第10話黒瑛は陸翔の絵に謎をみる

 後宮があり、皇帝や宦官などが生活する場所を、青禁城セイキンジョウと呼ぶ。

 青禁城は大きな壁に囲まれ、その中に800棟を超える建物があり、そこだけで一つの町として営めるほどの広さだった。

 そしてその青禁城の東側にある陵良殿リョウリョウデンが、主に皇帝が寝食を行う住処である。


「陛下、本日の朝議の件ですが……」

 寝台の周りに掛けられた御簾(ミス)の向こうから、この世で最も嫌いな男の声が聞こえて、皇帝・黒瑛(コクエイ)はおもわず眉をしかめた。

 側仕えの坦(タン)が用意した衣服に袖を通しながら、黒瑛は口を開く。


「朝議がどうしたって?」

「本日も陛下が目通りに値するような議題はないようですので、わたくしめが代わりに。

 陛下はここでいつも通りゆるりとお過ごしください」

 そう黒瑛に進言したのは、いつも通り秦漱石(シンソウセキ)だった。

 御簾越しな上、相手は頭を下げており、どのような顔をしてそう言っているのかは見えない。

 だが、黒瑛には、この男が馬鹿にしたような笑いを浮かべていることが手に取るように分かった。


(けっ。毎度毎度、遠回しな言い方をしやがる。俺を朝議(チョウギ)に出したくないなら、お前は邪魔だからここにいろってはっきりと言えばいいものを)


 黒瑛は心の中で毒づくも、決して口にはできない。

 口にすれば、秦漱石はどんな手を使ってでも黒瑛を排除しようとするのは目に見えている。


「……わかった」


 黒瑛は、己の感情を殺してそう答えると、秦漱石はかしこまって一礼したのちにその場を後にした。


「……ただの宦官ごときが、なんと無礼な!」

 秦漱石が去ったあと、側仕えの男、坦(タン)が苦虫でもかみつぶしたような顔でそう言った。

 その顔が、黒瑛の忌々しい気持ちを代弁してくれたかのようで思わず笑みが浮かぶ。


「今は、しょうがねえ。……だけどいつまでもあいつの思い通りにはさせねぇさ。……それで、陸翔(リクショウ)から他に何か便りは届いたか?」

 黒瑛がそう尋ねると、坦は大きな体を申し訳なさそうに丸めて首を振る。


「いいえ、残念ながら、先日送られた一枚の絵図以外にはなにも……」

「そうか……」

 黒瑛は落胆とともに息を吐き出す。


 黒瑛は以前、秦漱石打倒のため、陸翔(リクショウ)という元高官に協力依頼の文を送っていた。

 そしてその陸翔から返事がきたまでは良かったが、返ってきた答えは陸翔自身が描いたと思われる梅、菊、蘭の三種の花が一枚に描かれた絵だけ。


 芸事に精通し、画家としても評価されている陸翔が描いた水墨画は、繊細で素晴らしいものではあった。

 だが、他に文はなく、言伝もない。


 協力要請に対する答えとしては、謎に包まれている。

 黒瑛は正直、途方に暮れていた。


「これは協力はできないっていう、遠回しな断りなのか……?」


 陸翔は、知を知り、仁を重んじ、礼を心得る優秀で清廉な文官で、兄の士瑛が生きていた頃は打倒秦漱石に向けて支えてくれていた。


 しかし、その清廉さゆえに秦漱石に睨まれた陸翔は、都から離れた場所に追いやられてしまった。

 陸翔と言う優秀な官吏が宮中から離れたことで、秦漱石を筆頭に宦官達はより力を強め、宮中はさらに乱れる結果となった


「だが、どうしても陸翔の協力が必要だ」


 噛みしめるようにうめく黒瑛を、坦は気づかわし気に見つめた。


 現在の朝廷には己の私服を肥やすことしか考えない宦官ばかりではあるが、彼らに不満を持つ官吏も少なからずいる。

 だがあまりにも秦漱石の力が強く、不満を言おうものなら、良くて左遷、悪くて死刑。

 そのため不満を抱きつつも行動に移せないでいる者が多い。

 そういった秦漱石の力を前にして動けずにいる者達をまとめるために、求心力のある能吏(のうり)が必要だった。

 それが陸翔だ。


 陸翔の協力を得られなければ、秦漱石を追い落とすことは難しい。



「もう一度、陸翔様に文を送られますか?」

「同じ内容のものを送っても、意味がねえだろうな。陸翔が俺への協力を断る理由だけでも分かれば、それを足掛かりにして何かしら提案をすることができるかもしれねえが……」

 しかし、その糸口になるものは、目の前に広げた絵のみ。


(陸翔のことだからきっとこの絵に、何かしら意味を隠していると思うが……)

 貢ぎ物などで絵を見る機会は少なくないが、詳しいかと言われればそれほどでもない。

 正直、この絵が意味することの見当がつかない。


「返事の意味が分からないなんて言ったら、陸翔は俺を見下げ果てて協力を得るなんて夢のまた夢だ。もしかしたら、陸翔は俺を試してるのかもな……」

「っ!! 陸翔様であろうと! 皇帝である陛下を試そうなどとは、なんと無礼な……!」

 黒瑛中心の坦は、思わず声を荒げたが黒瑛は落ち着けと言わんばかりに首を振る。


「そう荒げるな。秦漱石にいいようにされている俺を疑う気持ちになるのはわからないでもねえ」

「そのようなことおっしゃらないでください!! 陛下は、志のある立派な方です! 朝議で無礼を働いた私を助けてくださいました!!」

 図体のでかい男が暑苦しく目をキラキラさせてそう言うのを黒瑛が苦く笑って制した。


「助けた……と言うほどのことはできてねえさ。俺はただお前が死なないようにしただけだし」

「いいえ、陛下は命だけでなく、私と兄の礫に秦漱石を打倒する道まで示してくださいました!」


 そう訴える坦の言葉に、彼との出会いが思い出された。

 黒瑛の召使として仕える前の坦は、武官として国に勤めていた。


 誠実でまっすぐな性質の坦は、宦官が専横する今の宮中の状況に満足していなかった。


 そしてその素直な性格故に、『秦漱石は国の病の源、今すぐ罷免(ひめん)すべし』と無謀にも朝議にて直訴したのだった。

 その頃の黒瑛は、朝議には出てはいたが、秦漱石に逆らえない立場は変わらない。

 朝廷も秦漱石に牛耳られており、何かを決定する権利は持ち合わせていなかった。

 それを知っていてもなお、坦は皇帝に陳情したのだ。命を賭して。


 しかし案の定、但の発言を危険視した秦漱石の命で、その場で捕縛された。

 そしてその夜、牢に忍び込んだ黒瑛は坦を逃がしたのだ。

 それから但は黒瑛の側付き召使に扮して黒瑛の側に仕えることになった。

 今現在、黒瑛に味方と呼べるものは、この坦とその兄の礫だけである。


「まあ、示しただけで、目指す場所にはまだほど遠いがな」

 実際、秦漱石の専横政治は続いている。


「そ、そのようなことは……」

「そんな顔するな。別にあきらめたわけじゃねえよ。我ながら面倒事には首突っ込まない性質だったと思うが、良くも続くものだ」

「陛下の心のうちは、私がちゃんと分かっております! 投げやりな態度をとってるように見えても、心のうちでは熱い気持ちで満たされている、それが陛下なのです!」

「いや、熱い気持ちで満たされてって……どこの誰だよ」

 そう言って思わず黒瑛は苦笑を浮かべた。


 つい先日も、投げやりな気持ちになっていた。

 しかし、なんだかんだと投げ出さずに済んでいる。

 きっとそれは……。


(あの妃のおかげ、だな)

 黒瑛は数日前に出会った妃のことを想い出す。


 あのあと彼女の素性について少し調べさせた。

 西州の茶農家の娘ということだった。


 茶農家の娘だからあれほど茶に詳しかったのかと納得する部分もあったが、少し腑に落ちない点もあった。


 彼女の振る舞いや見識は、ただの田舎娘とは思えないものがあった。

 特に茶を淹れる際の所作は目を見張るものがあり、少しばかり見惚れてしまった。

 それに、自分に十分な落ち度があったのは承知しているが、宦官に扮した己を皇帝だとすぐに見抜ける観察眼も気になる。


(まあしかし、この後宮に良い家柄の娘が入るわけがないしな。

 茶好きの、ただの変わった娘、だったんだろうな……)


 采夏のことを考えながら、最後に彼女がお茶を貰った時に見せた本当に嬉しそうな笑顔を思い出して、思わず頬が緩む。



「最近、陛下の顔つきが少し変わりましたね」

 坦が呟くようにそう言った。

 黒瑛は思わず顔に浮かべた笑みをひっこめた。


「そ、そうか? ……変か?」

「いいえ、良い顔つきになられました! あ、別に普段も凛々しい顔つきでしたけども!」

「ふ……なんだそれ。でも確かに、最近、ちょっとやさぐれ気味だったからな……。実は前話した変わった后妃の……」

 そこまで言った黒瑛は、ハッとしたような顔を浮かべて坦を見る。


「そう言えば、陸翔は茶を嗜んでいたな。文人の中でも茶好きで有名だった」

 風雅を好み、詩文や絵画などを創作する文人たちの多くが茶を愛好しているが、陸翔はその中でも茶好きで有名だった。

 あまり日頃贅沢をしないのに、茶にだけはお金を惜しまないと聞いたことがある。

 それに現在陸翔が、隠遁している場所も有名な茶の産地だ。


「ええ、確かに、陸翔様は茶好きとして有名ですが……」

 坦が不思議そうな顔をして黒瑛を見ると、彼は笑っていた。


「なら……彼女のもとを訪ねてみるか」

 そう言った黒瑛の言葉には、どこか楽しそうな響きが含まれていた。

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