第8話玉芳はお茶を飲む
(確か、アタシ達と一緒に後宮入りした妃の……。確か名前は、采夏、だったかしら……私を守ってくれた、の……?)
なんとかそう理解したが、玉芳も含め他の妃達も突然の采夏の行動に反応できないでいた。
そんな中、采夏が一人嬉しそうに湯を受け止めきった茶海を抱え、
「ありがとうございます。助かりました」
と笑顔で言うものだから玉芳はさらに戸惑った。
(な、なんでこの人が礼を……!?)
先ほどから采夏のやることなすことが理解の範疇を超えている。
誰もが呆然とする中、何もなかったかのようにウキウキとした様子で自分の席に戻ろうとする采夏に、やっと慌てて声をかけた者がいた。
「お、お前、な、なにをしているの!?」
貞だ。
「すみません、少しお待ちになっていてくださいね。お茶を淹れたくて……」
采夏は、振り返ることなくそう言うと、自分の席まで歩き、そこに置いてあった蓋つきの茶碗ーー蓋碗(ガイワン)にお湯を注ぎ入れた。
その行動にもみんながあっけにとられた。
あの貞花妃が呼び止めたのにそれに応じないとはなんと恐れ知らずなのか、と。
「はあ、良い香り。やはり朝一番はあつあつのお茶が格別ね」
うっとりするように言った采夏は、ようやく後ろを振り返って貞を見た。
「それで、何か私にご用でしょうか?」
朗らかに微笑んで、そう言った。
「な、何か、ご用って……! お前、わらわを誰だと思っているの!?」
「貞花妃様ですよね。あ! 本日はお招きいただきありがとうございます」
そう言って、采夏はなんともないように四大最上級妃に対する礼をとる。
その所作はお手本のように美しかったが、貞の怒りは収まらない。
「私が誰だか分かっているのによくも……死にたいの!!?」
「え、死……? もちろん死にたく無いです。まだまだ私には腹に納めなければならない茶がありますから」
「何、意味の分からないことを言ってるの!? わらわの邪魔をしてただで済むと思っているの……!!」
「邪魔? 私、何か邪魔をしてましたか?」
「わらわはこの嘘つきに、罰を与えるところだったのよ!」
そう言って貞が玉芳を指さしたので、采夏もそちらに視線を向けた。
「嘘つき……?」
「そうよ! 二胡の名手だと言っていたのに、つまらない演奏を私に聴かせた罰よ!」
「まあ、そのようなことが……」
そう言って、采夏は、不躾にジロジロと玉芳を見た。
しばらく采夏は、そうして玉芳を見つめた後、笑顔で貞花妃と向かい合った。
「貞花妃様、彼女は本物の二胡の名手です。お茶のお供に二胡を聞くのも大好きで、二胡弾きの知人を幾人か知っていますが、皆様総じて同じ特徴をお持ちでした。左手の指です」
そう言って、采夏は玉芳の指を示した。
確かに、その指の皮は厚くなっている。
「弦を押さえるため、二胡を弾く方は左手の指先に豆ができやすい。この方は、何度も豆をつぶして皮が厚くなっています。たくさん二胡の鍛錬を行っている証ですね」
そう言われて、改めて玉芳も自分の指を見た。
弦を押さえる指先だけが厚い。
それもそうだ。玉芳は、言葉の通り『血のにじむ』ような努力をして二胡が満足行くまで弾けるようになった。
豆ができても弾き続け、豆がつぶれて血が滲んでもなお二胡に触れた。
この指先は、玉芳の努力の賜物だった。
「何を言うかと思えば! 実際に彼女の演奏はひどいものだったのよ!? 二胡の名手なはずがない!」
貞にそう言われて、玉芳はさっと青ざめた。
(あー、そうくるよね……采夏妃がなんて言ったって、今、私は満足に二胡を弾けない……。ああ、せめてもうちょっと遅い時間だったら、私の二胡で黙らせてやるのに!)
貞花妃の性格上、今弾けないなら不要だと玉芳を罰してくるだろうことは予想がついた。
「……ああ、今は、きっと、そうでしょうね。でも、ちょっと待っててください……これさえあれば」
そう言って、采夏は、先ほど湯を注いだ蓋碗(ガイワン)の蓋を少しずらして小さな茶杯に薄黄緑の茶を注いだ。
青々しく爽やかな匂いが部屋の中に広がる。
(あれは……お茶、よね? いい香り。貞花妃の怒りを慰めるために淹れたのかしら?)
玉芳はそう推測したが、采夏はお茶が注がれた茶杯を持ってまっすぐ玉芳の方に向かってくる。
(え? なんで、こっちに!?)
「こちらのお茶をぜひお飲みになって」
「え? でも……」
「きっとあなたの体がこれを求めています」
采夏の口調は穏やかなのに、何故か有無を言わせぬ力を感じて、玉芳は言われるままに茶杯を手に取った。
(そう言えば、さっきこの茶の匂いを嗅いでから、めちゃくちゃ喉が渇いてきたような気がする……)
先ほどから采夏の行動には戸惑うばかりだったが、不思議とこのお茶の香りを嗅ぐうちに落ち着いてきた。
周りの妃達の戸惑い、貞花妃の視線、全てが遠くに感じる。
そして、玉芳は、茶杯に口をつけた。
熱い。
舌の上に、熱いものがころがり、玉芳は目を見開いた。
そして熱さの次にきりりとした鋭い苦味が優しく玉芳の舌を撫でる。
それと同時に、体の中から何かが沸き立つのを感じた。
体中の毛穴と言う毛穴が開き、そこから、茶の風が吹き抜けてゆくようで……。
玉芳は、旅芸人として、初めて舞台に立った時のことを想い出した。
人前に出された時に感じた恐怖、そしてそれを上回る高揚感。
この時のためにずっと血のにじむような練習をしてきた。
何度も何度も自分の納得のいくまで自分の体に二胡の弾き方を教え込んだ。
自分の体をいじめ抜いて身に着けた二胡の技術は、自分を裏切らない。
そう、信じて。
そして体はいつも応えてくれた。玉芳の努力に。
体中の毛穴が開いて、鳥肌が立つ。
体が目覚めてゆくのを感じた。指先に血が通う。
いつも玉芳を裏切らず支えてくれる、この体が目覚めてゆく。
気づけば、ずっと感じていた重い頭痛も消えていた。
体のだるさもない。
「ちょっと! さっきから貴方は何のつもりなの!? わらわに逆らうつもり!?」
貞花妃の怒声が聞こえた。
玉芳は再び、二胡を手に取る。
「逆らうつもりなんてありませんよ。ただ貞花妃が二胡を聴きたいみたいだったので、手伝っただけです」
采夏の相変わらず動じない穏やかな声。
玉芳は、二胡を抱え、その弦に指先を這わせた。そして弓を引く。
「何を言って……え?」
貞が再び怒鳴ろうとしたところで、澄んだ音色が響いた。
玉芳が奏でる二胡の音だ。
それは清流のように淀みなく流れ、自由で瑞々しく響く。
その旋律は、見世物屋でよく扱われる恋愛物語の挿入歌。
貧しい出の女が己の美貌と知恵で権力者を虜にし、どんどん成り上がっていく物語。
大衆向けの物語に使われる音楽であるため下品と揶揄されがちな曲であるにもかかわらず、
玉芳が奏でるその音には、どこか気品さえ感じられた。
玉芳が二胡を奏でる間、誰もなにも言えないで聞きほれていた。
あの貞花妃さえも。
そうして玉芳は最後まで演奏し終えると、深々と頭を下げた。
「さすがです。素晴らしい演奏でした。こんな素晴らしい二胡を聴きながら飲むお茶は格別ですね」
采夏がそう言うと、他の妃達もハッと我に返って口々に玉芳の腕前を褒めたたえた。
その中には、自分の置かれた立場もうっかり忘れた貞の取り巻き達もいる。
貞も我に返り眉を吊り上げて何か言おうと口を開くが、何も言えずに口を数度パクパクさせたのみ。
流石の貞もあの演奏を聴いた後でこき下ろす気にはなれなかったのか、悔しそうに唇を引き結んだ後、背中を向ける。
「そ、そんな風に弾けるなら、最初からそうすればよかったのよ! 今日はもう戻るわ!」
そう言って、貞花妃は逃げるようにその場から去っていった。
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