第7話玉芳は二胡を弾く

「ああ、本当につまらない!」

 そう言って、苛立ちが頂点に達しつつあった貞花妃は、目の前でつたない踊りを見せる妃に手に持っていた扇子を投げつけた。

 最初は不出来な妃達の無様なさまを見て楽しんでいたが、飽いたらしい。


「……キャ!」

 と、扇子を投げつけられた妃が小さく悲鳴を上げて尻餅をつく。

 扇子の当たった額は赤くなっていた。


「この私にそんな見苦しいものを見せてこないでちょうだい!」

 怯えた顔の妃を前に貞は激しく責め立てた。

 責め立てられた妃はとうとう泣き崩れてしまった。


 それを見ながら、新入り后妃(コウヒ)の一人―――玉芳(ギョクホウ)は内心大きくため息をつく。


(やっば。めっちゃイライラしてるじゃん。だいたい自分で何か見せなさいって言ってきたくせに、いざ見せたら怒るなんて、理不尽すぎでしょ。はあ、食うものに困らないってきいて後宮に入ったけど、これなら一人で旅しながら日銭を稼いで暮らしてた方がマシだったわ)


 玉芳は小さい頃に親に捨てられてから、旅の一座の一員として諸国を旅していた。

 方の国の血が入っている玉芳は、明るい髪色と青みがかった瞳をもっており、その美しい容姿と二胡(ニコ)の腕前で一座の稼ぎ頭にまで上り詰めていた。


 しかし、功安に着いたころに座長が病で倒れて亡くなり、もともと不景気で稼ぎも少なくなってきていたこともあり、一座の者は離散してしまった。


 残された玉芳(ギョクホウ)は、生活のために後宮に入ろうと選秀女(センシュウジョ)の試験を受けて無事に受かったまではよかったが、いざ後宮入りしてみると想像していた生活とは全然違う。


(意地の悪い女の掃きだめって感じ。朝も早く起こされるし……あーあ、今日も頭痛い)


 玉芳はそっとこめかみに指を置いた。

 朝はいつも、怠い。

 今日もひどい頭痛を感じていた。


「貞花妃様、あそこにおります玉芳妃なら、きっと花妃様のご期待に沿えますわ!」

 とりあえず適当に踊って見せて終わりにしようと、玉芳が思っていたところで、貞花妃にどやされていた新入りの妃の一人が、玉芳の方を見てそう言った。


 玉芳は思わずぎょっとして目を見開いた。


(ちょ!? マジで!?)


 内心焦る玉芳のことに気付かぬ様子の妃は、笑顔を貞に向ける。


「私、玉芳妃がそれはもう見事に二胡を弾くところを見ました。本当に素晴らしい演奏でした!」


 彼女の声を聞き、玉芳はやってしまったとばかりに目をぎゅっとつぶった。


(あー……たしかに見せたけれども!)


 玉芳は、確かに二胡が弾ける。

 旅芸人として活動する中で身に着けた技能である。

 後宮に入りして暇な時間が多いため、玉芳はよく二胡を弾いていた。

 そうすると他の妃が集まってくることもあったが、気にせずそのまま聞かせていて……それが裏目に出てしまった。


「へえ、二胡が弾けるの」

 貞花妃の吊り上がり気味の目が、玉芳を捉えた。


「お、お待ちください。私は確かに二胡が弾けますが、今は二胡を持ち合わせておりません」

「二胡なら、わらわのを貸してあげるわ」

 そう言って貞が顎をくいっと動かすと側にいた侍女が立派な装飾を施された二胡を玉芳の目の前に置いた。


(二胡、あるのかぁ……)


 玉芳は内心嘆いた。

 嘆いたが、彼女の嘆きを知る者はいない。

 貞花妃に弾けと言われて弾かないわけにもいかず、玉芳はしぶしぶ二胡を手に取った。

 左手で二胡抱え、右手に弓を持つ。


(せめて今が昼過ぎだったら……。正直に話す? でも、それで納得してくれるような人にも見えない……)


「何をしているの!? 早くしなさい! 貞花妃様の命令よ!」


 しばらく待っても弾きださない玉芳に、貞の取り巻きの妃達から催促が飛ぶ。


(こうなったら弾くしかない……)


 覚悟を決め、玉芳は二胡の弦を押さえ、弓を弾く。

 そして流れる二胡の音色。

 しかし……。


「もうおやめ!」


 しばらく演奏した後に、貞の怒声が響いた。

 眉を吊り上げて、玉芳を見下ろす。


「なんてひどい演奏! これで素晴らしい演奏ですって!?」

「も、申し訳ありません」

 そう言って玉芳は頭を下げた。


 頭を下げる玉芳を貞はきつく睨みつけた後、唖然とした顔で固まる先ほど玉芳が二胡が弾けると言った妃を見た。


「お前、わらわに嘘を言ったのね!?」

 貞にすごまれた妃は、ヒッと短く悲鳴を上げ、恨みがましい目を玉芳に向ける。


「どうしたの、玉芳!? この前私に聞かせてくれた時はもっと上手だったじゃない!?」


(そんなこと言ったって!)


 と玉芳は何か言い訳を言おうとしたが……思わず口を噤んだ。

 貞花妃が、その妃のもとに行きその髪を掴み上げたからだ。


「い、いや、いやーーー!」


 妃は頭髪が引っ張られる痛みで悲鳴を上げる。

 しかし貞は気にせず髪の毛を引っ張り上げたままその頭をガクガクと揺らした。

 さらに痛みで顔を歪めた妃の顔は真っ赤で、目には涙が零れ落ちた。


 あまりの痛々しさに、他の妃達が目を背ける一方、貞は顔には相手をいたぶることを楽しむかのように笑みを浮かべていた。


「ま、待ってください! その子は嘘を言ってません!」

 思わず玉芳はそう声を上げていた。


 貞はゆっくりと玉芳の方に顔を向ける。

 玉芳にはひどく冷たい顔に見えた。


「あら? なら、先ほどのお前の二胡はなんなの? お前が、わらわにわざわざ下手な演奏をしたということかしら?」


「そのようなことはございません! ただ、アタシは、朝に弱くて、この時間に弾くとどうしても手がもつれてうまく二胡を弾けないんです。もう少し、待っていただければ」

「だまり! わらわは! 今! 二胡の音色が聞きたいのよ!」

「ど、どうか、ご容赦くださいませ!」

 玉芳は慌てて頭を下げる。


 玉芳は確かに二胡の名手だ。だが、朝方は必ずひどい頭痛と怠さを覚える性質を持っていた。つまり朝に弱いのである。

 先ほども、どうにか奏でようとするも手先は思うように動かず、我ながらひどい演奏だった。


(ああ、なんで、あの妃を庇うようなことをいっちゃったのだろう! でも、あんなの見ていられないし……)


 玉芳にとって長い沈黙が続く。

 貞花妃の顔が怖くて見られない。


「ああ、そうだ。いいことを思いついた」

 玉芳の頭上から、先ほどとは打って変わって落ち着いた様子の貞の声が降ってきた。


 その柔らかな声色に期待をして、玉芳は顔を上げる。

 するとそこには、意地悪そうに口角を上げた貞が冷たく見下ろしていた。


「二胡も満足に引けぬその手、不要だわ。そう思わない?」

 貞の言葉に、玉芳はゾクッと背筋が凍った。

 何をしようとしているのか分からないが、嫌な予感がする。


 貞は、怯えた顔を浮かべた玉芳を満足そうに見つめると、自分の侍女に視線をよこした。


「火鉢にある鉄瓶(てつびん)を持ってきて。こいつの手に熱い湯をかける。二度とあんなひどい演奏ができないようにしてあげるの。わらわの慈悲よ」

 どこか、楽しそうに言う貞に、玉芳の頭は真っ白になった。


「そ、そんな! それだけはおやめください!」


 そう言って、思わず手を引っ込めようとした玉芳だったが、左右から貞の侍女がきて、玉芳の手を床に押さえつけた。


 そしてもう一人の侍女が、湯を注ぐ口から湯気のあがる鉄瓶を持ってくる。


「い、いや、やめて、まじで! マジでそれだけは……!」


 玉芳にとって、二胡の腕前は誇りそのもの。

 ここまで玉芳が生きてこられたのも、二胡の腕前があってこそ。

 何も持たない捨てられた子供が、旅芸人として身を立てるために血のにじむような努力をして手に入れた技能。

 玉芳にとって、二胡を爪弾くこの指は、命にも等しい価値がある。


(ああ、ひどい! こんなこと、こんなことで……!)

 必死に抗おうとしても、侍女二人がかりで動きを封じられて身動きが取れない。

 そして、もう鉄瓶は目の前にあった。


 侍女の手にあった鉄瓶が傾くその様が、ひどくゆっくりと見えた。

 これから己が失うものを思うと、正気でいられそうにない。


 しかし無慈悲にも、時は待ってはくれない。


 鉄瓶の注ぎ口から湯がこぼれて―――。

 思わず、玉芳は目を閉じた。


「まあ、とってもいい温度」

 突然朗らかな声が響いた。

 緊迫したこの場の雰囲気の中で、妙に浮いたその明るい声に玉芳は、そっと顔を上げた。


 そこには、茶海チャカイ――注ぎ口のついた器で、玉芳の手に掛けられるところだった湯を受け止めている妃が立っていた。


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