第59話 ウルジャ、三道茶を飲む

 采夏の提案で、ひとまずお茶を飲むことになった。


 いそいそと湯を沸かして茶葉を煮込む采夏の姿を、ウルジャは壁に背中を預けながらぼんやりと見ていた。

 本来なら茶など飲んでる場合ではないのだが、采夏のあのなんとも言えない笑顔に気が抜けてしまう


 見れば皇帝黒瑛も先程までの険しい顔つきがどこかにいき、今は柔らかな眼差しで采夏を見ていた。

 その優しい眼差しが、采夏を愛しく思っていることが伝わってくる。

 だが、それがまたウルジャにとっては気に食わない。

 皇帝というものはたくさんの妻を召し抱えるときく。実際、立場の差はあるとは言え、呂賢宇の姪も采夏と同じ彼の妻の一人なのだ。


 テト族は他の遊牧民族の中では珍しく、一夫一妻性をとる部族だった。

 複数の妻がいるという状況になんとなく嫌悪感がある。

 今は采夏に甘い眼差しを向けてはいるが、それはきっと采夏だけではなく、他の女にも向けられてるのだろう。


 そう考えると……信用のならない男に思えてきて仕方がなかった。

 先程真摯な顔で、テト族との茶馬交易を再開すると言った黒瑛を思い出す。

 馬一頭に対して百斤の茶葉ならば、従来通りの相場で理想的な交易だ。

現在、ウルジャ達テト族は、呂賢宇と独自で茶馬交易をしている。


 呂賢宇が、困り果てていたテト族のもとにきて、独自で交易を行うことを提案したのだ。

ウルジャはその話に飛びついた。

当時、テト族が、青国に攻め入るかどうかでもめていた。

交易が再開されれば部族内で揉めることもなくなる。

だが、呂賢宇には完全に足元を見られていた。馬一頭に五十斤の茶葉。そして、テト族の若者に対する労役。

呂賢宇は、馬だけでなくテト族の若い男たちが欲しいと言ってきたのだ。

そしてウルジャ達テト族は、一族内で揉めるぐらいならと、その提案を飲んだ。

苦しい決断だったが、それでも困り果てていたテト族に再び茶を持ち込んでくれた呂賢宇に感謝していた。

それがまさか、青国は茶馬交易を再開したがっている? 呂賢宇の言っていることが嘘?

そんな話を今更素直に信用できるわけがない。

そもそも皇帝は 生涯をともにする伴侶一人さえ決められない男であるのに。


 ウルジャは不満気に目を細めて黒瑛を睨むと、ついと采夏に視線を移した。

 鼻歌でも歌いそうな楽し気な雰囲気で、手際良く茶を用意してる。


 ウルジャは幼い彼女の成長した姿に、胸が高鳴るのを感じていた。

 美しい人だと思った。彼女と共に草原を馬で駆け、天幕の中で茶を飲み、語らえたらどれほど楽しいだろうかと、思えるほどに。


(采夏は皇帝の妻の一人として囲われていることをどう思ってるのだろうか……)

 采夏はウルジャのどこか熱を帯びた眼差しにも全く気付いていない様子で、茶の準備に集中している。

 采夏の手元には茶葉の他、棗椰子やシナモンなどが見えた。三道茶を作るのにかかせない香辛料。


『大切な客人には三道茶を振る舞うのです』

 先ほど采夏が言った言葉が過ぎる。

 それは以前、ウルジャが采夏に教えたことだ。

 大切な客人には、三道茶を振る舞う。

 ふと、そういえば呂賢宇に、三道茶を振る舞ったことはなかったなと思い出した。

 もともと茶不足だから振る舞おうにも振る舞う茶葉ないといえばそうだが、交易が再開してその心配も無くなった。

 だが、何故か三道茶を振る舞おうと言う気持ちにならなかった。

 何故だろうか。


「はい、準備できました。まずは一服目、苦茶です」

 物思いに耽っていたウルジャの近くで声がした。

 濃い茶色をした碗を掲げている采夏だった。どうやら茶の準備ができたらしい。

 テト族の茶は、青国と違って茶葉を煮込んで茶の汁を作る。

 どれほど濃く入れたとしても、ヤクの乳を加えてまろやかにするので濃いぐらいがちょうど良くなるからだ。

 だが、三道茶の一服目、苦茶にはヤクの乳を入れない。少しの塩と茶汁のみ。

 当然その味は……苦い。

 ウルジャは一服目を口にした。

 予想通り、刺すような苦味と渋みが口の中に広がる。

 あまりの苦さに眉根を寄せると、青国の茶馬交易がなくなり、茶が手に入らなくなった時代のことを思い出した。


 いつも強く逞しかった父の、うなだれた背中を思い出す。

 ウルジャのはじめての苦い記憶。

 そこから今日に至るまでテト族は苦しい生活を強いられた。

 深い苦味にうなりそうになるのを少し堪えて、再び苦茶を口にする。


 ヤクの乳たっぷりのバター茶を好むウルジャは、正直苦茶はあまり好きではない。

 それでもお茶が飲めない時は、この苦味が欲しくてたまらなかった。


 遊牧生活で食すものの中心は肉や乳製品。

 重くなりがちな胃の中を、さっぱりとさせてくれる茶の苦味は、ウルジャ達テト族の生活には必要不可欠なものだった。


「それでは、次は甜茶です」

 采夏に新たに勧められた碗を受け取る。

 先程の苦茶を少し薄められた茶にはチーズが入っているのか、白っぽいものが浮いている。それに香から察するに生姜も入っているようだった。そして碗の底には、小さな塊が見える。

 一緒に渡された匙で掬ってみると、クルミの実がころりと茶から顔を出す。

 ウルジャはそのクルミとともに、甜茶を口に入れた。


 最初に感じたのは、先程の苦味を吹き飛ばすほどの甘さ。

 甘さのもとは、紅糖に蜂蜜。そのコクのある甘さに、ウルジャの頬は思わず緩んだ。

 茶に浮かぶまろやかなチーズには塩みがあり、より一層紅糖の甘さを際立たせていた。

 そして口の中のくるみを咀嚼する。

 茶とともに煮立てられて柔らかくなったくるみの実をカシュカシュと噛み砕くと、甘さの中に木の実独特の香ばしさが加えられ、より複雑な味わいとなる。


 そして思い起こすのは、茶葉と馬の交易のためにはじめて青国に訪れたこと。

 はじめての他国への旅は、幼いウルジャをワクワクとさせた。

 他の遊牧民族の中では、交易の荷を運ぶ役割を別の商人に任せる部族もいたが、テト族はそれらを全て自分達で行なっている。

 青国に馬を渡すときは、少し遠回りだが山の足元の悪いところを迂回し、馬でも安全に進める平坦な道を歩む。遠回りにはなるが、馬とともに行くため、それほど時間はかからない。

 馬を引き連れて青国にやってきたウルジャは、山の向こうの国の人々の暮らしや、自分達とは違う服装、髪型、建物、雰囲気に圧倒された。

 そしてそこで出会った少女にさらに戸惑うことになる。

 輝かしい笑みを浮かべて、お茶を飲みたいのだと言ってきた。

 テト族の大人達は、その少女の付き人のような者から何やら報酬をもらったようで、その少女の相手をウルジャがするようにと命じた。

 歳が近いからと言う理由だった。

 口では、なんで俺がなどと生意気なことを言った気がするが、本当はワクワクしていた。

 はじめての国で、はじめての出会い、幼いウルジャがこれで胸が高鳴らないわけがなかった。

 テト族の茶文化を得意気に語り、振る舞った。少女はどの話も興味深そうに聞いてくれて、最高の聞き手だった。

 甘いバター茶を飲みながら、楽しく語らうひととき。


「……甘い」

 思わず、ウルジャはそう口にした。

 甘く楽しかったひと時を思い出し、顔の険しさがすとんと抜けるのを感じた。


「そして最後は、回味茶です」

 幼い頃の面影を残しつつも、美しく成長した少女がそう微笑んで新しい碗を出し出す。

 懐かしい思い出に浸っていたウルジャは、ゆるゆると現実に引き戻されつつも、碗を受け取った。

 そして碗から漂うシナモンの独特な甘い香りに誘われて、どこか陶酔したような気持ちで茶を口にする。

 途端に口の中に複雑な味わいが広がった。

 紅糖の甘さ、蜂蜜のコク、生姜の辛さ、チーズの塩み、山椒の舌がぴりりと痺れるような独特の風味が押し寄せるようにしてやってくる。

 するとその刺激に誘われるようにして、再び幼き頃の記憶が蘇った。

 はじめての青国でであった少女との楽しいひと時。しかし、出合いには必ず別れがつきまとう。

 采夏は父親と共に帰っていった。

 ウルジャ達も翌日の早朝には、青国を立った。

 馬に乗ってやってくる行きとは違い、帰りは茶葉を背負って峠を越える。

 茶は竹で編んだ細長い筒状の物に、茶葉を固めたものを詰め込む。一束で二歳程の子供の体重と同じくらいの重さのそれを、大人達は十二束ほどをまとめて背中に背負う。

 自分の体重以上はある重さを背負いながら、杖をついて歩くのだ。

 まだ子供だったウルジャはそれを五束背負った。大人達に比べれば少ないが、それでも重たい。

 初めは一人前になった気がして誇らしかった。

 しかしその威勢は続かない。腰掛けやすそうな岩場を見るたびに、休みたくなる。

 だが、一度座り込んでしまうと、もうこの重い荷を背負っては起き上がれない。

 たまの休憩も背負って立ったまま、杖に体重をかけて休むしかない。

 そうやって、一歩ずつ、足場の悪い山道を進んでいく。

 何故ただの茶のためにこんな辛いことをしなくてはいけないのか。

 背中に背負っているものを全て投げ出して、寝転がってしまいたい衝動に駆られる。


「馬さえいれば…」

 ため息混じりに思わずウルジャの口から嘆きが漏れる。

 こんな重いものを運ぶこと自体が馬鹿らしい思いだった。馬を連れて行けばよかったんだ。

 そうすれば、馬に荷をのせて、少しでも楽ができる。


「我らの馬は勇敢だが、それでもこの道は渡れない」

 上から声が降ってきて、思わず顔を上げると、父の顔があった。

 ウルジャの倍以上も荷を背負っているというのに平気そうな顔をしている。

 その父がチラリと視線を横に向けた。

 ウルジャも一緒になって同じところを見ると、思わずうっと唸る。

 空が近い、眼下に小さくなった木々が見える。

 疲れで気づかなかったが、ウルジャ達は切り立った崖のようになっている細い道を歩んでいた。

 確かにこのような高所で足場も悪いとなれば、馬は怯えて歩けない。


「人は馬ほど早くは走れないし、力もない。だが、意志の力で恐怖に打ち勝てる生き物は人だけだ。誰かのためなら、どんな場所でも歩むことができる」

「誰かのためなら、どんな場所でも…」

 父の言葉には重みがあった。父の言いたいことは分かる。

 それでも今のウルジャには辛さが勝る。もう体力は限界に近かった。外に向けっていた視線を再び地面に戻す。


「疲れたか?」

 声を出す気力もなくて、かろうじて視線だけを向ける。


「辛いだろう。だが、俺達の帰りと、茶を待つもの達がいる。分かるか?」

 ウルジャは何も答えられない。


「茶がない時代の我らは常に病に悩まされ、体はとても脆かった。だが、茶のおかげで、健康を得た」

 遊牧の暮らしをする彼らの食事は肉食生活中心で、栄養面で大きな隔たりがあった。

 そのため病を得やすく、短命だった。子供達も成人まで行くものの方が圧倒的に少ない時代だった。

 しかしお茶は遊牧生活で不足しがちな栄養面を補ってくれる。


「いいか、ウルジャ。我らが背負っているものは、命だ。母や妹達の命のために我らは歩んでいる」

 そこでやっとウルジャは顔を父に向けた。

 ウルジャの倍ほどの量のものを背負いながら、父は微笑んでいた。


「前までは、私はお前の命ものせて歩んでいた。今日は、そのお前が私の背ではなく隣で歩んでいることが、誇らしい」

 息が詰まった。


 普段無口な父の言葉と久しぶりに見た微笑みが眩しく感じて、何故か泣けてきた。

 それをごまかしたくてウルジャは再び顔を背ける。


「というかさ、なんで帰りは、峠越えなんだよ。行きと同じ道にすれば、もう少し歩きやすいのに…」

 ウルジャが気恥ずかしさを押し隠すように、わざと生意気な言葉を口にする。

 頭上で少し微笑んだ気配を感じた。


「確かにそうだが、遠回りに過ぎる。峠の道は険しく危険だが、早く草原に戻れる。少しでも早く、家族の元に戻りたいだろう? 家族もまた我らの帰りを待っている」

 いつもは見せない優しげな語り口に幼いウルジャは父が口にした家族という言葉に、草原で待つ母や妹弟達を思った。


 そうだ、家族が待っている。命を運ぶ自分達の帰りを……。

 かつての思い出から現実に戻ってきたウルジャは静かに空になった碗を卓の上に置いた。

 回味茶の複雑な味わいに、ウルジャは茶葉の運び手として初めて仕事をしたことを思い出していた。

 何度も投げ出しそうになった。何度も倒れそうになった。

 それでも家族のもとにたどり着いた。


 体力がありあまり根拠のない自信に満たされて歩めるのは最初だけ。

 次第に疲れが積み重なって先の旅路を悲観する。

 何度も諦めそうになってそれでも誰かを思って進み、そして最後には無心になる。


 そうしてたどり着くのだ。

 茶葉を背負っての山越えは、人生の追体験を味わえる。

 回味茶は、人生を思い返すお茶だ。

 ウルジャにとってあの山越えは、人生を思い返すに等しい体験だった。

 そして改めて父の言葉が胸を打つ。


「少しでも早く、家族の元に……」

 遊牧生活を送るために、決まった住居を持たないテト族にとって、家とは家族がいる場所そのもの。

 だからこそ、絆が深い。

 だが、今は、テト族の若者は呂賢宇によって家族の元から引き離されている。

 茶のために、家族の命のために、茶葉を手に入れるために青国にきている。

 しかしそれは本当に家族のためになるのだろうか。


「どうかしたのか?」

 正面から低い男の声がした。

 視線を上げれば訝しげな顔をしてこちらを見る皇帝と目があった。

 三道茶を飲んでから物思いに耽るようにして言葉を発さなくなったウルジャのことを気にかけているようだ。


(こいつは、純粋な茶馬交易をしたいと言っている。呂賢宇のように、テト族の若者を青国にとどまらせようとしていない)

 ウルジャは値踏みするように黒瑛を見つめた。

 ウルジャとそう変わらない年齢に見えるが、黒い瞳には意思の強さを感じた。

 いくつか修羅場を超えてきている者だけが見せる瞳の強さだ。

 意志の力だけで恐怖に打ち勝つことができるのは人だけだと言った、父の言葉が浮かぶ。


「おかわりいりますか?」

 ワクワクとしたどこか呑気な声がした。采夏だ。

 さきほどから何も言葉を発しないウルジャを見て、お変わりが欲しいけれど欲しいといえないとでも思ったのかもしれない。


(そうだ。この男は、采夏を……)

 黒瑛は愛する人を一人に決めきれない男だ。

 青国と手を結び直すことに傾きかけていた心がまた反対の方に振れる。


「あ、陛下も三道茶を飲まれますか?」

「いや、今回はやめておこう。まだ、冷茶も残っているからな」

 皇帝と采夏の会話がふと気になってウルジャは顔を上げた。


「お前も、三道茶を飲んだことがあるのか?」

 突然話しかけてきたウルジャに驚いたのか、黒瑛は少し目を見開いた。


「ああ、まあな。なかなか上手いな。苦茶は普段飲んでる茶と比較的近くて馴染み深いが、色々加えて甘みの増した甜茶が気に入った」

「甜茶を……」

 ウルジャはそれを聞いて、ハッとした。

 彼を試すには、これが一番かもしれないと。


「なら、甜茶を飲んだ時に思い描いたものはなんだ? 何が浮かんだ」

「思い描いたもの? なんだ突然……」

「いいから、答えろ」

 訝しむ皇帝が焦ったくてそう急かすと、坦が「無礼な!」と言いながら立ち上がり、何故か采夏の顔色がうっすら赤くなる。


「ど、ど、どうしたのですか? ウルジャお兄様、そんなことを突然」

 何か言いたげな坦と采夏を手で制したのは皇帝だった。


「よくわからないが、聞きたいなら別に答えてやる」

 皇帝がそういうと、しぶしぶという顔で坦は姿勢を正した。

 そして皇帝がその形のいい唇を開ける。


「甜茶を飲んだ時に思い浮かんだのは、采夏と出会った時のことだ」

 なんてことないように答えた皇帝の隣で、先ほどうっすら顔を赤らめていた采夏の顔がますます赤くなった。

 しかしそれに気づかずに、皇帝は話し続ける。


「甜茶の甘い味に触れた時、ふと、采夏の顔が浮かんだんだ。采夏と出会ったのは、後宮の中庭だ。大きな石を卓代わりにして茶を飲んでいた。そして私に茶を淹れてくれた。……甜茶を飲むと、采夏の微笑みが浮かぶ」

 穏やかな顔でそう言ってのけた皇帝に嘘の色は見えない。

 そもそもそんな嘘をつく必要もない。

 ウルジャは皇帝の言葉を聞いて、呆然とした。

 しばらく言葉にならなかった。


 なにせ、いきなり目の前で皇帝は惚気始めたのだ。


 甜茶の意味を知るウルジャにとって、皇帝の言葉はただの惚気にしか聞こえない。

 しばらく言葉にならずに目を見張っていたが、しみじみと甜茶の味に思いを馳せている様子の皇帝に思い切って声をかけることにした。


「……三道茶の二服目、甜茶が示す意味を知ってるか?」

「いや、知らない。そういえば、采夏が三道茶はそれぞれ意味があると言うようなことを言っていたような気がするが……」

 顎に手を置いて首を傾げる。

 そして視線が采夏に注がれた。

 采夏はビクッと肩を震わせると、逃げるように視線を皇帝からはずす。


「わ、私、ちょっと、意味を忘れてしまって……」

 もごもごとそう口にする采夏に皇帝は「ああ、確かそんなことを言っていたな」と言っているが、ウルジャには采夏が嘘を言ってることが丸わかりだった。

 甜茶が示す意味を知らなければ、あんなに顔を赤くさせるわけがない。


「……フッ! ククク、クク」

 思わず笑声が漏れる。

 そうか、そう言うことかと、小さく一人で納得する。

 采夏から非難じみた視線を感じたが、それもまたおかしくてウルジャの笑い声は止まらない。

 ウルジャが甜茶を飲んだ時も、幼い頃に出会った采夏の姿が浮かんだ。

 甜茶は人生における喜びを表す。

 ウルジャも甜茶を飲んだときに采夏を思い描いた。つまりウルジャにとって采夏は喜び……つまり初恋だった。

 だからこそ、采夏が皇帝の妻の一人とされていることに嫌悪感を抱いていた。

 そして同じく甜茶で采夏の姿を思い浮かべた黒瑛もまた……。

 最初こそ、黒瑛のことを大切な人を一人に決めきれない優柔不断な人として信用ならないと思った。

 だが違うのだ。皇帝は決めている。

 形はどうであれ、心ではすでにもう大切な人を一人に決めているのだ。

 つまりウルジャと黒瑛は同じ。同じ人を愛している。

 それだけで何故か、今まで警戒していた気持ちが解れてきた。


「なんだ? 何かおかしいことを言ったか?」

 戸惑う黒瑛の声に、ウルジャはようやく笑いを引っ込めた。

 とは言え、顔がにやけてしまうのは止まらない。

 なにせ、あんなに堂々と惚気た姿を見せつけられたのだから。

 いやもしかしたら、こうもあっけなくこんな形で失恋してしまった自分の情けなさに笑っているのかもしれないが。

 にやけそうになる顔を抑えながらウルジャは口を開く。


「別に、おかしいことは言ってない。いや、言ってるのか……? まあ、いい。青国との茶馬交易を再開させたい。……呂賢宇との取引はやめだ」

 黒瑛はウルジャの言葉に目を見張った。

 突然笑い出したかと思えば、唐突に交渉がまとまったからだ。


「取引? テト族は呂賢宇と何か取引をしていたのか?」

 黒瑛が慎重に尋ねると、ウルジャは頷いた。


「……呂賢宇からは、青国の皇帝は、茶を国内に独占しようとしているという話を聞いた。そして、内密に茶を融通しようと持ちかけられ、独自で茶馬交易を行うことにしたんだ。馬一頭に対して茶葉五十斤。そして俺達テト族の若者に対する労役だ」

 ウルジャの言葉に黒瑛は目を見開いた。

「あいつめ、なんて、勝手に……。いやそれよりも、それが本当なら、呂賢宇の目的は……」

 そう言って、黒瑛は後ろを向いた。先ほどから静かに事の成り行きを見守っていた片眼鏡の男、陸翔だ。


「陸相、呂賢宇の目的が、わかったか?」

「ええ。ずいぶんとだいそれたことを考えますね。その様子では陛下も気づいたようですね」

 二人で、何やら頷きあっているが側に控えていた大男だけが困惑した顔をしていた。


「へ、陛下、失礼ながらお伺いしても良いでしょうか! だいそれたこととは一体……?」

「奴の狙いは、おそらく帝位の簒奪だ」

「さ、簒奪!?」

 あまりのことに大男の声が裏返った。


「馬は力だ。そして青国にはその力が不足してる。うまくやれば、武力で帝位を簒奪することもできなくもない。少なくとも、呂賢宇はそう考えたんだろうよ。まだまだ遠くまで目が行き届かず、整備の追いつかない今を狙ってるあたり策士だな」

「あ、あんな、いつもゴマを擦ってくるような小物感あふれるあの男がですか!?」

「そうだ。アイツは、無害な顔して、とんだ野心を抱えてる」

 そう呟いた黒瑛は改めてウルジャを見やった。少しだけ剣呑な雰囲気が和らいでいる。


「感謝する。お前のおかげで事前に呂賢宇の思惑を知ることができた。まあ、後は証拠をつかむ必要があるが……。それにしてもウルジャ、何故いきなり俺の提案にのった? 信用できないといっていたではないか」

「単に、ちょっと考えが変わっただけだ。……甜茶を飲んで思い描いたものが一緒なんだ。悪いやつではない。なかなか気も合いそうだしな。……少なくとも、女の趣味は合う」

 微かに笑いながらそう答えるが、黒瑛は意図が読めずますます首を傾げる。

 隣の采夏だけが、びっくりしたような顔で目を見開いていた。


(俺の入り込むよちはないかもしれないが、少しは意識してもらわないとな……)

 ウルジャは采夏が顔色を変えたのを見て少しだけ気がすくような思いがした。


「まあ、良いと言うならこちらとしてはありがたい。だが、茶馬交易を再開させる前に、呂賢宇をどうにかしないとならない。しばらくは今日の話し合いのことは悟られぬようにしてほしい。奴に気づかれる前に、やつを捕らえるだけの証拠を集めたい」

「分かった。俺に何かできることがあれば言ってくれ」

「感謝する」

 黒瑛がそういって強く頷き返すと、側にいた坦が扉の方へと歩み寄った。


「陛下、そろそろ賢宇が戻ってきそうです。足音がします」

 扉に耳をくっつけて外の音を拾う坦の言葉に黒瑛は渋い顔をする。

「戻ってくるか。もう少しゆっくりしてくれてもよかったんだがな」

 と応じると、坦が手早く卓の上の茶を片付けていく。

 呂賢宇がでて行く前までの状態に戻すつもりなのだろう。

 ウルジャも扉の近くの壁の前に背もたれた。


「そういえば、甜茶は何を意味するんだ? お前は知ってるんだろう?」

 皇帝がふと思いついたようにそうウルジャに尋ねてきた。

 再び冷茶を碗に注いでいた采夏の動きがピタリと止まる。

 それを見てウルジャは苦笑いを浮かべた。


「……それは采夏に聞いた方がいい」

 再び采夏の顔色が赤くなる。

 黒瑛は彼女の変化に気づかず、答えてくれないウルジャを不満そうに見やる。

 何か言おうとしたところで、扉が開いた。


「大変申し訳ありませんでした! 突然、お腹の調子が……」

 そう言って、笑顔を浮かべた呂賢宇が帰ってきた。

 黒瑛はウルジャへの追及を諦めたようで、呂賢宇に対して嘘くさい笑みを浮かべ返した。

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