謁見でまみえた黒瑛の顔を忌々し気に思い浮かべた。
ぎりりと音が鳴るほどに奥歯を噛みしめた。
「なあ、青国は本当に、茶馬交易と俺達と行う気はないのか?」
ふと横から声をかけられて、暗い妄想に捕らわれていた呂賢宇は視線を上げた。
そこには、北州のさらに北にある山脈を越えた先にある草原に暮らす民、テト族の男がいた。
名はウルジャ。
呂賢宇は、燕春の呼び出しの文を読み、急いで都に移動する必要を感じたが、馬車での移動では時間がかかりすぎる。
そこで、ウルジャの馬で移動することにした。
遊牧民族テト族が育てる大きな馬は、二人乗りでもかなりの速さが出る。
呂賢宇にとって、ウルジャなどは下の下の存在。にもかかわらず自分と直接口を利き、なおかつ粗雑な話し方をするのが気に障るが、何とか穏やかな笑顔を浮かべて見せた。
呂賢宇にとって、ウルジャはまだこれから使い道のある男だ。
「そうだとも。突然どうしたのだ」
「そうか……」
呂賢宇の言葉に、ウルジャはそれだけ言うと、不満そうにむっつりと押し黙った。
(相変わらず、何を考えているかわからん男だ)
内心で舌打ちを打ちながら、彼を見やる。
(急ぎのために仕方なかったとはいえ、こいつを従者に選んだのは失敗だったか。私に多少は恩を感じているようだが、良く分からん奴だ。私がやっていることを口に出してしまうやもしれん。面倒だが、宮中にいる間は常に側で見張っておかねば)
警戒するように目を細めると、ウルジャが顔を上げたために目があった。
「青国に茶馬交易を断られ続けていた俺達に、国に隠れて交易を結んでくれたことは感謝してる。だが、本当に青国は、茶馬交易を拒否しているのか? 皇帝、茶道楽で有名な皇后を娶ったんだろう? そんな皇后を据えた皇帝が、茶を独占しようとしているというのが信じられない。……茶道楽なら、茶を広く分け与えようとするはずだ」
「茶道楽だからこそ、茶が外に出ないように独占しようとしてるのではないかな?」
内心何を言いだすのかと忌々しい気持ちを抑えながら、務めて穏やかな声色を使って呂賢宇はそう言った。
やはり事情がどうあれ、ウルジャを連れてきたのはまちがいであったかもしれない。そう舌打ちを打ちたい気分でいた呂賢宇は、一年ほど前のことを思い出した。
茶の入手に困り果てていたウルジャ達テト族に、茶馬交易を持ちかけた時のことだ。
呂賢宇は国から馬の調達が早急に必要なために、茶馬交易を再開させろと言う命を下されていた。
彼はこの時その話を聞いて、青国が弱った武力を補うために馬を欲していることに気付いた。
馬とは、それすなわち武力であり、先の時代では、国内に己の治世に歯向かうだけの武力が集まるのを恐れた壬漱石は、馬の交易を止めていた。
だから現在、青国国内の馬の数は少ない。
加えてテト族の馬は、青国内で育てられている馬よりも体躯が大きく壮健だ。
ほとんど別の生き物と言う者さえいるほどである。
その馬を、内密で自分の懐に抱えることができたら……。
そう踏んでテト族には国は交易するつもりはないが個人的に取引してやると提案した。
当時のテト族は、青国と戦争をしてでも茶を手に入れようと躍起になっていた時期で、ちょうどよかった。
茶の入手に困窮していたテト族は二つ返事で提案を飲んだ。
そして青国の方には、交易が失敗したことを伝えた。
もともと一方的に交易を断絶した非があることを認めているので、テト族が断るのもさもありなんと思うところがあったらしく皇帝は呂賢宇をそれほど責め立てなかった。
まあもちろん、渾身の泣きの演技があってのことだとは思うが。
少し大げさに泣いて見せたり、怒って見せたり、喜んでみせるだけで、周りが自分のことをよく思ってくれる。
そうして周りを欺きながら、呂賢宇にはテト族の馬と言う武を抱えることに成功し、加えていざとなれば果敢な戦士ともなるテト族の若い男さえ手に入れた。
テト族にとって、それほど茶というのは、大事らしい。
若い男は故郷に茶を渡すためだけに草原を離れて呂賢宇に付き従っている。
だというのに、もしここでウルジャに、青国が本当は茶馬交易を再開させたいと思っている事がばれたら厄介だ。
注意深く、ウルジャの反応を見ていると、彼は少し目を逸らしてきまり悪そうに口を開いた。
「……采夏は確かに茶道楽だが、茶を独り占めしようとするような女じゃない、と思う」
言いにくそうにそう言うウルジャの様子を見て、おやと呂賢宇は目を見張った。
(皇后と知り合いか? いや、今の皇后は南州の姫だ。北州より奥地で暮らすテト族のウルジャが知り合えるわけがない。となれば、風の噂で聞いた皇后の話を本気にし、恋慕でも抱いてるのか? 皇帝と皇后の話は下らん書物や劇の題材にされているからな)
呂賢宇は、少々呆れた瞳でウルジャを見た。
下賤の身分で皇后に恋慕するとはおこがましい。
呂賢宇は穏やかな微笑みの奥で、ウルジャを見下して鼻で笑う。
(そういえば、ちょうど明日、皇后の茶会に誘われていたな……)
茶道楽で有名な皇后の誘い。面倒であるが『今』は従うしかない。
そう、まだ『今』は。
「いやー本当に最近は暑くて、まいりますねぇ」
と、だらだらと流れる汗を拭きながら、呂賢宇がいつもの猫なで声でそう言った。
呂賢宇は唐突に皇后が開く茶会に誘われ、言われるがまま外廷の奥の奥にある小さな宮に入ったところだった。
黒瑛に勧められて、用意された椅子に座るとどっと汗があふれ出す。
何しろ今日はカンカン照りの夏日。
加えてこの部屋は少々狭い上に、何故か窓を閉め切っていて風も吹かない。
しかもその締め切った窓は薄絹の紗で仕切られた丸窓のため、太陽の明るい光ばかりが部屋にふりそそぎ、より熱を室内に籠らせているようだった。
「本当に、その通りだな。今日は特に暑いような気がする」
と言いながら、皇帝はどこか涼し気な顔で応じる。
「それに、この部屋は外よりも暑いような、気がしますなぁ」
と忌々し気に湯を沸かしている鍋に視線を注いだ。
茶に使う湯でも沸かしているのかもしれないが、何もこの狭い部屋で沸かさなくてもいいのではないか思わなくもない。
何しろもう暑いのだ。
「本当に暑いですね。でも、こんな時だからこそ、おいしく飲めるお茶を用意しました」
そう言って、皇后は重たそうな鈍色の鉄瓶を持ち上げた。
その鉄瓶の表面は、水滴に覆われている。皇后は鉄瓶を傾けると、小さな碗に中身を注ぎ入れた。
鮮やかな黄緑色の液体。茶だ。
一瞬、ひやりとした冷気を感じた。おそらくあのお茶はとても冷やされている。
鉄瓶の周りの水滴は、中身の冷たさで発生した結露だろう。
思わずごくりと呂賢宇の喉がなった。先ほどから汗をかきっぱなしで喉が渇いていた。
そうこうしていると、皇后が茶のはいった碗を差し出してくる。
その碗に手を伸ばすと、ひんやりと冷たい感触にうっとりとため息をついた。
(これほどまでの冷たさ、おそらく氷を使ってる……)
夏の氷はかなりの貴重品である。田舎に追いやられた呂賢宇では手が届かない代物だ。
「冷やした龍井茶です。きっと暑さもどこかに飛んでいきます」
皇后の言葉に呂賢宇はぼんやりと頷いた。
冷たいお茶を出すつもりなら何故湯を沸かしているのかという疑問が一瞬浮かんだが、今はそれどころではなかった。
早くこの喉の渇きを潤したい。それしか考えられない。
呂賢宇は、冷たい茶を一気に煽るように飲んだ。
(甘い……!)
思わず茶の旨さに唸った。呂賢宇も茶を飲んではいるが、これほど甘いお茶を飲むのは始めてだった。
そして何より、のど越しの冷たさの気持ちよさたるや格別が過ぎる。
「まあ、素晴らしい飲みっぷりですね。おかわりはどうですか?」
「いただいてもよろしいのですか?」
皇后の誘いに、思わず破顔した。もっと飲みたい。この冷たい飲み物を腹で満たして、このうだるような暑さを吹き飛ばしたかった。
「もちろんです。これはだって、呂賢宇様のために用意したのですもの。あ、そうです。よろしければこのままでどうですか?」
そう言って、なんと皇后は鉄瓶ごと渡してきた。
「え、よいのですか!?」
受け取った鉄瓶はやはり冷たい。触れたところの結露が指から手首のあたりにしたたり落ちてくる。それもまた気持ちが良かった。
「はい。さ、このままグイッと直接お飲みくださいませ」
そう言って皇后が鉄瓶を煽るような仕草をしてきた。
不敬に当たらないかと皇帝を見れば、皇帝も笑顔を浮かべている。どうやら問題ないらしい。
そして、呂賢宇ははやる気持ちのまま、鉄瓶の注ぎ口に直接口をつける。
「直接口に付けるのですから、きちんと最後までお飲みくださいね」
囁くように言う皇后の声を聞きながら、茶を煽った。
ゴク、ゴク、ゴク、ゴクリ。
冷たい茶を飲み下す音が、部屋に広がる。
とまらなかった。冷たい果実汁ならその甘さに飽きて、三口ぐらいで口を離していただろう。
だが、この冷茶は違う。
甘みがありつつも、苦みと渋みが加わってさっぱりとした口当たりだ。
味が濃い、薄いとかではない、独特な風味はどこまでも爽やかで、いくら飲んでも飽きが来ない。
「ぷはあああ……!」
全てのお茶を飲みこんでから、詰めていた息を大きく吐き出した。冷茶を口に含んで冷やされた口内から吐かれた息もまた冷たい。
先ほどまで感じていた暑さはもうなかった。冷たいお茶で、体の芯から冷えていく。
そう、体の芯から……。
『ぐきゅうううううううううるるるううう』
不吉な音が鳴った。それも呂賢宇の腹のほうから。
うだるような暑さに参っていた呂賢宇は確かに、冷茶にて救われた。
だが、冷やし過ぎた。
呂賢宇は、お腹の痛みとともに抗いがたい便意に襲われる。
「も、も、も、申し訳ありません。少し席を外します。ちょっと、お腹の調子が……」
そう言って、思わず腰を上げる。
皇帝の前で粗相をするわけにはいかない。
「そうか。気にせずいってくるがいい」
皇帝の言葉を聞き終わるか終わらないかで呂賢宇は小走りで部屋から出ていた。
部屋から出ると、「ゆっくりしていってくださいね」という皇后の声が微かに聞こえたような気がしたが、それに気を留める余裕すらなかった。
だから、その部屋に絶対に一人にしてはいけないと思っていたウルジャを置いてきたことをすっかりと忘れていた。
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